舞台は原作同様、速いテンポで展開して行く。
何しろ、原作通りの展開でなおかつ総尺まで揃っているのだから。
その表現は異なれど話は原作と同じということは、原作を見ている人間には、特に作った責任者などは内容をよく把握しているので、舞台の進行にすんなりと乗れる。
しかし……。
「原作を知らない人が見て話の進行が理解できるのだろうか(笑)」
という一抹の不安は覚えるが、場面転換も切れが良く演出にも芝居にも推進力が感じられてとにかく面白い。先を見たくなる。これが何より重要であろう。
後に、先の心配を一緒に観劇したアニメーターの鈴木さんに話すと素晴らしいレスポンスが返ってきた。
「大丈夫ですよ。原作だって一回見ただけじゃよく分からないんですから」
ああ、そりゃそうだ(笑)
実際、原作を知らない大勢のお客さんが難なく舞台を楽しめたようで、それは何より観客に対して丁寧な配慮を織り込んだ演出の手腕によるものだろう。
たった5人の女優で『千年女優』を舞台化するに当たって考案された「入れ子キャスティング」。
誰もが複数の役を引き受け、それどころか、誰もが千代子を演じさえもし、場合によっては(役がシャッフルされるたいへん面白い仕掛けがある)誰もがどの役を演じることにもなる。
昔、「惑星ピスタチオ」の『大切なバカンス』で「全員全役」という素晴らしい演出を見たことがあった。
私がこの舞台を見たときに一番強く感じたのはこんなこと。
「演出はそれだけでも見せ物だ」
念のため断っておくが、若者や頭がまだ若者はこの言葉を鵜呑みにしないように。
ストーリーと演出に必然的な結びつきがなくても(無論形而上的にはいくらでも結びつけようはあるが)、十分以上に成立するものなのだなと思った。というより、演出というのも、ストーリーとは別の一つの「物語」だと改めて認識させられた次第である。
末満さんは「惑星ピスタチオ」の流れを汲んでいるせいもあってだろう、混乱の危険もあり得る「入れ子キャスティング」を実に分かりやすく演出されており、女優さんたちの芝居もそれに応えて舞台に活力をみなぎらせている。
舞台上、わずかに使用される小道具「立花の帽子」「井田のメガネ」が視覚的に観客の認識をサポートしてくれる。ちなみに、他に使用される小道具は「万能の椅子」だけ。
原作をご存知の方には説明不要だろうが、『千年女優』においては複数の時間と空間が共存している。
名曲「ロタティオン」の歌詞にある通り「遙かな過去、遙かな今日、明日さえもここに」である。
それも、現実、回想、さらには千代子が出演した劇中劇という現実と幻想が入り交じって展開する。舞台上でも、それら複数の時空間のレイヤーが入れ替わり、さらには役者さえも入れ替わるのだ。
そんな複雑に絡み合う時空間を交通整理するだけでも演出の手腕が問われるというのに、さらには原作ではありえない、もう一つのレイヤーが加えられている。
それはつまり「作り手の事情」。
舞台芝居ではお馴染みである。女優さんたちが『千年女優』の役柄を演じつつも、「観客とTAKE IT EASY!メンバーとの対話」というモードも挿入される。
ある意味、作り手側の舞台裏を垣間見せる「楽屋落ち」であり、下手をすれば観客との馴れ合いということになりかねないのだろうが、まったく気にならないどころか、物語を楽しむスパイスとして、また観客の情動の振幅を広げるための演出とてしても機能しており、舞台版『千年女優』に厚みを与えるチャンネルとして確保されている。
何を言っているか、よく分からない?
末満さんを見習って、分かりやすく言い換えるとこういうことだ。
日誌をそのまま引用する。
「入れ子キャスティングも、そのルールを観客に丁寧に提示して、さらにはそれを一次元高い所からパロディにするサービスが随所にちりばめられている」
じゃあ、最初からその引用でいいじゃないか。