2000年2月6日(日曜日)

違うらしい/その3



 前回から随分間が空いてしまって、書いている当人が一体何を書いていたのかすら忘れてしまったほどなので、お付き合いいただいてる皆様においては尚更のことかと思われます。申し訳ない。もっとも、私が謝らねばならぬ程楽しみにしている方がいらっしゃるとは思えませんが、また少しずつ続きを書いてみようかという気になりました。別に仕事が過度に忙しくなって、現実逃避が始まったわけではありません。
 前回までの内容を忘れた方のために、簡単に要約しておきますと「“今 敏という人間は怖い”と思われがちだが、実際はもっと怖い」ということです。ウソです。そうしたイメージを払拭するべく本当の私について熱く語っているわけです。尚のこと冗談です。「なぜ怖いと思われるのか」あるいは広い意味で、作品や言動や外見から受けるイメージと実際の人間像とのズレを、不肖私を一サンプルにして考察しているわけです。


 「怖い」
 はて?一体何をして相手は私を「怖い」と想像していたのであろうか。
 これがどうにもよく分からない。よく分からないことを当て推量であれこれと書き連ねるのも不毛な気がするし、当の私に関する認識の問題は、これを御覧の方々の方がよく分かっておられることかもしれない。とは言うものの「怖い」というのは尋常ではない。日常生活で他者に対して「怖い」などと思うことなどそう滅多にあるものではないと思われる。実際、私は他人を怖がったりしない方だ。だから怖がられるのだ、って?的を射ているかもしれない。
 無駄な恐れなどは卑屈な自分の裏返しだと思っているので、心に一点の曇りもない私は人を怖がらない、というわけですね。ウソです。
 何てことはないのだ。一見恐そうな、というか人格的迫力を持った人間に出くわしても、その人間が一番情けないであろう瞬間を想像するとフレンドリィな気持ちになろうというもの。あれとかあれの瞬間の顔を思い浮かべてやりゃあいいのさ。みんな情けない顔をしているもんだ、といったのは誰の言葉であったろうか。
 まぁいい。
 逆に考えると「怖い人かと思ってました」ということは、「実際は怖くなかった」という認識があろう。怖いと思っている相手に対して「怖い人ですね」というわけもあるまい。つまり実際の私が与える印象は恐くはない、ということなのでこれをお読みの皆さんもお気軽にお付き合い下さいね。
 何が「ね」だ。

 最近は仕事絡みだけでなく、オンラインの知り合いにオフラインで顔を合わせる機会も多い。去年の秋、神戸での講演の際には当HPでも登場頻度の多い「朝風呂派」も訪ねてきてくれた。朝風呂派は以前にも会ったことがあるのだが、その日彼が連れてきた友達とは初対面であった。朝風呂派のHPからその場面を引用してみる。
>ダイ(朝風呂派の友人)はただ呆然と「恐そうな人やなぁ・・・」とつぶやいている。
 やはりである。面目躍如だ。恐いのである。や〜い、びびれ。
 とはいえ実際の私は彼らの飲食費を気前よく払わされていたりする足長オジサンである。
 また、少しばかり仕事絡みだがオフラインで人に会った。若い娘さんである。千年HPでは「姫様」として紹介させてもらったミス・ランニングモデルである。撮影終了後の焼き肉屋での打ち上げにおいて、特上カルビと共にまたしてもこのお馴染みの言葉に遭遇したわけである。
 「恐そうな人かと思ってました」
 やんや。痛快である。
 彼女曰く「HPとか掲示板の印象では、恐そうに思える」とのことであった。やんや、やんや、と思っていたら、同席した千年スタッフ一同から、矢のような突っ込みが来た。
 「HPの今さんは虚像だから」
 何と失敬な。
 「俺達の前で見せる顔とはまったく違うじゃないですか」
 無礼千万な。
 「あれは俺らの知らない今さん」
 ええい、そこへ直れ。

 実際それ程に本人とHPにおけるイメージにズレがあるのだろうか。私自身は正直一途、裏も表もなく、娑婆でもサイバースペースでも印刷物でもフィルム上でも掛け値無し、唯一の私である。絶対無二の本当の私。と書くとまたぞろ雨のように矢が飛んできそうだが、お構いなしである。他人の目を気にするような卑屈な男ではない。少しは気にしろ?しない。
 気にはしないが面白いのでさらに考えてみる。
 HPに限らず絵においても「恐そうな描き手」が想像されるとは一体どういうことであろうか。恐そう、のバリエーションで、厳しそう、というのも聞かれた感想である。
 厳しそうな絵。
 よもや他人に対してだけ厳しそうな絵、ということはあるまい。他人を非難し続ける絵などあったらそれこそ怖い。自分に厳しい感じを受ける絵だから他人にも厳しい人かも、ということか。やっぱり己に厳しい態度で仕事に臨んでいる私の、白刃のように研がれ磨かれた精神が覆い隠しようもなく輝きを放ってしまっているのであろうか。分かった分かった、ウソだよウソ。
 実際、とある原画マンは漏らしていたらしい。
 「今さんて、もっと厳しい人かと思ってました」
 私が自分の誕生日に、早々に仕事を切り上げて帰った、と知ってそう漏らしたらしい。私にも事情がある。それに仕事が遅れているとはいえ、自分の誕生日に美味いものと酒くらい飲んでもバチなどあたらない、と思う程度に緩い頭である。
 しかし何故であろうか。単純に絵が細かいからであろうか。細かいことまで気にして絵を描くような人間だから、きっと他人の細かい挙措動作もあげつらうに違いない、ということか。心外である。私は敵に対しては骨になっても戦い、弱いものに対してはあくまでいたわらねばならないという薩摩士道を叩き込まれた不器用な木強者(ぼっけもん)だ。おい。
 確かに細かいことに目が行く性格かもしれない。観察される側としては自分の弱さを掴まれるのではないか、という恐れがあるのかもしれないが、実は私は底抜けに陽気なイタリアンである。おい。
 しかし、それは私の人格というよりも私に接して恐いと思う人の内面の裏返しであろう。その点私なぞは裏も表もないだけに、誰に接しても恐いなどとただの一度も思ったことは……あるな。あるや。そういえば。

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