2008年4月30日(水曜日)

やりたいことシンドローム



暫定税率復活でガソリンスタンドに車がたくさん並んでいる光景をニュースで見かける。
そこに並んで得られる「得」(あるいはしないで済む「損」)と、並んで失う時間による「損」(あるいはその時間で出来たかもしれない別の「得」)。
その損得を比べても並びたいと思うものなのだろうか。
とても疑問だ。

昨日の続き。
近年、4年生大学で映像やアニメーション・マンガを専門とする学科がたくさん作られている。新たに増えた学校もあるだろう。こうした特殊な分野に限らず、教育機関そのものが増えている印象さえある。大学院なんかも増えたのではないか。もちろん淘汰されていることも多いようだが。
少子化なのに教育機関が増設されているというのは奇妙な話に思えるが、実際は少子化だから増えていると考えるべきだろう。
要するに子どもの頭数が減った分、同じような収益を上げるためには「単価」を上げればよいということ。単価といっても授業料や入学費を値上げするという意味ではなく、教育に必要とされる期間を延長すれば、その分確実にお金を吸い上げられることになるわけで、一人からの「収穫量」を上げようという狙いにしか思えない。

だから世の中には「夢の実現」やら「自己実現」の言葉が垂れ流され、まだ夢もやりたいことも見つからない(と思いこまされた)若者はそれを探すための期間と場所を求めるし、夢ややりたいことが見つかった(と思いこまされた)若者は学校に行けばその実現のノウハウを得られるだろうと期待させられるし、その親たちも「やりたいことを仕事にするのが一番の幸せ」と思いこまされているから、教育費には財布の紐も緩くなる。
そういうことなんじゃなかろうか。
「夢だのやりたいことなんかなくたって大丈夫」
そういうメッセージでは金儲けの種にならない。だから言われないのであろう。
「メタボ解消には食事を減らすのが一番」
消費を減少させるようなことは推奨されないのと同じであろう。メディアにはとにかく金を使わせるためのメッセージしか流通しないものだ。
他ならぬ大学のゼミで上記のようなことを喋るのもどうかと思うが(笑)、世の中にはそうした構図が溢れており、自分の意思だと思っていることだって実は「思わされている」ということに少しは自覚的になった方が、創作の上で実りがあるではないかと思える。

私はだいたい「私にはやりたいことがある」なんていう言葉をあまり本気では信用しない。そう口にする人間に実際「やりたいこと」をさせたところで、たいして「やりたいこと」なんて無かった、というのがオチである。あるいはそれを認めたくないがゆえに途中で頓挫させたり、未完成で終わるとか。
少なくとも私はそんなものだったし(笑)、それに気がつけたことはたいへん大きな収穫であった。
だから私自身「やりたいことなんて別にない」のである。
飛躍した言い方だが、「やりたいことがある」と思ってしまうから、「やりたいことが阻害される」という事態に陥るのである。
私には「やりたいことなんて別にない」から、目の前の仕事を何とか「やりたいこと」にしてしまうのである。
そういう意味では確かに私は、やりたいことしかやっていない。
それは監督というポジションについたからではなく、その前からずっとやりたいことをやっている。
漫画だって頼まれもののイラストやカットだって、アニメの美術設定やレイアウト、脚本・コンテ・演出だってどれもやりたいようにやっているが、しかしそれは単に仕事として与えられた「やるべきこと」を「やりたいこと」として思えるように、自分の側を調整し、時には変形してきたからである。
決して「やりたいこと」が先にあったわけではない。
私の趣味には「エジプトの街で学生服の若者たちが、膝にハートマークをあしらった男と、背後霊を出し合って超能力バトルを繰り広げる」なんて話があるわけがないし、「B級アイドルと変態ファン」だって無縁だった。
でも、どちらもとても楽しい仕事だったし、不満もなかったし、やりたいことはやった気がする。
理由は簡単だ。どちらもそれらが「やりたいこと」として受け入れられるように、自分の側を変形しただけである。もし私に「やりたいこと」があるとしたら、自分を変形し続けたいといったことかもしれない。

フランスの格言に曰く。
「つまらぬ職業はない。つまらぬ人がいるだけだ」

昨日のブログに紹介したメールから、「今 敏はやりたいことを実現した人の一人と想定されている」と書いたが、業界人からも真面目にそう思われているらしいことにかなり驚いたことがあった。最近のことである。
業界人の飲みの席があり、そこには他の監督や演出家が何人かおられて口々にこのようなことを仰っていた。
「自分はやりたいことをやらせてもらえてない」
ありゃま。
そして、こうまで仰る。
「今さんはやりたいことをやっている」
歪な冗談でも流行っているのかと思った(笑)
いや流行しているのは「やりたいことシンドローム」ともいうべきものか。
たまたま最近仕事の必要があって世界の名言や格言に目を通しているので、ついつい引用したくなる。

イギリスの格言に曰く。
「幸福は自分の家庭にあり、他人の庭で探すものではない」
フランスからも一つ。
「幸福を自分の家で見つけるのは困難であるが、これをよそで見つけ出すのは不可能だ」

日本流にいえば、要するに先の発言は「隣の芝生は青い」ってだけのことなんじゃないのか(笑)
他人に憧れるような考え方や言葉遣いをしている限り、いつまで経ってもそれこそ「やりたいことの実現」なんてものにたどり着かないのではないのか。
ある意味、それらは構造的な「不発」や「不満」を呼び寄せかねないと思うのだが。

たとえばの話。アニメーションの演出を目指す素人さんから見れば、テレビシリーズの監督というポジションはすでに「やりたいことがやれている人」と想定される。にもかかわらず、実際にそうした人間が「やりたいことをやらせてもらえない」といった愚痴をこぼすのである。
またたとえばこんな。武蔵野美大の学生は、美術大学という特殊性から、他の一般大学の学生から見れば、おそらく「やりたいことを持っている人」「やりたいことが実現できている人」と見られがちであろう。しかし実状はどうか。それほど確たるものを持っている人がいるわけでもなかろう。少なくとも私はそうだった。
これら二つの例から容易に考えられるストーリーはこうだ。
アニメ業界を目指す素人が、業界に入ればそれで一つの「夢は叶う」ことになる。しかし勿論それで満足できないから憧れの演出や監督を目指す。さあ、その夢も叶ったとしよう。だがその演出も監督も「やりたいことをやらせてもらえない」と愚痴をこぼし、他の「やりたいことがやれている」人をうらやむ。
では、その愚痴をこぼす演出家や監督が、思うようにやれる環境を手に入れたとしよう。どうせ口にすることは同じだ。
「これじゃ足りない」
これが構造的な不満の最たるものだ。
こんな名言がある。

「我々は他人の幸福を羨み、他人は我々の幸福を羨む」
 ププリリウス・シルス「格言集」(前一世紀)

だからといって、現状に常に満足するべきだというわけではないし、わずかずつでも改善を心がけるのは当然であるが、しかし少しばかり「足を知る」という心がけも持ち合わせた方が、毎日の精神衛生には良いのではないか。

アリストテレス曰く。
「幸福は自足する人々のものである」

ちょっと考えれば分かることだろうに。
他人から見れば「やりたいことをやっている」と想定される人間が、主観的には「やりたいことをやらせてもらえない」と思うのであれば、その関係を延長して考えると、当人から見て「やりたいことをやっている」ように見える人の内情が決してそういうものではないことくらい想像はたやすいはずだ。
それが出来ないとしたら、想像力の欠如と言われても仕方ないのではないか。
自分を含む関係を想像できなくて、目の前にいる登場人物やその関係の何を演出できるのだろう?

主観的には「思うようにやらせてもらえない」と思うことはあるにせよ、見方を変えれば、いますでに自分はやりたいことがやれている状態にあるとも言えるわけだし、そのことを少しくらい自覚しても良さそうな気がする。
外部を経由した視線がないということは、子どもである。
子どものいうことはいつも同じだ。
「もっともっと」
あるいはこんな。
「他の人は持っているのに」
自分が持っているものは勘定に入らないのが子どもである。当然、自分を勘定に入れた他人との関係を考えられるわけもない。
そして他人をうらやむのだ。
以前にも書いたが、使う言葉によって考え方が強化促進される。
だから、他人をうらやむような言葉を吐けば吐くほど望む自分は遠ざかるものである。
やめた方がいいぞ。

「やりたいことがやりたいように出来るか」どうかは、ポジションや環境によるものではないし、実力や知名度によるものではない。いま目の前にある問題に対する取り組み方によって決まるものである。
いま取り組んでいる問題を、我がこととして引き受け、それを「やりたいこと」にしてしまえば、理論的にはいつでもすべてが「やりたいこと」になる。
それだけのことではないのか。
もしもやりたいことがやれるといった才能や能力があるとしたら、眼前の問題をやりたいことに変容させられる力をいうのではなかろうか。それは同時に自分を変形することも含んでいる。
変形といって語弊があるなら、拡張といっても良い。当の仕事によって自分を拡張してもらうのである。仕事は師匠だ。
いつか、あるいはどこかに行けば「やりたいことがやれるようになる」と思っている人、というよりそう思わされている人は、いつまで経ってもお望みの事態を迎えることはないと申し上げてもよかろう。
私が言っているのではない。古来有名な物語もそのことを的確に言い表している。
「青い鳥」

あれ。ゼミの話がどっかに行ってしまった。

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