2008年4月16日(水曜日)

ゼミとは何をするものなのかのゼミを受けたいくらいだ



昨日から武蔵野美大・映像学科のゼミが始まった。
無論、私は受講生ではない。「客員教授」という身分であるらしい。
20年以上前には視覚伝達デザイン学科の「立派なオチこぼれ学生」が映像学科の学生相手に講釈をたれるというのだから、時代も変わったものである。
武蔵野美術大学(以下ムサビ)の最寄り駅は、西武国分寺線「鷹の台」駅。
卒業後、この駅を利用することは一切なかったが、近年になってムサビから特別講義などのお声掛かりもあり、何度か訪れている。学生時代、私は学校のそばに住んでおり、小さな駅の小さな駅前商店街をよく利用した。いまも残っている店もあれば、とうに変わってしまった店も多い。むしろ、残っている店が多いかもしれないことに少々驚きを覚える。
気持ちのいい晴れ空の下、駅前商店街を抜け、玉川上水沿いの遊歩道を通って気持ちよくムサビまで歩く。懐かしい道だ。
だからといって特に感慨深いわけでもない。大学時代の自分を思い返すと、肥大した自我を持てあまして自意識過剰になっていたバカ者に過ぎない。ああ、やだやだ。
「若いって素晴らしいぃ」
なんて歌があったが、私は共感しない方だ。

ゼミは13時からだが、少し早めに着いて、懐かしいキャンパスをブラブラと歩く。
お世話になる映像学科研究室にご挨拶。
挨拶もそこそこに、すぐに屋外の喫煙所へ直行。次の休憩時間まで90分。吸い溜めでもしておく。
構内に喫煙所が用意されているだけ、まだ「民主的」な学校に思える。
喫煙所では女子学生の姿が目立つような気がする。そういえば、男性喫煙者は減少を続けているが、女性喫煙者は増加しているという風聞を聞いた覚えがある。
美味しくタバコを吸いながら構内の風景に目をやる。行き交う人たちは、当たり前の話だが学生ばかりだ。
一時にこんなにたくさんの若者ばかりを目にする機会など滅多にない。
自分の在学当時と比べて、学生たちの見かけは随分と「こざっぱり」したことだよ。
昔の方が「オレは特別なんだ」とでも言いたげに、「これ見よがし」な格好をしている「フツーの美大生」が多かった気がする。そうした外見の人が減った分、学内の空気が丸くなっているようで、44歳のオッサンには面倒くさくなくてよろしい。
それだけ以前に比べると、美大というものが特殊な学校、というより特殊な世界への通り道ではなくなったということなのかもしれない。
石を投げればクリエーターかクリエーター志望に当たるような世の中である。

快晴の天気と相まって、明るく健康的な「若さ」が溢れている。
「若いって素晴らしいぃ」
という歌にも少しは共感してやってもいいような気になってくる(笑)
「若さを感じる」というより自分の歳を改めて実感するといった方がいいのかもしれない。学校を出て22年程。担当するゼミの4年はだいたい歳が半分。学生たちは若いというより子どもみたいに見えるのも致し方あるまい。
おそらく在学当時の自分もそんな風だったのだろう。
もっとも、主観的にはそれなりに大人の気分だったと思うが、そんなことはこっ恥ずかしくて思い出したくもない。
受け持つゼミの学生は11人。
私の大きくない「声」が届く範囲のスケールで、実にちょうどよい人数だ。このくらいの数なら、おのおのの制作に対して、ある程度突っ込んだ話や技術的なアドバイスなども可能だ。
しかし、一体私は何をすればいいのだろう。よく分かっていない。
これまで映像学科の先生から何度か授業に関するレクチャーを受けたが、私の頭で記憶できていることは一つだけで、要するにこういうこと。
「卒業制作の面倒を見る」 
学生の面倒を見るのか、こちらが面倒をかけることになるのかよく分からないが(多分半々、もしくは後者の割合が少し大きいかもしれない)、面倒を見るというよりは卒業制作というマラソンに伴奏するくらいの関わり方をイメージしている。
流行に則していえば、私の立場は卒業制作というそれぞれが携える「聖火」を警護するために使わされた「青服のランナー」といえばいいだろうか……っていいわけがない。私は別に学校の「主権」を侵す気はないぞ。

さて一回目のゼミは、特に話す内容も事前に準備も予定も立てておらず、互いの自己紹介が主である。
相手が分からなければ、何をすればいいのかもよく分からないというものだ。
私にはとりたてて教えたいことなんてない。私は体系立って映像について学んだことは一切ないので、教えるに当たっても私が学んできたやり方を繰り返すくらいしかできない。
つまり、時に応じて必要なことを学ぶ。同じように時に応じて必要なことを喋る。
その「時」は私の都合で予定を立てるわけにはいかないので、ゼミの内容やイメージもぼんやりとしか考えないようにしている。
参加している学生11人の「ムード」がよく分からないので、挨拶やら自己紹介もそこそこにして、学生たちの最新作を見せてもらうことにする。本人たちに自己紹介してもらうよりもずっと、その人がどういう人なのかは分かるはずだ。実際、そうだったような気がする。
喋る方が得意ならば映像学科にはおるまい。
見せてもらったのは、3年生から4年生への進級制作である。
ゼミ生それぞれの短編アニメーションを一本ずつ観ながら、学生の指向や嗜好、能力や技術のレベルを確認する。
なんだか「デジスタ」キュレーターの仕事みたいな気がしてくる(笑)
そうした機会を多く経験してきたおかげで、短編から少なくない情報を読み取ることが出来るようになったらしい。なんでも経験しておくものだな。
一本を見終わったら、作者である学生から内容の補足や提出時の評価や批評を聞く。次いでこちらが感じたことと、シナリオ・演出・作画などなどについて批評を加える。この繰り返しである。
こう言っては失礼かもしれないが、基本的な傾向は「デジスタ」応募作品とよく似ているので、「デジスタ」と同じような話をすることになる。ということは、裏返せばバリエーションが意外と少ない、ということでもある。
それぞれは自分なりに「自由に」作ったつもりでも結果的に「似たようなもの」になりがちなのは、広告代理店やメディア、教育機関に刷り込まれた価値観や考え方のせいなのか、単に若いという理由によるのかはよく分からない。しかし思い返してみれば、自分もそんなものだったように思う。現在もそう変わらないのかもしれない。
若いというのは意外と不自由なものである。
若者の「自由な発想」やら「無限の可能性」やら、巷間に垂れ流されるキャッチコピーこそが「型にはめる」ための装置であることに気がつける若者は少なかろう。
お金が何より大事な方々には、若者(つまりはその親ということだが)は「金づる」にしか見えてないように思える。
世間相手に幾ばくかの経験を積んだものとしては、それぞれが思う自由も、実は思わされている自由に過ぎないことくらいはよく分かる。
それまでに受けてきた広告代理店とメディアによる洗脳から是非脱出するルートを探してもらいたいと切に願う。
もっとも、そこから外れない方が生きやすいかもしれないけど。
だって、喜び方や悩み方の定型さえ用意されているんだから(笑)

一方、技術的な面でも感じる同一傾向がある。
現実的にはこちらの方が問題である。価値観や考え方が変化するには長い時間を要するが、技術的な問題やそれに対する姿勢はすぐにでも改めることが可能だ。それぞれが実感さえすれば、の話ではあるが。
この技術面での問題は、ゼミの子たちの作品にも「デジスタ」応募作品にもまったく共通する。どうにも不可解だ。
「デジスタ」に応募してくるのは大学や専門学校で映像を学んでいる学生や卒業生が多い。ゼミの学生もこれまでの3年間に映像に関する基本的なことくらい学習してきているはずだ。
しかし、映像の「命」ともいうべきものに対する意識があまり感じられない。
映像の命とは「編集」である。
カットとカットの「間」にこそ映像の命は宿る。
私はそう思うし、同意される映像制作者は多いと思う。
誤解されては困るが(ホントは困らないけど)、カット単位の重要性を軽んじているわけではない。
カットそのものの生命力が大事であることは素人でも分かる。
しかし、映像を学ぶものは素人からの脱却を目指しているにもかかわらず、「編集」がどれほど大事であるかを学んできていない、ということがかなり不可解なのである。
「上手くできない」というのであれば、理解できる。
どれほど重要だと認識していても上手くできないことは多々あるし、それは実践を繰り返す中でしか身につかないような代物である。
私も「編集」が上手くできるわけではないが、いかにそれが重要なことかくらいは理解しているつもりだ。
映像の編集は文章で言えば文体みたいなものである。
文体が大事だということは分かっても、自分なりの文体が身につくまでには相当の時間と実践が必要になる。
だから「編集」が上手くないことは仕方ないと思うのだが、「編集」が重要であるということすら意識されていないのであれば、何度実践を繰り返しても上手くなるわけがない。

もしかして「編集」の重要性が認知されていないのかもしれない。
以前から感じていたことなのだが、これはかなりまずいのではないか。
映像学科のカリキュラムや教え方を批判するつもりはないし、体系的に映像について教えるノウハウが未熟なのは日本の映像教育機関全体に言えることのように感じていた。
教えることが苦手な国民なのだろう。
技術の言語化・マニュアル化はアメリカを始めとした「言葉の国」に遠く及ばない気がする。
日本の場合は極論すると、理想とする技術伝達は職人的な在り方で、「見て覚える」「親方の技術を盗んで学ぶ」といった方法が性に合っているのかもしれない。
だが、それで済むほど現代人の体内時計は緩やかではないし、多くの「オレ様的に肥大した自我」がそこまで我慢してくれるはずもない。「オレ様」的世代の先駆けである私が言うのだから間違いなかろう(笑)
技術の言語化の必要性を改めて感じた次第である。
「編集」は映像のリズムを整えるだけでなく、多く深くの情感を生み出す。
「編集」が映像のムードを決定づける要因であることに意識が届いてないのは、映像を学ぶ上でかなり致命的なのではないかとさえ思えるのだが、私の方が変なのだろうか。
もっと分かりやすい「カット単位」のことを話した方が、受け取る方も分かりやすいのかもしれないが、カット単位の職人(作画、背景、CGといった)を目指しているだけの人ならともかく、少なくとも映像学科なんだから、もう少し映像に対するリテラシーそのものを学んで欲しいと思うのである。
おかげで、以後ゼミで話す内容の選択におおいに参考になった。
来週からは「オハヨウ」の素材を紹介しながら、制作プロセスそれぞれにおいて何に留意して作っているかを話すつもりだったので、「編集」には特に重点を置くことにしてみよう。
制作プロセスとしての「編集」(カットをつなぐ仕事)は無論のこと、アニメーションにおいて広義の編集、その大半を受け持っているコンテについてはなおさらのことである。

ということで一回目のゼミは修了。
10分の休憩を挟んで3時間も喋るのはなかなか疲れる。
鷹の台の駅までプラプラ歩いて、西武国分寺線から中央線に乗り継いで荻窪マッドハウスへ出社。
うちの制作班に配属になった制作の新人も、四年制大学でアニメーションを学んできているので、「編集」についてどれほど学んだか聞いてみた。
彼女の学校でもやはりあまり重要視されていないようだ。
変なの。
やっぱり私の方が変なのか。
そんなわけないよな。
いや、しかし……とはいえ、やっぱり……。うーん。

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