2008年4月29日(火曜日)

「夢」商い



昨日は枕話だけで終わってしまった。
どうもコンスタントな更新が出来ない。去年のウェブリニューアルを機に少しはまめな更新をと思っていたのだが、いまだにブログの更新が日課には組み入れられていない。
何事も、日常の行為や仕事として定着するには時間がかかるし、時間をかけても定着しないこともある。ブログなどは単なる趣味だから滞ったところでさして実害はないが、仕事となるとそうもいかない。
今年度から始まったムサビのゼミも先週が2回目。一週間なんてあっという間に過ぎるもので、一回目が終わったと思ったらすぐに次回の準備が待っている。ペースに慣れるまでは少々時間がかかりそうだ。本来なら今日が三回目のゼミの筈だが、あいにく「昭和の日」でお休みである。来週も振り替え休日で休み。困ったな。
先週からはアートカレッジ神戸の月一の出張講義も始まった。
シナリオは思いの外進まず、まだ三分の二くらい。思うに任せないものである。

映像学科のゼミは短編「オハヨウ」を題材にして、そのメイキングを紹介することで、各々の卒業制作の参考にしてもらおうという狙いである。
「オハヨウ」の出来がどれほどのものかはともかく、一演出家が何とか「普通に見える映像」を作ろうとするのに、一体どのくらいのアイディアの量と労力をかけているものか、少しは想像してもらえるのではないかと期待している。
メイキングに触れる前にまずは雑談。
ゼミの二日ばかり前に見た映画『グエムル』と『アポカリプト』を紹介しながら、編集について少し触れる。
『グエムル』はケーブルテレビでかかっていたのをたまたま見た。韓国映画を見るのは多分初めてではなかろうか。
面白いとか面白くないという以前に、たいへんガッカリしてしまった。
期待して見始めたわけではないのだが、韓国本国ではヒットしたと聞いていたので興味は持って見ていたのだが、内容的なことではなく「映画術」という点で残念に思った。
あまりに編集に難があるのではないか。
もっともっと編集すれば(無駄と思えるシーンやカットを切れば)、もう少し気持ちよく見ていられるのではないかと思えるのだが、この映画がヒットしたといわれる本国の観客は、あのテンポを快適と感じるのだろうか。甚だ疑問だ。
私はイライラするだけであった。

どうにもテンポの気持ちの悪さだけが残ってしまったので、その後続けてDVDで『アポカリプト』を見てみた。生け贄の扱い方などにおいて、よその文化に対する視点として「いかがなものか」と思わされる部分はあるが(町山智浩さんのポッドキャスト「アメリカ映画特電」に詳しい)、アクション物としてとても面白く出来ている。
語弊はあるが、「普通のことが普通に出来ている」というのはたいへんなことなのだな、と改めて認識させられた。続けてみたせいで、ついつい『グエムル』と比べて見てしまったせいもあるのだが。
ちなみに、DVDに収録されているアメリカ版と日本版のトレーラーを見比べると、編集という点でたいへん興味深い。日本版がひどく説明的だったのはとても残念な気がした。

ゼミの前日に舞い込んだ2通のメールを紹介しつつ、雑談を続ける。
外務省所管の、とある独立行政法人から「北欧三カ国(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド)でアニメに関するレクチャー・ワークショップ」を担当して欲しい旨の依頼があった。
海外の映画祭やアニメーションイベントにご招待をいただくことはこれまでに何度もあったし、そうした場所でのレクチャーなどの依頼も時折ある。実際、他にもニューヨークのリンカーンセンターでの「今 敏レトロスペクティブ上映&展示」に出席して欲しいという依頼もあれば、広島国際アニメーションフェスティバルに関連する講演も予定されている。
しかし先のお誘いは国内の公的機関から海外に向けた「日本文化紹介」の一環として依頼したいということである。
おいおい、アニメーションはいつの間にそういう扱いになったのだ。あんなに「日陰者」扱いだったはずなのに。

同じ日に届けられたもう一通は、「様々な職業のトップランナーとしてご活躍の方々に取材」しておられるという方からで、「世界を舞台に活躍なさることの生きがいや意義について、また、ご自分の夢を実現するまでのエピソード、夢の持ち方、若者へのメッセージなど」について話を聞きたい、とのこと。キーワードは「夢探し」ということらしい。
同じ日に届いたというだけで、両者に何か共通点があるわけではないが、少々考え込んでしまった。
2通のメールを合わせると、つまりこういうことを言っている。
「日本を代表する文化であるアニメーションの世界で、国際的評価も高い今 敏は夢を実現しているトップランナーの一人である」
私がそう思っているわけではない。
どうもそういう風に「想定されている」らしいという話である。
冗談だろ(笑)

ある程度そうした想定があることは理解しているが、実感は全然持ち合わせていないし、私が「夢を実現した人」とは思ってもいない。
何だか、たちの悪い冗談が透けて見える。いまに始まったことではないし、感じる違和感は年々度合いを増している気がする。ある意味『パーフェクトブルー』は予言的だったかもしれない(笑)
要するに昨今の風潮は次のような考えが先にあって、それに当てはめて人を見ているのではないか。
「世の中には夢を実現した人がいるはずだ」
そうした想定が先にあって世の中を見渡した結果、イチローや松井選手などを始めとしたたいへんわかりやすい例に始まり、そこまでは行かないが海外でも注目されている人たちを掘り起こし、さらにその末端に位置するらしき今 敏程度にも依頼が来るのではなかろうか。
少なくとも私は子どもの頃からの夢だの若いときの夢を実現した結果「アニメーション監督」になったわけではない。たまたま「なっちゃった」だけの人間である。
なにがしかその筋で有名になる人は、まず夢があって、それを実現した結果その名前が人前に出るようになった、というストーリーが勝手に設定されているとしか思えない。
なぜそういう設定がなされるのか。
まず、このストーリーはたいへん遂行的なメッセージを含んでいる。
「夢を実現せよ」
そして、これを逆から考えて「何かを成し遂げるには夢が必要である」ということにすり替えているように思える。「誰が」とはいわないが。
その結果、若者に「夢を持て」と「脅迫」しているような構図さえ浮かび上がってきている気がするのは私だけだろうか。
「夢を持っていない君は変だ」
そういう脅迫。いやな恫喝だなぁ。
この「夢」は「やりたいこと」と同義である。
そんなもの持ってなくたって全然かまわないはずなのに、「夢探し」「夢の実現」「自己実現」「自分探し」などの単語で若者(に限らないが)を煽り立てるのは一体どうしてなんでしょう。
若者の未来のため?(笑)
まさかそんなお人好しはそうそういるまい。
それによって受益する人がいない限りそんな言葉遣いが垂れ流され続るわけもなかろう。
人々の危機感を煽り、操作することで生まれるのは飽くなき「金儲け」以外にない。
金儲けが悪いわけでは勿論ない。しかし、人の不安を煽り笑顔で恐喝するようなやり口がどうにもいやらしくて気に入らない。私もそこに加担しているだけにどうも気分が悪い(笑)
その風潮に乗せられる方は気の毒だが、しかし疑いもしない人が多いのはどういうわけなんだろう。

国内の不安を煽りたてれば戦争だって簡単に出来るようになるのはどこかの国でお馴染みだし、メタボや病気の不安を煽れば健康食品やらスポーツメーカー、医療関係などの売り上げは増大するし、環境問題を煽り立てて新たな消費を無理矢理に生み出すのはお手の物らしい。それが環境にさらによけいな負荷をかけることになるかもしれないなどとは疑いもせず、「正しい」と思いこまされた人々による善意と笑顔の暴力が広がっているように思えて来る。
気のせいじゃないだろう。
「夢探し」や「自分探し」も同じく金儲けのためのマジックワードに他ならない。
もちろん、真面目にそうした問題に取り組んでいる人たちを批判するつもりはないし、無駄な不安の解消のために活動されている方もおられるだろうから、微力とはいえ協力もしたいとも思う。
ただ、それがどういう目的や態度であれ、たとえそれらを批判や否定するためであっても「夢探し」「夢の実現」「自己実現」「自分探し」といった言葉を使ってしまうことは、結果的にそれらを広めることに加担することになるのだし(実際、このテキストもそうだ)、それらを促進する傾向に棹差すことになるのではないかという気もしてしまう。
かくして夢商いがさらに拡大してしまうのだろう。

また長くなってきたので、続きは明日。

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