2009年2月1日(日曜日)

千代子讃江・その8



昨日土曜日、仕事場であるマッドハウスからほど近いマンションの一室を本拠地とする「映像部」を見学させてもらった。
「映像部」はアニメーションや実写を愛好する人たちのサークルで、中心となっているのは大学生。社会人やプロの業界人も混じっている。
以前からその存在は聞いていたが、どういう活動をしているのかに興味があり、とある原画マンを介して見学に行った次第である。
3LDKと覚しき場所に30人近い人間が犇めいていたのは、多分「今 敏が来る」という事情もあったのかもしれないが、実際にアニメーションを制作する活気に溢れていた。
これまで「映像部」で制作したアニメーションを見せてもらう。
技術的には幼いとはいえ、何より作品として頭から尻尾まで完成させているのが素晴らしい。この点には素直に感心する。
差し出がましかったかもしれないが、作品についていくつか感じたことを申し上げる。
その後、近所の「つぼ八」で大宴会である。
大手チェーンの居酒屋なんて久しぶりだが、賑やかな学生たちに囲まれて飲んで喋っていると、何かとても懐かしい気分にもなり、たいへん楽しい時間を過ごさせてもらった。
どうもありがとう、「映像部」の皆さん。

ということで、以下からまだ続くシリーズ「千代子讃江」。

満州の大地に汽車は行く。
「Bパートに入ったな」
つい、そう思ってしまうのは映画版監督の性である。無論、舞台上で進行する『千年女優』にA、B、Cパート等という区切りはなく、この3つのパート分けはフィルムのロール分けでもなく(フィルムは5ロールだったはず)、絵コンテ作業における便宜的な区分に過ぎない。

舞台上で万能な役をこなすのは女優さんたちだけではない。
椅子である。椅子がいい芝居をしてくれる。
無表情なはずの椅子は、時に命を吹き込まれて扉になり馬になり瓦礫になりロケットになり、そして椅子になる。
満州鉄道の特急「あじあ」(と想定される)列車内で座席を演じた椅子は、襲い来る馬賊の狩る馬に変じ、列車そのものさえ演じる。
椅子、七変化。
後に知り得たことだが、この椅子たちの中に一人「粗相癖」があるものが混じっていた。座って体重をかけると、
「プスゥ……ッ」
座面のクッション部分のどこからか、空気が漏れるのである。
トークショウの際、私はその椅子に当たった。ナイス。

列車内から逃げ出す千代子を「歪んで開かない扉」が行く手を阻む。
この扉も雄弁にいい芝居を見せてくれる(この扉は椅子ではない)。
開かない扉は一つのマジックによって開けられる。
どういうマジックかは伏せるが、このマジックには私も覚えがあった。
プロットか脚本制作時かは忘れたが、映画版でも当初このマジックを使う予定だった。確か……3回くらい。小道具は3回くらい使うと韻を踏んだ効果が生まれ、ストーリーがちょっと賢く見えるというものだ。
しかし、映画『千年女優』の世界観においてはどうも説得力に欠ける気がして使うことは諦めた。それぞれのマジックが小道具としての韻を踏む効果としても、形而上的な意味でも正しいとは思うのだが、どうしてもそれらを「見せるがための嘘くささ」が勝ってしまうように感じたのである。
そのマジックが舞台上で再現されているのが嬉しい。
しかも舞台では有効に機能している。これは、具体的な映像で見せねばならぬ映画と、より抽象性の高い舞台の顕著な差であろう。
このマジックは、後に刑務所のシーンでも奇跡を起こしてくれる。

戦国時代の姫君となった千代子の前に、あやかしの妖婆が現れる。
小道具がもう一つあった。糸車である。さすがにこれは具体的な物を用意しないと、意味が分かりにくかったのであろうし、回転運動をする糸車は廻る因果であり、輪廻の象徴だから視覚的にも重要である。具体的に登場する糸車とは別に、廻る糸車のシルエットを思わせる照明の演出があり、視覚的に非常に美しいものであった。ただ、その様は客席から見るよりも、控え室のモニターで見た俯瞰の構図の方が美しさが際だって見えた。是非、いつかリリースされるであろうDVDで楽しみたい。

千代子姫が敵の囲みを突破して、長門守源右衛門が討ち死にして、場面は現代へ戻ってくる。
山荘内、井田のカメラの前で老千代子と立花による「熱演される回想」が続いている。
このシーンは、海外の映画祭などでは大きな笑いがこぼれるところ。『千年女優』を最初にお披露目したカナダ・ファンタジア映画祭で上映した際の熱気が脳裏に甦ってくる。
映画版ではあっさりと流しているが、舞台版はここをもっと「押して」くれるので、客席の反応も大きい。いいシーンだ。

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