2008年5月2日(金曜日)

制限の友



「オハヨウ」の解説は、まずその企画の由来から話し起こし、具体的な予算を紹介しつつ、これまでの監督作の分単位の予算比較を交えながら、切ない台所事情も披露する。
「オハヨウ」の制作費は予算は200万円(税込み)。
この予算を最大限有効に使うために、まず私のギャラを最大限に圧縮した。
無報酬でもいいのだが、それでは「仕事」とはいえなくなるので、最終的に「5万円」という冗談みたいな数字にした。そうでもしないと、スタッフへの報酬を確保できないのだから仕方ない。この5万円は打ち上げの費用となって消えた(笑)
ちなみに、1分で200万円(ただし音響費は別枠でNHK持ち)という制作費がどの程度のものなのか、素人さんには分かりにくいだろうからこんな数字も紹介しておく。
単純にテレビや劇場の1分あたりの予算は、概算で以下の通り。

TV1分  70万
劇場1分 290万

あくまで「当社比」である(TVは『妄想代理人』、劇場は『パプリカ』)。
予算の大きなTVシリーズなら上記の1.2〜1.3倍、中には2倍ということもあろうし、劇場なら倍から数倍の数字で制作されるケースもあるだろう。ジブリさんなら10倍くらいだろう。
この比較から1分200万は悪くない数字に思えるかもしれないが、いくら短編とはいえ「一本は一本」である。キャラクターデザインや美術設定、美術ボードも色彩設計だって必要になる。
短いながらも一本としての姿形を整えるための準備などを考え合わせると、せいぜいTVより少しましという程度であろう。せいぜい頑張って「プチ劇場」程度。そう、ちょうど『千年女優』くらい(笑)
『千年女優』で思い出したが、『千年』制作当時こんなことがあった。
当初のイメージでは「ここだけはどうしても雪が降っていなければならない」と思っていたシーン(冬の京都で千代子が鍵の君と一瞬出会うあたり)も、制作終盤を迎えて時間的人的余裕が失われてきたことによって、監督はこう判断せざるを得なくなった。
「よし、止める」
そういうものである。
そりゃあ勿論、雪が舞うあのシーンは見たかったし、その方がはるかに情感は豊かになっただろう。
しかし、出来ないことにいつまでも関わっていたら他のシーンが犠牲になりかねない。どうしても譲れないことならば何としても実現せねばならないが、重要なシーンは他にもたくさんあるのだから、クオリティを維持したまま実現可能なことを確実に獲得した方が全体としては実りが多い。
予算的人的配分を考えるのも演出の一つである。
もっといえば、私がやりたいことを考えるのではない。当の制作物がなりたがっているように世話をするのが演出というものであろう。

私の監督する制作現場では得てしてこんな調子で、外的な条件によって判断している。
確かに不本意なことも少なくはないが、私は自分のやりたいことが条件や制限に「阻害されている」とは考えないし、むしろそうした枠組みに判断を「助けてもらっている」と考えている。
どうせやるべきことが同じなら、気分良く実行した方が精神衛生上健康にも、それが反映する画面にとっても望ましい。
こうした私の考え方はともかく、外部から見ればこのような内情はどうやったって「やりたいことがやりたいようにやれている」といった状況ではないことくらいお分かりいただけるかと思う(笑)
敢えて言えば、私は「やりたいことがやれている」のではなく、「やりたいことがやれていると解釈するようにしている」だけのことである。

学生に「アニ*クリ15」すべてを鑑賞してもらったところで休憩時間。
10分という短い休憩は喫煙所で2服。
ああ、タバコが美味いこと。

授業再開。
発想から流れを作り、シナリオまでの経緯を紹介しながら、アイディアの出し方や育て方のヒントになりそうなことを伝える。
あくまで私の経験上獲得したやり方でしかないが、間違った態度ではなかろう。
そのうち、特に重要と思えるのは二つ。
一つは「枠組みと仲良くする」。
もう一つは「アイディアが生まれやすい身体を作る」。

まず、アイディアを考えるにあたっては条件や制約という枠組みと仲良くすることである。
枠組みが創作を大きく助けてくれるものなのである。
ルールが面白ければゲームが楽しくなるのと同じことだ。
これを考えられないといつまで経っても「やりたいことがやらせてもらえない」といった不平を口にし続けることになる。
具体的に言えば、まず制作のための枠組み、初期条件をきちんと洗い出すことである。
制作にかけられる期間、自分の能力と作業量、使用可能なハードやソフトなどなど、事前に考えられることはすべて検証する。
それらによって、制作可能な尺やカット数も導き出されるであろうし、ということは盛り込める量も自ずと決まってくる。
その見立ては経験がないと難しいだろうが(あってもたいへん難しいし、私は失敗ばかりである)、予測を立てて実践し、予測と実践のズレや失敗を次に活かすことが知性ある態度だ。
学ぶべきはノウハウではなく、そうした方法や態度であろう。

我々実際の制作現場の場合は、誰が参加してくるのか分からないところで作業量や質を考えなくてはならないが、学生の場合、個人制作か少人数のグループ制作なので、期間内の各人の作業量は予測しやすいだろう。
個人制作のアニメーションを例にして考えると、作画にかけられる期間を想定して、その時間でどれだけの枚数を描けるのか、リアルに考えてみればよい。
この時、何より重要なのは「あまり自分を信用しない」ということだ。
「いざとなったらすごい力を発揮できるはず」だとか「毎日こつこつやれば出来る」といった、それまでの自分の能力からとても想定されない事態を夢想するべきではない。私は今でもついしちゃうけど(笑)

あれこれシミュレーションしたところで、現実には想定通り上手くことが運ぶことはないし、むしろ破綻することの方が多いだろうが、最初に考えないよりは遙かに現実的である。
枠組みを考えられれば、それによってアイディアだって限定されてくる。
出来ないことまで一々考えていては、出来るはずものまで実現不能な事態に陥りかねない。

たとえば「オハヨウ」の場合、尺が1分と決められているのだから、「歴史大河ドラマ」や「スペースオペラ」なんてアイディアは端から考えなくて良い。もちろん敢えてそういう冗談を狙うなら別だが。
1分ということは、物語やストーリーという大袈裟なことは盛り込めない。せいぜいが流れみたいなものである。もちろんその流れの中にストーリーめいたものはあるのだが。
要するに、「伏線とオチ」があれば話になるのである。これは、私が20年ほど前にある方から聞いた名言である。
確かにその通り。ここでいう伏線とは、いわゆる「伏線の張り方が上手い」といった、「ほのめかし」というより、因果関係とか原因と結果、頭とお尻といった方が適切である。そう理解はしているが、「伏線とオチ」の方がピンと来るのでこの用法のまま進める。
全体のボリュームが小さいものなら(それが映像なら尺、漫画ならページ数)そこに盛り込める「伏線とオチ」の関係は一つが限度だろうし(4コマ漫画などはその最たる例だ)、ボリュームが増えるに従って、「伏線とオチ」の関係を増やしてその編み方に変化をつけることになる。
編み方の変化というのは、伏線からそれを回収するオチまでの「距離」に変化をつけるといったことで、たとえば話の冒頭で振った伏線を中盤で回収し、その途中に出てくる伏線は最後になるまで回収しない、といったような。あまりにも伏線ばかりが多くなって、回収までの時間がかかりすぎると、お客の方は飽きてしまったり、伏線そのものを忘れたりもするので、長めの「伏線とオチ」関係の間に短めに回収されるケースも編み込んだ方がお客に親切というものである。
「オハヨウ」の場合は、「眠たくて頭が半分しか起きない」という状態を文字通り分裂する身体として表すというアイディアである。「分裂」がいわば伏線なのだからオチとしては「合体」ということになる。「オハヨウ」はそれだけの映像である。それだけだからこそ、色や光の変化といった画面の「伏線とオチ」や、構図の工夫、ディテールの描写が重要になってくるのだが、それはまたコンテの解説の際にでも話すことにする。

最初に考える枠組みとしては、スタッフによる条件や限定ということだって大いに役立ってくれる。
「オハヨウ」はそのアイディアを決める以前に、作画を頼むアニメーターは鈴木美千代さんに決まっていた。彼女は今となってはアニメーション業界で私が最もつきあいの長くなった原画マン(『ジョジョ』の初演出以来『パプリカ』まで、すべてにおいてメインスタッフとして原画をお願いしている。『妄想代理人』1、2、13話と9話「O・H」では作監も担当)。
尺が短くカット数も少ないから、作画は彼女が一人で担当する。
ということは、彼女に向いたものという枠組みを設定できる。つまりメカや爆発はない方が本人も楽しかろう、と(笑)

作画同様、美術背景もあらかじめお願いする人が決まっていた。『パプリカ』でたいへんいい仕事を量的にもこなしてくれた東地和生さん。
ありがたくも私の仕事をしたいと仰ってくれていたので、短編とはいえ美術をお願いすることにした。そういう事情で美監レギュラーの池さんは「オハヨウ」はお休み。
東地さんは普段から背景をもっと勉強したい、と奇特なことを真剣に口にされていたので(勉強したいと口にする「だけ」の人なら業界には掃いて捨てるほどいる)、そうした条件も念頭において美術背景のコンセプトを考えた。具体的にいえば、「身の回りのものをきちんと再現する」ということ。これはつまりデッサンということであり、背景であれ作画であれ、基本中の基本。
「身の回りのもの」さえ上手く再現できないのであれば、アニメお得意の未来世界もファンタジー世界も再現できるわけがない。見たものさえ描けない者が、見たことのないものにリアリティを与えられる道理はなかろう。
同じように、作画担当の鈴木さんも、この時期人物のデッサンを強化したいという希望をお持ちだったので、人物中心の内容が宜しかろう、と。そしてデッサンの基本といえば女性の身体。主人公は女性しかあるまい。

こうした自分以外から生まれる枠組み、他者から到来する要請といっても良いが、これらはたいへん重宝する。「何でも有り」で考え始めると、時間が無駄になる。内発的な動機を何より問われる(のであろう)「アート」や「芸術」とは私は無縁な方だ。
だって私は「やりたいことなんか特にない」のである。
自分以外から到来する様々な条件や制限といった枠組みを考慮していったところで、ようやく「私」がやりたいことも「じゃあ……」ということで少しは生まれてくるというもの。
これを逆に、「私」から考え始めると後から出てくる枠組みとコンフリクトを生じるのは当然であろうし、無駄が累積する上に「私」の不本意も増大する。
「私」なんか最初に捨てた方が結果的に「私」の実りも多いものだ。
「私ありき」で育ってきた人、特に「オレ様」世代の方には共感いただけないとは思うが。
しかし、お釈迦様はこう仰っているそうだぞ。

「幸福は愛他精神から生まれ、不幸は自己本位から生まれた」

「枠組みと仲良くする」という話に続いて、もう一つ私が創作にあたって実践している「アイディアが生まれやすい身体を作る」方法を紹介するが、それはまた改めて。

何で文章が毎回こうも長くなるのだろう。

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