1998年7月11日(土曜日)

パーブルタウン



spinning


 のっけから例え話で恐縮である。

 例えばの話、君が昔のバイト先から仕事を頼まれたとしよう。
 既に勤めを辞めている君に頼んできたのは、「その仕事」は他でもない君が一番良く知っている内容だから、という納得のいく理由だ。
 真面目な君は他の仕事があるというのに遊びたい気持ちを抑え、時間を工面し快く引き受けた、としよう。だが明日からの仕事を前に、ふと報酬の話をしていなかったことに思い至り、気になって先方に電話を入れてみる。
 「ギャラ?無いよ。だって君がやっていた仕事なんだから最後までやってよ」
 資本主義の申し子である君は躊躇無く当然にこう言い放つであろう。
 「じゃあ、やらない」
 君を非難する人はいない。だろう?

 もう一つ例え話をする。

 もしも君がアニメの監督だったとしよう。よくある話だ。
 君が監督した作品は当初の条件に反し、無理矢理に「劇場」の二文字を背負わされイバラの道を歩かされてきた。そしてやっとのことで当初の条件通りビデオとなって販売される運びとなった、としよう。よくある話だが、良くない話だ。

 あくまで例え話であるが、状況を生き生きと思い描くための一助として仮にその作品を「パーブルタウン」と名付けよう。神代の昔、八神純子が歌っていた曲とちょっと似たタイトルだ。ニューミュージックなどという物を知らない若者も多かろうが、まぁいい。新しい朝にウーフーフーだ。

 さて君の作品「パーブルタウン」というフィルムはインディーズ劇場アニメとして健闘を見せたものの、残念ながら資本者側の図に乗った目論見には届かない数字に終わった、としてみよう。それでも大躍進には違いない。本来の「ビデオ作品」の宣伝としては十分な効果を上げ、デビュー作の新人監督である君には多くの知り合いをもたらしたてくれた。君とて今更「劇場」の二文字に目くじらをたてる気も無くなりかけていたかもしれない、という設定も付け足しておこう。

 フィルムの賞味期限は過ぎようとしている。商売は年内に限る。そこでフィルムはNTSC信号へと変貌を遂げることになり、当然「フィルム→ビデオ」というプロセスが必要となる。「テレシネ」と呼ばれる通過儀礼だ。

 既に他の仕事に従事している君ではあったが、「パーブルタウン」の「監督」としての立場でそのプロセスを監修する依頼を受けたわけだ。納得のいく理由だ。
 同時に「パーブルタウン」のLD・DVDは音声を2チャンネルステレオからデジタルドルビーというものにバージョンアップするという予定があるとかで、それに伴う再「ダビング」も監督として監修してもらいたいという依頼も受けた、と想像したまえ。間違っても「監修させろ」などと君が言ったわけではないのだぞ。

 想像は出来たであろうか。次へ進むぞ。

 こういった例え話に臨場感を持たせるためには、更にディテールも必要かと思う。
 そこでまずそういった打ち合わせの席があったと想像したまえ。テーブルを囲みスポンサーの担当者、ビデオの発売元、及び販売元の会社の担当者などが居並ぶ。例え話とは言っても、発売元と販売元の二つの会社を想定するあたりが、生き生きとした想像をかき立てる調味料になると思う。

 ビデオ化に当たっての企画書なるものが君の前にある。目玉となる企画は先にも設定したように「デジタルドルビー」での再ダビングである。音のクオリティが上がるのは君にとっても喜ばしいことである筈だ。説明を受けながらパラパラとめくっていた君はギョッとなる。
 LD・DVDは「ビスタサイズ収録」、となっているがビデオは「スタンダードサイズ収録」となっている。
 「ビスタ以外は勘弁して貰いたい」とその事にすぐさま言及した君はこんな答えを聞かされる。
 「ビスタ版は流通に嫌われるからスタンダードにしたい」

 胡散臭い匂いをすぐに君は感じ取る。その話の真偽はともかく、後に知り合いのプロデューサーから「今時そんなわけはない」という話を聞いた君は、「およそLD・DVDとの差別化を図りたいという営業的な意図に過ぎまい」と考えるかもしれない。
 もしもビデオが「トリミング・スタンダードサイズ」に決まったとしたら君は例の言葉を放ったはずだ。
 「じゃあ、やらない」

 君は「無責任」という設定ではない。「ビデオ作品」として受け、作品に見合ったサイズとして選んだ「貧乏ビスタ」なのであり、それをトリミングするなどもってのほか、と君は考えているのだ。詳しい話はともかく「貧乏ビスタ」をさらにトリミングするということは、わざわざテレビアニメ以下の画面のクオリティにして商品化するということなのだ。
 君は一緒に苦労してくれたスタッフの顔を思い浮かべ、何としてもそれを阻止しなければならないと思う。それが叶わぬならばせめてそんなものに協力することだけはしたくないというのが、君の思いなのだ。良いな?

 もっとも当初「どのメディアでもビスタ」と約束した相手は現場のプロデューサーであり、目の前の連中にその経緯を話したところで仕方がないかもしれない、とも思うだろう。幸いにもこの問題は後にビスタ収録というごく当たり前の確約をスポンサーから貰った、筈だ。

 しかし、今となっては君は何一つ信用しないだろう。それも無理からぬ事。

 更に企画書の「スペシャルボックスの印刷物特典」の欄に書かれた一文に君はギョッとなる。「キャラクター原案の人の描き下ろしカラーイラスト」

 頼んだところで相手はどうせ描くわけない、とは思いながらもそんなやつに頼むこと自体を不愉快に思う君は、やはりすかさずその事に言及する。
 「営業的にこういったアイディアがでてくるのは理解しますが、結果的に実制作の邪魔になった人間をこんな時だけ持ち出すような企画には一切協力できない」
 君はあまりに明快である。反省の必要があるほどかもしれない。
 しかし、君は出来るだけ「作品」とそれに付随するイメージをも守らねばならない立場だ。「商品」はスポンサーのものであっても「作品」は作った君たちスタッフのプライドでもある。簡単に、しかもこれ以上傷を付けてもらっては困る、といささか大仰に君は考える。長いものにはなるべく巻かれたくない性分というのが君の設定だ。

 また、その打ち合わせの席上、君が作っているホームページのプリントアウトまで持ち出され、そんな席で聞くには多大な違和感を伴う酒飲み仲間の名前まで俎上に上げられて少々困ったのはご愛敬、という細かい設定もしておこう。

 様々な問題があるとはいえ、一生懸命かつ真摯な態度で作品作りに接している君のことだ、結局テレシネもダビングも引き受けたとしよう。「作品」は分身でもある。
 その後に発売されるというLD・DVDとやらに付属させるらしい「インタビュー」、あるいは「描き下ろしジャケット」だのについても快諾した、ともしよう。
 但し、「この時点では」という条件も後に加えられる。
 思えば君はこの時に聞いておくべきだったのだ、「監修の報酬」について。

 増えてきた細かい設定もきちんと踏まえながら次へ行くのだ。

 いよいよテレシネを明日に控えた君は、打ち合わせにおいて議題に上がらなかった「報酬」のことに思い至り、スポンサーの担当者に問い合わせる。
 彼に発売元・販売元の会社に問い合わせてもらったところ、「おまけに付けるインタビュー等については出演料みたいなもの」を考えてはいるが、「テレシネ・ダビングの監修」については「無い」のだそうだ。ギャラは。
 君は如何に考える?

 「従来的にフィルムのビデオ化に当たっては制作会社の方が勝手にやってしまうもの。テレシネも再ダビングも今回は予算もかけて良いものにしたいので“監修”をしてもらいたいが、そういったことに割く予算はない。」
 それが従来のやり方、なのだそうだ。しかも鼻の良い君は「“監修”させてやる」という匂いすら感じるであろう。金が無いなら頼まなければよい。君がやらせてくれと頼んだわけでもない、というのに理不尽な思いは増加する一方の筈だ。
 両方の作業を合わせて10日はかかろうかというのに、無料奉仕をしろという、かなり非常識かつ無理のある設定だが例え話だから我慢して聞いてもらいたい。

 従来がそういうしきたりになっているかどうかを君は知らないが、人に仕事を頼んでおいて金を払わないというのは常識以前だ、と考える君は次へ進め。

 君は雨が降り始めた吉祥寺の、人の往来も激しい道端で携帯電話を耳に当てている。
 「担当者の『良いものにしたい』という気持ちに間違いはないのでそこは汲んでやって欲しい」
 間に入った担当者は言うであろう。笑止。「良いもの」を作るために重たく時に鋭い痛みを代価に払ってきた君には甚だお笑いぐさに聞こえる筈だ。言うはやすし、受けるはきよし。梅雨時のかびの生えた君の頭はそのくらいの冗談が関の山かもしれない。
 「良いもの」は欲しいが代償は払わない。今日日のコギャルだって金が欲しけりゃ股くらい開くというのに、と目の前を行き過ぎる女子高生を目で追いながら君は思うだろう。中には「良い作品」だのといった大儀を掲げるだけに詐欺師よりたちが悪い、と思う君もいるだろう。

 この手の連中は「クリエイター(笑)」を舐めていることが多い、と君は更に考えを鉛色の大空に広げる。短くはない時間、業界を渡ってきた君はそういうことを肌で感じている。
 「好きなことを仕事にしてるんだから、安くてもいいでしょ?」
 幾度と無く感じてきた感覚をまたも味わう君である。
 「そんなわけはない。仕事を尊重している」などと人のいう。笑止。中にはそういう「普通」の考えの人間もおろうが、大概はたかが「お絵描き」一枚に払う報酬を出し惜しむ。憧れるは売れっ子、と君は思うかもしれない。金と権力には縁遠い君だ。
 ましてや有用だが無形の「アイディア」などに対しては無料だと思っている無神経な連中が跳梁跋扈している世の中であることを君は知っていても良い。だからこそ君はいつでも注意していた筈なのだ。

 まったく、と吉祥寺の道端に吐き捨てるように君は思う。「従来」が好きなこういう旧態依然とした連中は「従来通り」のバカアニメと仲良くしていればよいのだ、怒りを静めようと強い言葉を頭に巡らせた君はすぐさまに失敗だったことに気づく。その言葉が近頃眠っていた怒りを揺り動かす結果となる。
 怒りの回転する周期のずれは唸りを生じ、止める手だてもないままに闇雲に増大していった、としよう。

 携帯電話の向こうではスポンサーの担当者が代替案を提案している。
 「検討した結果、そちらの会社からは払うことは出来ないのでテレシネ・ダビングの監修費は当社が負担する」
 火に油を注ぐものではない。貰いさえすればよいというものではないのだ。金も払わずに他人を使おうなどというその了見が気に入らないのだ、と君は思うかもしれない。

 だが明日に控えた仕事だ。君は子供という歳ではないし「じゃあ、やらない」とは既に言えない。君にも多大なミスがある。「従来通り」にうっかり相手を信用してしまったつけが回ってきたのだから。君も人がよい。もしも、その議題を打ち合わせの席上で持ち出していれば事は簡単だったかもしれない。

 「ギャラはでません」
 「じゃあ、やらない」で済んだことなのだ。

 それでは作品に対して無責任、といわれるかもしれないが仕方がない。君は霞を食って生きられるほどの仙術を持ち合わせていない。現在抱えている他の仕事は無論報酬が出ているしそれを休むからには、日々の生活を維持するためにも金銭が必要である。
 君の仕事は趣味ではない。

 「一応了承しますけど」

 含みを残して君は条件を受け入れる。致し方ない。テレシネ・ダビングの監修費はスポンサーから払っていただく、ことにしよう。但し納得したからでは無論、無い。

 君の立場で考えれば「パーブルタウン」を「ビデオ作品」として引き受けたことは今でも変わっていないと思っている、はずだ。作品に対する責任感を持ち合わせている君は「テレシネ」までを含めて「パーブルタウン」として引き受けたはずだ。君はそう考え、自分の中でわずかながらモチベーションを取り戻すだろう。作品は最期まで見届けたい。
 が、一方でこうも思い返すはずだ。冒頭の設定にもあったように、「パーブルタウン」は君と関係のない営業的な論理によって「劇場」作品とされ世間的にもそう認知させられた。よってそれをビデオにする、というのはあくまで新しく出来した「仕事」である。
 その「仕事」に払われる報酬が最初から設定されていなかったことを思い返し、ささやかに取り戻したはずのモチベーションは再び唸りを上げ始めた怒りに見事に粉砕される。

 多大な理不尽を背負わされながらも、君は明日からの「テレシネ」には赴くことにした、としよう。

 さて、ここで問題です。
 これが君に起こったことだとしたら翌日仕事へ向かう足取りは軽いでしょうか、重いでしょうか? 
 三日間続くこの仕事を君ならどうやって乗り切るでしょうか? 
 またその後の「インタビュー」や「描き下ろしイラスト」で気持ちよく協力する気になるでしょうか?
 君なら一体如何なる対処をするでしょうか?

 エ?筆者ならどうかって? 見ていれば分かるさ。

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