2008年1月15日(火曜日)

記録格差



先日このNOTEBOOK「年末年始・その7」に、正月3日に友人一家が来宅され楽しい一時を過ごした、ということを記した。
そのことについて、当の友人からこんなメールをもらった。

「素晴らしい友人一家と可愛い娘さんを
ハートフルに描いてくれてありがとうございます。
いや、ほんと。
あれは将来、娘も喜ぶね。」

描写がハートフルだったかどうかについて自信はないが、それより注目したのはここだ。
「将来、娘も喜ぶ」
将来?
自分に子どもがいないせいもあるだろうが、恥ずかしながらブログなどをそういうタイムスケールで考えたことがなかった。
もちろん、当ウェブサイトも開設からすでに10年が経過しており、自分で過去の文章を読み返すこともある。自分が監督したアニメーションを見ると胸が痛くなることしきりだが、文章はなぜか他人事のように読めるのが不思議。しかも、読んで面白い(笑)
「そうそうそうそう、そうだよね」
昔の自分の言ってることに共感してしまうのは、当然というべきか進歩がないというべきか。
34歳からの10年間、私にも小さくない変化は勿論多々あるし多少の進歩も実感できるが、30過ぎの人間が10年間で経験する価値観の変化は、コンピュータのOSにたとえればバージョンアップといったところだろう。おそらく今後10年、20年の変化にしても、OSが根底から書き換えられるといったことは考えにくい。
おそらく、生きていれば20年後も現在の私が書いたテキストを読み返しながら、こう思っているに違いない。
「まだまだ若いが、けっこういいことも言っておるのう」
未来においてこのウェブサイトに記されている内容は、それなりに財産になっていると思われる。それが昔を懐かしむためであれ、過去を知り未来に繋げるためであれ、糧になってくれると思いたい。
ま、ただの無駄話であっても全然かまわないが。
書いているいまが楽しいだけで十分以上のお釣りが来るというもの。

だが、誕生から10年、20年といったひどく劇的な変化を迎える人たちにとって、現在記録され続ける多くのブログやウェブサイト、そこに含まれる画像などは別の意義をもたらすように思える。
生まれたときからインターネットやブログ、携帯電話やデジタルカメラ、デジタル映像やハイビジョンなどなどが揃っている人たちに、それらが将来的にどういう影響を与えるのか。それは成長期の劇的な変化と同じくらいに予断を許さないもののように思える。
大きな影響の一つは自分の成長の記録を垣間見る機会が増えることであろう。
「あれは将来、娘も喜ぶね。」
まさにこの言葉に要約されている。
先に引用したメールに対して、私はこのような内容を返信した。

「食い意地の張ったブログと化しているが、たしかにどんなブログであれ「将来」という意義は少なくないのかもね。ブログが流行し始めてからまだ数年というところだろうけど、生まれたばかりの子どもが文字を読んで理解できる年頃になるくらいの年月が経てば、ブログの効果もまた変わってくるだろう。
我々が自分の子ども時代を思い起こすには写真くらいしかないけど、これから大きくなる人たちは、劣化のないデジタルの写真画像や映像、ブログなどのテキストなど色々な形で成長過程の断片を垣間見ることが出来る。
それが人格形成に与える影響は小さくないだろうが、少なくとも悪いことじゃないだろう。
記録を残してもらえなかった人は、そうでない人との比較で思うところはあるだろうけど。
まぁ、我々世代でも家が金持ちでハイカラだったら、8ミリの映像が残っているわけだし、格差はいつもあるわな。
しかし、これから出てくるんじゃないか。
「記録格差」
数年後には教育現場で問題になったりして。」

メールにもあるように、私が自分の子ども時代を客観的に振り返るためには、写真だけがよすがである。それらも色彩の劣化が著しいし、ごく子どもの頃は白黒写真だったりする。
たとえばこんな。

2yearsld.jpg

これは私が2歳の時の写真である。じき2歳になる、というくらいか。
昭和40年、札幌の中島公園内で撮影されたものらしい。
他に手元に残されている写真の数はわずかなもので、ましてやビデオなどの映像記録手段は無かったし、8ミリカメラなどは金持ちの物と決まっていた。子ども時代の自分の動く映像を見ることは出来ない。
自分が不能な赤子だったときの映像、両親に抱かれている映像などをいま見たらどんな風に思うのだろう。
さて、私が何気なく思いついた記録格差という考え方に対して、先方よりこんな返信があった。

「確かに我々世代でも写真の数の差だのなんだの
あったけれどもその比じゃないね。
しかも、誰もが動画の成長記録を持っている時代、
今は貧富の差よりも親の資質というか
やる気の差が記録格差の大きな要因になっていると思う。」

確かにあった。写真の数の差。
特に兄弟姉妹がお有りで、第2子以降に誕生された方はよく実感できるのではないかと思われる。
「兄ちゃん(姉ちゃん)に比べてどうして自分の写真は少ないのだろう」
うちもそうだった気がする。
だからといって私は別にいじけた覚えはないが、現在ほど記録媒体の種類が増え、記録される量も膨大になってくると、そこに生まれる格差は子どもをいじけさせるには十分なほどではないかとも思える。
量的な変化は質的な変化をもたらすものだ。
すでに家庭用ビデオカメラが普及して20年近く経っているのだから、そうした格差はすでに生まれているのかもしれない。どうなんだろう?
「今は貧富の差よりも親の資質というかやる気の差が記録格差の大きな要因」
なるほど。子を持つ親である彼の指摘は鋭いと思う。
貧乏で8ミリは買えなかった、という話ではない。誰でもが動画記録の媒体を使い得るし、デジタルカメラなら携帯電話にさえ付いている。現像・プリントの手間がかからないデジタルカメラは枚数を気にせずいくらでも撮っておけるだろう。
ということは、成長記録は「あって当然」ということになってくるのではないか。
もし記録があまり残されていない場合、子どもに感心がなかった親と判断される可能性は高い。無論、記録の量が親の愛情に比例するとは限らないが、世の大半はそうは思うまい。
ある子どもが、もしその成長記録があまり残されていなかった場合、どう思うかは想像に難くないだろう。

多くの成長記録を持つことが本当に重要なことかどうか、よく分からない。
私は「人格形成に与える影響は小さくないだろうが、少なくとも悪いことじゃないだろう」と安直なことを記しているが、自分の記憶の他に客観的な膨大な「記憶」を持つことが果たして本当に好影響だけなのかどうか、私にはうまく想像できない。
だって持ったことがないんだもん(笑)
しかしたとえば、反抗期で荒れた感情の時も、過去の記録映像や画像がその一服の抑制剤になることも考えられる。
「私は大事にされていたのだな」
そう思える物的証拠、というか外部記憶を持つ人とそうでない人では、たとえば反抗期のあれ方が抑制されるかどうか、極論すれば犯罪につながるかどうかという面などもで差が生まれるのではないか。
いまでは下火になっているのかもしれないが、若い人の間でプリクラが流行していた。友達同士である、という小さな記録がびっしりと敷き詰められたノートや手帳などを目にしたことがある。
あれは、のべつ幕なしに打ち続ける携帯メールやところかまわず喋り続ける携帯電話と同じで「トモダチとつながっている」という確認のための、ともすると強迫神経症みたいな印象も受けるが、自分の過去とのつながりだって重要にならないとは限らない。
そうした影響を考えることは非常に興味深いことだが、「あって当然」という世の中になったときの持たざる人が受ける影響が気にかかる。
何せ現代は「格差」ブームである。
収入の格差は教育の格差によって固定されて行くということで、「格差は遺伝する」とまで言われるほどだ。(将来読み返すかもしれない年寄りの私に向かって補足している。平成19〜20年はそういう時代だったのです、今老人よ)
記録の格差はそういう意味で教育の格差に似ているかもしれない。
親が社会的に成功を収めている場合、その多くは教育の重要性を知っているということになる。下世話に言えば勉強が出来たから自分はそれなりの暮らしが出来るようになった、だから勉強することは大事である。よって子どもの教育にもそれだけのリソースを投じられる。その子どもはおかげで学業優秀となって、高い収入を得られるポジションを獲得できる。
貧乏人の方は、子どもの教育に投じられるリソースでかなわないことも大きな問題かもしれないが、より大きな問題は教育や学習の重要性そのものを認識していないケースだろう。
それが「貧富の差よりも親の資質というかやる気の差が記録格差の大きな要因」という指摘に重なってくるように思える。
教育の格差が経済的な格差の固定につながるように、親の「やる気の差」が「記録格差」につながる。記録の量がもしも人格の豊かさにつながるとしたら、「人格格差」みたいなことも生まれうるのかもしれない。
そんなものは生まれないことを願いたいが、私はなんだか低周波のように影響してくるのではないかという気もする。
ここでさらに一枚の写真を紹介する。
先の写真から40年経ったこんな姿だ。

42yearsold.jpg

これは一昨年、2006年のヴェネチア映画祭に行った折、サンマルコ広場で撮影されたものである。じき42歳になるという頃だから、先の写真からちょうど40年後である。
何を食って私はこんなにでかくなったのだろう。
さて、先の写真と合わせてこれら2枚の写真を「原画」と考えると、この間には40年分の中割りが「動画」として入ることになるが、その記録=動画は最初から存在しないか、あるいは大半が失われているわけで、つまりは貧相な数の動画しか入らないことになる。
アニメーションにおける動きの豊かさは、動画枚数の豊かさに比例する傾向にあることを考えると、やはり間をつなぐための記録は豊かであった方がそうでない場合より、何かいいような気がしてくる。
やはり記録格差が人格格差につながるように思えてくる。

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