2001年2月9日(金曜日)

出張 その5“ん〜……”



 「ぎゃっ!」「ぎゃっ!」「ぎゃっ!」「ぎゃっ!」「ぎゃっ!」……

 学生が騒いでいるわけではない。
 すでに今は夕方、私は無事講義を終え控え室に戻っている。先程から窓の外が何やらうるさいな、と思っていたら、ムクドリである。
 この控え室は3階にあるのだが、窓の外にちょうど外の樹木のてっぺんが見える。その木がねぐらであるらしく、おびただしい数のムクドリが戻ってきて、飛び交いながらさんざめいているのだ。
 「六甲アイランド」という全き人造の土地に自然の行為が定着している情景に改めて不思議な気になる。
 しかしこのムクドリたちのねぐらの真下は駐車場になっているのだそうで、下手をすると車の色が変わるほどのフン害に遭うそうだ。そんな目に遭えば持ち主はさぞや憤慨するに……ま、いい。

 しかし、疲れた。
 一時間半立ちながら喋って、10分休憩、また一時間半喋るというのはかなり疲れることだよ。だいたい人前で喋ることなど私の職種に含まれていない。不慣れなことをするのはただでさえ疲れる。しかも講義ときている。楽しくはあったが、何より喉が疲れてしまった。しかも講義中禁煙は私には辛いものがある。
 講義内容は概ね次のようなものである。
 最初に「モノを見るとはどういうことか」といった概説をして、それから例の1と2の課題、それと写真を見ながら講評を行うわけだ。講評は3人一組。30人に足りないくらいの人数だから一組あたり12〜3分が適当な所要時間である。
 学生たちの絵を見ていて総じて言えることがあった。
 まったくもって淡泊である。
 モノをよく見ようとか、その対象がいかなるものかを描写しようという意識は感じられない。しかしながら1と2、二つの課題を出したのは概ね成功であったと言える。わずかな例を除いては、1と2の間に確かな変化は見られた。ただ、半分近くはおそらく課題への意欲が持続できなくなったため、2枚目の方がつまらない結果となってしまった。これもまた予測された事態ではあったが、ここまで割合が多いとは思わなかった。

 タバコの箱を例にとってこんな話をした。
 タバコの箱を描けといわれれば誰でも簡単に描くであろう。ただ「タバコの箱」であることが分かれば良いなら簡単である。四角い箱を描いて「CABIN」とでも書けば誰が見てもタバコの箱である。が、しかし。それは記号である。
 昔、高校生の頃、美大受験のために夏冬休みを利用して代々木ゼミに通っていたときのこと。デッサンの講師がこんなことを言っていた。
 「モチーフの1割しか見ていない。9割は頭で描いている」
 なるほど見るのは一割、残りは記憶と概念で描いているということである。見ているのに見ていないに等しい。
 さらに問題なのはその「9割」は信用するに足るものかどうか。意図的に見る訓練をしていない限りおよそ不審に満ちている。
 タバコの箱に話を戻すが、本当にこの「タバコの箱」がどのようにして出来上がっているのか誰も分かってはいないのである。
 この箱を作るに当たっては多くの人の力が働いている。タバコを取り出しやすいように、強度を保つためなどに創意工夫が凝らされや購買欲をそそるためにデザインは試行錯誤を繰り返されたはずである。
 モノを見て描写するというのはそうしたモノの背景までに思いを至らせて描くことである。記号を描くことでもなければ表面をなぞることでもないのだ。

 講評に入る。
 三人一組で黒板に彼らの作品を並べる。1と2の二枚ずつである。そして私が各々の写真を見ながらどの程度の描写であるか、何が出来ていて何が出来ていないかなどをコメントして行く形である。
 書き忘れていたが、受講者はアニメ学科とマンガ学科の学生が大半を占めている。それにビジュアルデザインといわれるいわゆるグラフィックデザインを学んでいる学生とコンピュータ関係のマルチメディアの学生が少し、である。
 総じて1枚目の方が本人がよく表現されているようである。絵からその人となりが伺えるのは好ましいことである。しかし、それはたまたま出ちゃっている、という程度で本人が意識化して紙に定着させているわけではない。この年頃の学生の意識では他人に伝えるにはどうすればより効果的か、といった発想はまだあるまい。
 だいたい課題に対する当人の関わり方が大雑把すぎるのだ。
 「部屋を描く」という課題をそのまま呑み込もうとしても消化不良を起こすに決まっている。大枠の「部屋を描く」という制限から、さらに部屋の何を描くのか、どういうイメージで捉えて描くのかがまったく絞られていない。無論、1は逆にそうなることを期待していたのであるが、2においてさえも自分の意図が発現してこないのは少々寂しい結果ではあった。
 何だか偉そうだな、私。手前が学生の頃もそんなものだったくせに。それにこれは業界にいるほとんどのプロといわれている人間でも大差がないのだから仕方ないことかもしれない。いいか、自分さえ出来れば。俺は出来るからいいや。その方が飯の種には困らないや……というのはウソだ。
 業界にいる人間でさえ表現に対する意識が低すぎる上に、さらには業界で上手な人間があまりに育ってきていないことに危機感がある。これから先のことを憂慮して、若い世代に少しは種を播く努力でもしてみようかな、という一応前向きな態度でもってこの仕事を引き受けている。牛が食べたい、だけとは言い切れないのだ。

 印象に残った作品を振り返ってみる。
 まず、のっけから驚いた。マンガ学科の学生の1の作品である。写真を見る限り、記憶も確かなようだ。部屋を真正面から捉え、床に本人らしき男が寝ている。しかし絵が荒くて何をしているかはよく分からない。
 「これは何をしているところ?」
 学生が小声で答える。
 「……リストカット」
 ……帰ろうかな。
 「ん〜……これが……一番落ち着く状態ですか?」
 「そういうわけではないけど……」
 聞く方も聞く方だが、まじめに答える方も答える方だ。先が思いやられる。
 彼の二枚目の作品はペンが入れられ清書されている。が。部屋の中にミニスカートの女子高生が後ろ姿で描かれている。受けを狙っているのやら何やら。
 「……女装趣味があるの?」
 「そういうわけではないです」
 「……部屋にこういう子が来ればいいなぁ、という願望なの?」
 「……まぁ」
 「実際に来たことは?」
 「……ないです」
 ん〜……彼が将来漫画家になれるかどうかより現在の精神状態が心配である。

 すでに卒業した学生が二人ほど混じっていた。いずれもマンガ学科の女子である。彼女たちはさすがに社会ですでにアシスタントをしているということもあって、モノを見ようという意識が現れている。
 この二人は仲が良いらしいのだが、不思議と描かれている絵に共通点がある。いずれも2枚目の絵、その中に描かれた当人がカーテンをわずかに開けてそこから外を眺めているのだ。無論部屋は違うし構図も違うのだが、何故このように一致するのか。何だか絵の講評をするというより心理分析家になった気にさせられる。
 おそらく無意識が表現されているのであろう。狭く開いた透き間から外を見る行為に現在の彼女たちの憧れめいたものが感じられる。それは彼女たちが社会を見る態度でもあろうし、もっと外、とくに彼女たちが目指すマンガの世界を知りたいという欲求にもつながっているのであろう。この2枚の絵はひどく印象に残った。描写も器用ではないが丹念になされている。彼女たちの成果物だけでも企画意図は達成されたような気さえする。

 はて。今度のは組み合わせの妙、というべきか。3人一組といっても仲の良いもの同士が固まるので自然と考え方も影響され合うのであろうか。
 彼女たち3人の絵は1枚目がすべて真上から描かれている。子供が描いた見取り図のようでもあるし、ちびまるこちゃん的世界が連想されたりもする。
 こういう絵も出てくるだろうとは思ったが、18、19歳の子供とはいえない、ましてや絵を勉強している者たちの中から3人もがこうした発想で絵を描いてくるとは思わなんだ。しかしあらかじめ断っておくが、このうちの一人は飛び抜けた才能を有している。何の才能かは分からないがともかく才能はある。私が下手に何か口を挟むのを躊躇うほどの逸材だと思う。
 他の二人は2枚目の絵が普通になっている。真面目に自分の部屋で、見ながら描いたのであろう。お世辞にも上手いとは言えないがモノを見ようという意識の変化は感じられる。正しい変化である。しかし、残る一人。
 1と2の絵の間に驚くべきことに!!……変化がない。まったく。
 ん〜……さすがに二の句が継げなくなる。
 2枚目もやはり子供の描いたような真上からの見取り図なのである。1枚目と同様トイレや玄関まですべて描かれているのも特徴的である。写真を見る限りごく普通の女の子の部屋である。しかし、発想は明らかに異質といっていい。彼女の絵を描く能力自体がそれほど変わっているとは思えないのだが、なぜその絵が出てくるのかまったく見当が付かない、という感じである。
 「……変化が…ないね」
 構図自体は全く同じ、ただ個々のものは少し描写は細かくなっているであろうか。
 切れ長の目で彼女が見返し、独特の間の後に言う。
 「……見て描きました」
 天才だ。断言する。
 社会に馴染みにくいかもしれないが間違いなく才能はある。
 私は彼女のファンになってしまった。

 しかしほんの何人かを除いては誰も清書ということをしないのだが、彼らは一体何になるつもりなのだろうか。漫画家はまだ絵の味で勝負することも可能だろうが、すくなくともアニメーターは最終的には絵をクリーンアップするという過程が待っているのだ。自分の絵の整理の仕方くらい早くから身に付けておいた方が得策だと思うのだが。

 講義は10分の休憩を挟んで1時間半ずつ、計3時間。1と2の課題の講評は2時間近くかかったであろうか。とにかく学生のリアクションが少ないので次に喋る言葉を探すのに苦労した。「ん〜……」を発する率がさぞや高かったであろう。小見出しに無理に関連させようとしているのが見え見えだが、許されたい。なかなか「ん」で始まる言葉が見つからないのだ(笑)
 何とか講評を終わらせて、残る1時間は具体的な作品の中における「部屋」の存在感について喋る。「部屋」といえば「パーフェクトブルー」である。事前に受講生たちには無理矢理「パーフェクト〜」を見せておいたので、話は早い。
 要するに「部屋」とはそこに住む人物の内面を表現する格好の素材である。人格そのものだと言い換えても良いくらいだ。ということは部屋を綿密に描写することで人物を表現することも可能である、というようなことを喋る。
 例えば「MEMORIES/彼女の思いで」。
 「見た人はいる?」
 かなりの数の手が上がる。これは私の監督作品ではないが、シナリオと設定を担当しているのでよく知っている立場である。
 この作品はある意味「お部屋探検」の話である。彼女の部屋を一つずつ開けて探って行くことは、すなわち彼女の内面に下りて行くこととイコールの構造になっている。下りていった底では彼女の部屋は、部屋とはいえないようなぐちゃぐちゃな空間になっている。それを際立たせるには、最初の方は描き手は苦痛を我慢してでも華美な部屋を描かねばならない、云々。
 例えば「千年女優」。まだ見てない人ばかりだが、ここでは千代子の部屋で昔語りがなされる。現実的にはこの空間を一歩も出ないのだが、その回想は空間も時間さえも超えた遙かな広がりを持った話になる。
 この千代子の部屋の中には3本の太い柱が立っている。少しでも部屋を狭く見せようという意図である。実はこれは茶室のイメージを借りている。

 茶室というのはご存知のように実に狭い空間である。この狭い空間に大陸や半島から渡ってきた書や陶器、はたまたインドから渡来の香を焚きしめることで、万里の波濤の彼方に広がる遙かな地平に思いを馳せたのだ、という。受け売りに決まっている。戦国時代の茶室について、司馬遼太郎のそんな記述があったのが印象に残っていたのである。
 ともかくそんなこんなの引用だの借用だのしながら、「らしく」見せるためには多くのイメージを絵に込めることが大切である云々、と最後は喉がへたれそうになったが、何とか3時間喋り終えた。
 学生は人数がさほど多くないせいか、私語もなく不慣れな講師にはまったくありがたいことであった。先日の成人式に無法な若者の姿を見ていただけに多少心配していたのだが、おとなしいといった方が良いくらいに静かであった。

 さて、夕食のお楽しみ牛肉会までは少し間がある。ホテルに戻って休むことにする。

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