2008年4月12日(土曜日)

世の新人たちに贈る



新作のシナリオと格闘する毎日。
映画制作の仕事にとりかかると、どうにもそれ以外の仕事や用事への意識が極端に薄れるのは困ったものである。
仕事に集中するとか没入するというと聞こえはいいのかもしれないが、単にバランスが悪いというか大人げがないというか。楽しいことを見つけるとそれ以外を放り出してしまうのはまったくもって子供である。
分かっちゃいるが全然矯正できない。
仕事場の整理もまだまだ残っているし、某映画のコメントを依頼されているのにまだその映画を見られていないし、返信しなければいけないメールも溜まる一方だ。不義理をかけている方々、たいへん申し訳ない。
見たいはずのDVDも未開封ばかりが溜まるし、読みたい本も自宅と仕事場にその嵩を増すばかり。自室の整理もしたいのに。そのくせ酒を飲むことだけは忘れないし。どうしてこう要領が悪いのか。単にだらしないということか。
さらに来週からは武蔵野美大の映像学科で担当するゼミが始まるし、アートカレッジ神戸にも出前に行かなくては。
こんな調子で大丈夫なんだろうか(笑)
いや、いつだってそんな調子だったんだから、何とかなるだろう(このお気楽さが自分の首をギューギュー絞めることになるのはよく分かっている)。
事前にそれが「出来るかどうか」を熟考することも大事であろうが、私は生来優柔不断の傾向が大なので、まず事態に飛び込んでから格闘する方が能力の拡張には役立つように思える。

「「できるか」と聞かれたらいつでも、「もちろん」と返事をすることだ。それから懸命にやり方を見つければよい」ルーズベルト

私は別にルーズベルトのファンでも何でもないが、時にはこうした態度が必要であろう。
それを原則にする気はないが(笑)
ニーチェはこう言ってるらしい。

「あなたがたの実力以上に有徳であろうとするな! できそうもないことをおのれに要求するな!」

はい。

最近、かように「名言」づいているのは仕事上必要で読んでいる本の影響だ。
長い時間に耐えて生き残ってきた「名言・格言」を読んでいると、実に味わい深く、そして面白い。笑い出すほどおかしい。
確かギリシアの名言だったと思うが、こんなものがある。
「何でも覚えている奴と飲むのはごめんだ」
それ、名言なのか(笑)

さて、そんな古来の叡智には全然縁遠い話。
3年前の4月、マッドハウスの新人に向けて何か「一言」書いてくれという依頼があった。
以前にも紹介したかもしれないし、さして役にも立たないかもしれないが、入社や入学の時期らしいので改めて紹介する。
以下、長い「一言」である。

「「郷」の新人」 今 敏

「郷に入っては郷に従え」という俚諺があります。
 広辞苑によれば「人は住んでいる土地の風俗・習慣に従うのが処世の法である」とあります。より快適な生活を送る上で実に含蓄のある言葉です。
 和英辞書によれば同様の諺が英語にもありました。
「When in Rome, do as the Romans do.」
 英語にもあるということは、この箴言が伝える叡智は洋の東西を問わず普遍性があるのでしょう。
 新人の皆さんはいわばアニメーション業界という「郷」に入ってきたということになります。もっと広い意味で「日本の市民社会」という「郷」に入ったともいえるでしょう。
「日本の市民社会ならすでにその一員であった」と主張する方もいるかもしれませんが、学生・未成年というのは市民社会のフルメンバーとはいえません。何しろ学生というのは社会人になるための養育期間であり、色々な面で社会からの保護に包まれているのですから。
 市民社会の一員となるということは、その保護が失われるということです。
「学生割引が利かなくなる」
 そんな可愛いものじゃないことくらいは想像に難くないでしょう。
 どういう面で保護が無くなるのか、それは皆さんがこれから仕事などを通じて体験し実感されることです。その時初めて自分を取りまいていた社会からの保護という皮膜が何であったのかが分かる。
 裏返せば、皆さんはどういう形で自分が保護されているのか、現状では理解していないということです。保護された状態が20年前後に渡って続いてきたわけですから、当たり前のことです。

 その保護されていた状態というのが、昨日まで皆さんが快適に過ごされていた「郷」です。その住み慣れた「郷」を出て新しく入るのが市民社会という「郷」です。
 両者のルールは随分違います。
 当然、市民社会の方が断然厳しいルールです。
 これまで皆さんを優しく覆ってきた「学生」「未成年」といった緩衝材がなくなり、剥き出しの「個」として社会に参加するわけですから。
 学生という皮膜に包まれているうちは、多少の失敗に対しても周囲の大人は「子ども(学生)のやることだから」というフィルタを通して見てくれますが、市民社会の一員となったからには、そういう優しい目で誰も皆さんを見てくれません。
 かつての心地良かった「郷」のルールはここでは通用しない。
 皆さんが何かトラブルに遭遇したとする。その時に「そんなルールは聞いていません」と抗ってみても返ってくる言葉は次のようなものです。
「あ、そ。でもここではそういうルールだから」
 ルールとは言い換えると価値観で、つまりは昨日までの価値観が通用しなくなる、ということです。
 新しいルール、価値観を一から学ぶつもりでいてください。

 皆さんの中には、すでに社会人としての経験があるという人もいるかもしれません。あるいは学生時代にアルバイトなどを通じて社会経験があるという人も多いでしょうが、あいにくここは過酷と噂のアニメーション業界です。噂じゃなくて本当に過酷です。
 でも仕方ありませんよね。皆さんが望んで入ってきたのですから。
 それに、慣れると結構快適な業界です。私はこれまでのところすこぶる快適です。
 どんな業種であれ、それぞれの業界には一般社会のルールとはまた異なるローカルルール(規範・常識・倫理観・風俗・習慣等々)が数多に存在します。
 アニメーション業界という「郷」には他の業種とは異なる際だったローカルルールが存在すると思われます。それがどんなものなのか、長年この業界で呼吸してきた人間にとっては、それがあまりに当たり前すぎて意識もされません。
 新人の皆さんは、上司や先輩からこの業界の「当たり前」を一から学ばなくてはならない。
 しかも、先人たちは誰も懇切丁寧にその当たり前を教えてくれるわけではありません。
 だって「当たり前」のことなんですから。「当たり前」のことを一々説明していては仕事にならないでしょ?
 なので、皆さんは上司・先輩の仕事の態度ややり方、交わされる言葉の端々などを通じて、この「当たり前」を伺い知り、そして自分のものとして身につけなくてはいけないということになります。学校という保護のもとならば「分からない」といえば、誰かが「教えてくれる」ことになっているのですが、市民社会では「自分で学ぶ」ということになっています。
 そりゃそうですよね。会社にいる上司や先輩は新人のための親でも先生でもなく、それぞれの仕事を抱えている人間なのですから。
 教えてもらうのではなく「自分で学ぶ」。その学ぶための第一歩、よりよく学ぶためのもっとも重要なことはなんでしょう?
 それは「自分は無知である」と覚知することにあります。
 これ以外にありません。

 ひどい言い方に聞こえるかもしれませんが、皆さんは「無知無能」です。
 よく知りもしない41歳のアニメーション監督から無能呼ばわりされる覚えはない、という人がほとんどでしょうが、それは仕方ありません。だって皆さんはまだ何も仕事が出来ないんですから。
 仕事の出来ない人間は「無能」といわれても仕方がない。それがルールです。
 たとえば「制作」というセクションにおいては普通運転免許証が必須です。なので「私は車の運転が出来る」と主張する人もいるでしょう。ですが車の運転は出来てもよその制作会社や外部スタッフの場所を知らなければ、仕事が出来るとは言えません。
 外回りの先なんて、まだ知らないでしょう?
 車を運転できても行き先が分からないんじゃ仕事になりませんよね。だから教えを乞うて学ばなくてはならないということになります。
 作画の新人なら「私は絵が描ける」とか「上手いと言われてきた」など主張したいことはあるでしょうが、仕事として通用する絵が描けるということはまったく水準が異なります。というのも、趣味ならば自分が描きたい絵を描くことが出来ますし、得意な絵だけを描いていれば済みますが、仕事で絵を描くということは自分以外の要請によって絵を描く、ということが大半だからです。
 それに第一「絵が描ける」とか「上手いと言われてきた」ばかりが集まっている業界なんですから、そんなささやかな自尊心など誰も考慮してくれません。いっそ早いところ捨てた方が、業界で生きるにははるかに有利じゃないかと思います。

 これまで手厚い保護のもと、誰にでもあるような気にさせられてきたであろう「無限の可能性」も「輝ける将来性」も、ここでは誰も認めてくれません。何せ先人たちは自分の仕事が忙しいですからね。誰も一々かまっちゃいられません。
 そういう「輝ける未来像」や「いつか才能の翼を広げて無限の大空を飛翔するオレ様像」を捨てた方がいいとまでは言いませんが、それぞれの心の奥のタンスの一番下の引き出しのずっと奥の方にでもしまって厳重に鍵をかけておいて下さい。しばらくの間、そんなもの使いませんから。あると邪魔にさえなります。使う日が来るといいな、くらいに思っていて間違いありません。
 その輝ける未来像を一生箪笥の肥やしとしてしまわないための第一歩は先にも言いましたように、「無知」を肝に銘じることです。
 自分が無知だと分かれば、後は学ぶだけですからね。
 ですが、人間というのは自尊心という度し難いものを携えているのでなかなか頭では理解しても自分が無知無能だと認めにくいものです。
 だから、皆さんが制作現場という新しい郷で最初に学ぶべきこと、教えてもらうべきことは「私はいかに無知無能であるか」ということです。
 無知無能を覚知すること、より正確に言えば覚知し続けることこそが有能に繋がると私は思います。

 冒頭に記した「郷に入っては郷に従え」「When in Rome, do as the Romans do.」という箴言が、業界や仕事の「当たり前」を学ぶことと同じだということは理解されたと思いますが、もう一つ老婆心ながら付け加えておきます。
 それは「どのローマ人を選ぶか」という問題です。
 ローマ人なら誰でもいい、というわけにはいかないことくらいは誰にでも想像がつきますよね?
「ローマ人」の中には立派な人もいれば犯罪者だっているでしょうし、働き者も怠け者も優しいのもずるいのも含めて色々なのがいる。
 同様に、学ばない方がいいような先人、上司や先輩が必ずいます。
 どのような先人に学び、どういう人の真似はしない方がいいのか、それを判断するのは皆さん自身です。ということは誰を模範にするか、誰に学ぶのか、その「ローマ人」を選択する時点で皆さんの才能が測られることにもなります。
 宜しくない人や行為を模範として選択してしまう、ということはすでに失敗なのです。
 宜しくない人を見習えばそれ以下の宜しくない人になるだけですからね。もっとも、宜しくないように見える人を反面教師にする、というアクロバティックな方法もありますが。
 いずれにせよ、何をもって模範とするかは重要な選択であり、しかもその選択をする時点において皆さんはまだ仕事や業界のことを知らない「素人」です。
 素人なのに、何がプロフェッショナルなのかを判断しないといけない。ここには大きな矛盾があります。でも仕方がありません。そういうものですから。
 では皆さん、模範に足る「ローマ人」を嗅ぎ分け、死なない程度に身体をこき使って頑張って下さい。

 最後にもう一つ。
 年寄りというのは話がくどいものですが、実はここからがミソです。
 このテキストもいわば一つの「郷」というか「郷」の出張所みたいなものです。ですから、このテキストにも私である今 敏(41歳アニメーション監督)のローカルルールが反映しています。
 まぁ、私個人のルールなので、学ばなくてもいいし、拒否したってかまわないんですが。
 このテキストからも分かるように(ここまで読んだ人がいればの話ですが)、私はあまり優しい人ではありません。どちらかというと意地悪に属するかもしれません。
 その証拠にこのテキストにはすでにいくつかの罠が仕掛けてあります。
 皆さん、冒頭にある「俚諺」や「箴言」という単語は読めましたか? 途中で出てくる「数多」を正しく読めましたか?
 高校や専門学校、大学を出ている皆さんでしょうし、難しい漢字ではありませんから、読めた方が多いでしょうか。
 それぞれ「りげん」「しんげん」「あまた」と読みます。
 私がテキストを書くにあたっては、ごく普通に使用する単語です。つまり私の「当たり前」です。読めない人もいるのではないかと思いましたが、何せ私の「当たり前」ですから、皆さんに合わせることはしません。
 つまりは「読めないやつは自分で勉強しろ」という態度です。仕事も同じです。
「出来ないやつは自分で勉強しろ」という態度が「当たり前」です。これが業界のルールです。
 読めない言葉に接して、すぐに辞書に当たった人、読み終わったら辞書に当たろうと思った人は進歩の兆しがあります。少なくとも己の無知に自覚的であるといっていいですからね。
 しかも私は、読めない人が多いであろうと予想した「俚諺」という言葉を提示しておいて、その直後に「広辞苑」「和英辞書」という単語を使用しています。
 これには「演出的」意図があります。
 読めた人には関係ありませんが、「俚諺」という言葉が読めなかった人に対して「広辞苑」「和英辞書」という文字を提示して、「読めない字+辞書=自分で調べる」という連想をしてもらおうと思ったわけです。いわば文字によるモンタージュです。演出家はそういうことを考える仕事なのです。受け取る側がどう反応するか、こちらの意図がどう伝わるかといったことを常に考えながらなされるのが演出で、私は未熟ながらも「監督」という立場で演出を生業としている者です。決して意地悪でこんな罠めいたことをしたわけではありません。
 このささやかな演出が通じた人がいるかもしれませんが、「全然考えもしなかった」という人もいるでしょう。さして上手な演出でもありませんしね。
 しかし、そういう人はかなり出遅れていると言っても良い。
 自分の無知に無自覚ということなんですから。
「私は無知でも無能でもない。色々なことを知っているし出来る」と気色ばむ人もいるでしょうか。 
「私にはあれとかこれが出来る」「それとかあれとかを知っている」といった、「〜
が出来る」といったアピールや「いかに自分が正しいか」という主張「だけ」を並べる人たちを、「ちゃんとした」大人は信用しません。得意になってそれを吹聴し頑なに己の正しさを主張しているような人を、「ちゃんとした」大人は「バカだな」と思うことになっています。
 バカじゃない人、真に知性的な人というのは自身の「〜が出来ない」「〜を知らない」という部分に照準している、己の無能や無知に敏感な人を言います。
 知性として必要なのは自分の正しさを主張する態度ではなく、自分が正しいと思っていること、その信憑を疑うことにあります。「自分は大変な間違いをしているかもしれない」という果敢な臆病さを常に携えることが進歩や成長に繋がります。
 たとえば先の読めない字に接した際、「いままで習ってないから読めなくても仕方ない」「普通使わない」といった感想を持つ人は、いわば己の無知に気が付かない人です。
「いままで(習っていない)」「普通(使わない)」というのは皆さんが勝手に思い込んでいるルールに過ぎません。そのルールを新しいルールに書き換えることを冒頭に紹介した古諺は伝えているのです。
 肝に銘じましょう。

 勘のいい人なら「古諺」は正しく読めたでしょう。
 そうです、「こげん」と読みます。
 その調子で頑張って下さい。

トラックバック・ピンバックはありません

ご自分のサイトからトラックバックを送ることができます。

現在コメントは受け付けていません。