2008年3月14日(金曜日)

思うことがたくさんありすぎて



「十年の土産」も閉幕したので文体も通常に戻る。
昨日、目が覚めてぼんやりとした頭に浮かんだのは次のようなこと。
「今日から新宿に行かないんだな……」
祭りの後とは常にそんな心持ちだ。
一抹とはいえないほど小さくない寂しさを感じると同時にこんな気持ちも湧き上がってくる。
「えらく楽しい12日間だったなぁ」
寂しさの何倍もの大きな満足感。そして、
「やりきったなぁ」
という深い充実感。
映画制作が終わった後にも似た感触だ。
打ち上げの酒が引き起こす二日酔いがセットになっているのも同じだ(笑)

「十年の土産」最終日の打ち上げは、すでに常連となった「上海小吃」別館を貸し切り行われ、さらに2次会は場所を「本館」に移して、始発が動き出す頃まで続いた。
寂しさと満足感充実感、そして二日酔いはセットなのである。
無論、2年ほどもかける映画制作の仕事と今回の展覧会では、準備・制作の期間も違えば規模も予算も違うので、感慨の程度にも差はある。
何しろ「十年の土産」は基本的に私個人が運営主体であり、経費の大半は「今 敏の貯金」という、かなり心許ない予算なのである。
小さくて当然(笑)
だからといって充実感と満足度が小さいわけでは無論ない。
それに映画制作の場合、先の複雑な思いに加えて「無念」とか「反省」とか、自分の至らなさへの思いがかなりの濃度で混入してくる。
それに比べると昨日の感慨は、その大半が「満足」に由来している。
正規の仕事でもないのに私の「道楽」を支えてくれたマッドハウスのスタッフ、快くスタッフを貸していただいたマッドハウスさん。トークイベントに出演してくれた鈴木さん、池さん、板津くん。新宿眼科画廊とその仲間たち。展覧会開催・運営に多大なご指導と示唆を与えてくれたSさん、Uさん。準備から閉幕まで力を貸してくれた家内。そして来場いただいたお客さんのおかげで、明るい色に彩られた深い満足を味わうことが出来た。
感謝してもしきれない。
本当に皆さま、どうもありがとう。
「お客さんのおかげ」という措辞は社交辞令でも何でもない。
昨日、新宿眼科画廊からもらったメールの一文がとても印象的だった。紹介させていただく。

「一番印象的だったのは、展示にいらっしゃった方々が
皆さん笑顔で帰られて行かれる様子を見て、
作品は勿論の事、監督のお人柄やスタッフの皆さんの温かい感じが
一つになって、内容の深い空間を作り上げているんだなぁ。と感じました。」

そうなのだ。
イラストの展覧会であれ映画であれ、なにがしかの「感動」(それがネガティブであれポジティブであれ)が生まれるのは、イラストやフィルムそのものではなく、それを見る個人と対象物(画像・映像・音楽・文章その他諸々)との「間」である。
常に何かが生まれるのは「〜の間」である。
ものが生まれるには二つ以上のことが必要であり、単一の主体によって何かが生まれるわけがない。女性が一人で子供を作れるのなら男の存在はまったくの不要となる(笑)
引用した一文を、さらに私なりに捉え直すと、「監督のお人柄やスタッフの皆さんの温かい感じ」が「皆さん笑顔で帰られて行かれる様子」を生み出しているという一方的なものではなくて、同時に「皆さん笑顔で帰られて行かれる様子」が「監督のお人柄やスタッフの皆さんの温かい感じ」を生み出してもいるのである。
ただ、私の人柄が温かいかどうかはかなりの疑問である。「話しかけにくい」というお客さんからの感想がそれを裏打ちしている(笑)
我々運営側が「内容の深い空間を作り上げている」だけではなくて、お客さんやそこにいない人(お花を贈ってくれた方々や展覧会での画像使用を許諾してくれた各タイトルの製作委員会やスタッフを出してくれたマッドハウスやその他諸々大勢の方々)も含めて成り立った空間であり12日間である。
さらに言えば、会期中好天を与え続けてくれた「お天道様」や、お客さんの足が鈍るような大事件や大災害などを起こさなかった「世間」や「世界」のおかげでもある。
私はそういう考え方が好きである。
そういう風に考えた方が、自分が「点」として孤立した存在でないことを常に認識し「続けられる」。
自分からつなげる、あるいは自分へとつながる「線」や、自分を含む「面」を実感し続けることが、さらに「次」へとつながるのではないかと思っている。

たとえば、トークイベント。
「十年の土産」の単なるオマケ企画だったはずなのに、意外な好評を賜ったうえに、参加できなかった希望者が多かったようで、たいへん申し訳なく思っている。
だから冗談ではなく、前向きに「「十年の土産」の置き土産」というトークをメインにしたイベントを考えるようになった。
これもまた一つの「次」である。
しかもこれはどちらかというと「参加者からの意外な好評」というより、「参加が叶わなかった方々」という、いわば「欠落」によってつなげられる、という点が面白い。
もしも100%満足の行く映画を作ったとしたら(もちろんそんなことは原理的にありえないが)、「次」なんて無いのではないか。
何事につけ「閉じたら終わってしまう」と私は思っているので、こうした欠落から生まれてくる意外な展開は、また望むところである。

「十年の土産」からもらった「お土産」の数々について、書きたいことは山ほどあるのだが、たくさんありすぎるので、また筆を改める。
まずは腹ごしらえをして、それから「確定申告」という「一年の土産」に挑むとしよう。
うーん、サインを1000回するより面倒だぞ(笑)

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