2009年1月28日(水曜日)

千代子讃江・その4



去年の10月上旬に、舞台版の脚本第一稿をもらっていた。
「ほとんど変わらないんだな……原作と。でもまぁ、本番までには大きく改変されるのだろう」
そう、思っていたのだが、見てびっくり。
原作が実に忠実に再現されている。何ということだ。
ロケット発射台から立花のスタジオへの見事なシーン転換に始まり、千代子の家へ向かう移動シーンや解体中の銀映撮影所でのシーンなども、実に上手く翻案され、原作で描こうとした「気分」が再現されている。
「なるほど……そういう風に演出するのか。気の利いたアイディアだなぁ」
しかも、それらは舞台ならではの視覚的な面白さに彩られつつ、同時にこの舞台版『千年女優』を「鑑賞するための手引き」がユーモアを交えつつ紹介されていく。これならば、観劇体験がほとんどないお客さんにもルールが分かりやすかろう。

原作に忠実だからこそ、アレンジや演出の翻案に驚き、感じ入ってしまうことしきりである。
1月18日付け、脚本・演出の末満健一さんのブログにこんなことが記してあった。
「原作付きをもし自分がやることになったら、やらねばならぬことがあった。それは復讐です。僕の大好きな面白い漫画や素晴らしい小説をくだらない映画やドラマに貶めたクリエイターたちへの復讐です。もちろん、その復讐はカミソリを送るとかそういうことではなく、よりよい原作付き作品を世に送り出すことによってしか成しえないこと。僕はその復讐は達成できたんじゃないかと思っています。腐ったクリエイターは僕たちを見習ったらいい。」
うう、この引用をしているだけで泣けてきた(笑)
今 敏の原作が関係しているだけにコメントしづらいのだが、原作ものの翻案について、100%同意したい。
自分のオリジナリティとやらを主張したいがために原作ものをいじくり回し、原作よりはるかにつまらないものを作って垂れ流している演出家とやらはアニメーション業界にも掃いて捨てるだけいる……って、そりゃお前だろ?
う。すいません。
竹内先生、筒井先生のファンの皆さま、申し訳ないことをしたかもしれません。
私もお言葉通り末満さんを見習いたいと思います。

立花と井田が千代子の山荘に着き、お手伝いの美濃が登場。
この美濃がいい。
映画版では片岡富枝さんが、いい味を出してくれていた。
舞台版において各登場人物のキャラクターイメージは原作を踏襲しているが、美濃はアレンジが加わり、さらに演じる松村里美さんがこれまたたいへんいい味を出している。ガクガクと歩く様がとてもいいのである。
老千代子が登場。
演じる中村真利亜さんが千代子の華やいだ雰囲気といいボケ具合を与えてくれている。
立花を演じる清水かおりさんの、お人柄がにじみ出る礼儀正しさと山根千佳さんのいかにもな井田のコンビもまた楽しい。

美濃が、立花と井田にお茶を出す。
無論、お茶もテーブルも舞台上には有りはしない。
だが、音はある。
「……カチャン」
一瞬、お茶が見えた気がした。
いや、大袈裟に言っているのではない。わずかな誇張に過ぎない。
しかし、本当にリアリティを持ってお茶とテーブルが感じられる。タイミングも絶妙だ。
全体に舞台版『千年女優』は音響効果もとても素晴らしい。
『パーフェクトブルー』以来、ずっと音響監督をお願いしている三間さんはこんなことを仰っていた。
「我々の仕事はいかに気にならないか、いかに何でもないかということ」
私も自分の仕事においてまったく同じ考え方をしている。
それが作画、美術、音響その他何であれ出しゃばって悪目立ちしていいものなど一つもない。
映画なら映画のためにすべてのプロセスや職種があるのであり、職種のための仕事というものはない。一部のアニメーターにはあるのかもしれないが。
舞台版の音響は、出しゃばらず下がりすぎず、舞台と観客をくるんでいる。
さすが「音響王子」と呼ばれるに相応しい。

山荘での老千代子から、若い千代子時代の回想に入る手管が実にスマートかつ美しい。
女優さんたちの動きによって形作られるサークルが象徴的である。『千年女優』において輪廻は重要なモチーフであり、円形や円運動は象徴的な機能を果たす。
映画版では単純にO.Lしていただけだったが(それも諸事情があって意図が達成されなかった)、なるほど女優さんたちによる円運動、加えて老千代子と若い千代子の台詞を重ね合わせることでたいへん印象的な回想の導入部に仕立てられている。
見事だ。
女優さんたちの動きを、時に優美に時に軽快に彩る衣装やヘアメイクが引き立たせている。芝居内容は勿論のこと、舞台という画面もまたたいへん目に心地よい。

上演前からどうなるのか気になっていたことの一つが「鍵の君」の表現である。原作でも処理に困った役である。千代子と接近することが多いのに、顔を見せるわけにはいかないし、顔をただ黒く潰せば不自然なことこの上ないことになる。
だからといって、認識できるほど顔を見せてしまってはイメージが特定されて、象徴的な存在であるはずの「鍵の君」としての機能を阻害する。
舞台上では、千代子が初めて「鍵の君」と出会うシーンに近づく。
原作の映画では絵で「雪景色」を提示できたが、固定されたセットではそうもいかない。「街には雪が積もっていた」という台詞で情景が喚起されるのだが、この言葉は短い間に(確か)もう一度繰り返される。
最初見たときには、「何故そこまで(強調するのか)?」と引っかかりがあったのだが、後半、クライマックス後のシーンで大いに納得した。
「雪」は強調しておかねばならない重要な伏線であり、後にその伏線に静かに応えるのは「効果音」であった。この結びつきはとても感動的であった。
いよいよ、雪の坂道で鍵の君と接触して転ぶ。
と。
鍵の君「すまない……。急いでいたもので」
なるほどぉ……そう来るのかぁ。
何だか、その演出だけで泣けてくる。
そうなのだ、「鍵の君」はあくまで千代子の記憶の住人なのである。
蔵の中での「指切り」のシーンなども実に印象的に表現されており、映画版に比べて物理的に「4倍」の感動をもたらせてくれる。
以後「鍵の君」は同様に描かれるのだが、どういう演出なのかは伏せておく。

さて「鍵の君」といえば、対になるのは「傷の男」。
こちらの表現は実にストレートで分かりやすい。
「あ、傷の男!」
そう名指された者が「傷の男」なのである(笑)

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