2009年1月6日(火曜日)

本末転倒



身の回りからはめっきりと正月らしさが後退しているが、せめて正月らしいと言えば、せいぜい落語であろうか。
世間的に言えば、別に落語が正月のアイテムとして定番というわけでもあるまいが、私の子供の頃の記憶では落語と正月は比較的親しく結びついている。正月のテレビ番組で落語を見ることが多かったからかもしれない。
何より、落語はおめでたい人たちが登場するめでたい話が多い。

正月の朝、目が覚めて布団の中で聞く落語というのはなかなか乙なもので、寝床で「寝床」に笑うなんてのは、実に正月らしいのんびりとした気分である。
年末のブログにも書いたが、近頃個人的に落語ブーム、というよりは志ん生ブームである。人生において2度目の志ん生ブームだ。
四半世紀前(おや、この言葉を使い頻度が妙に高いな)、志ん生を知ったときにはままならなかった「お足」も、少しは自由になるようになったので、かねてから欲しかった志ん生全集を手に入れた。
「五代目古今亭志ん生大全集」、CDにして全48巻である。聞き応え十分。
近頃は、コンテの清書中やら通勤時、寝るときにまでiTunesやiPodで愛聴している。仕事中に落語を聞ける仕事で本当に良かった。

シナリオや絵コンテのキャプションなど文章を扱う仕事、カット割りなどを考えているときにはさすがに落語を楽しむわけにはいかないが、清書となるとさして脳の回転数を上げる必要もないので、ずっと落語を聞いていられる。
全集購入当時、折良く仕事は厄介な清書を迎えていた。厄介、というのはそれだけ手間暇がかかるということで、つまりはそれだけ志ん生を聞いていられる。
一日に2、3枚、多いときには5枚分くらいは聞いていたのだが、生憎全48巻を一通り聞き終える前に、清書の方が終わってしまった。
抱えていた分の清書とキャプション・尺が入れ終わったのは、クリスマスの頃。仕事納めにはまだわずかに間があったものの、新規コンテに入るには中途半端ということもあり、かねてから描こうと思っていたコンテの表紙を描くことにした。何しろ「清書」をしたいのである。つまりはこういうこと。
「もっと志ん生を聞きたい」

CD全集も後半になってくると、「心中時雨傘」「江島屋騒動」「塩原多助一代記〜道連れ小平」「安中草三牢破り」「後家安とその妹」「穴釣り三次」など上下や上中下、前篇後編といった連続ものが多くなり、「名人長二」などは全五席に渡る大物である。ブツ切れで聞きたくないので、聞くとなるとそれだけのまとまった時間が必要なのである。必要ならば作る。
落語の都合で仕事を作るのだから本末転倒なことこの上ない。
何のために仕事をしているのかよく分からないことになっているが、それもまた落語的であろうし、コンテの表紙を描くくらい仕事のうちと言っても良かろう。今のところ新作用にはこれといった「旗印」もないので、コンテの表紙と兼用してスタッフルームの入り口を飾るビジュアルにでもしようという目論見である。
ふと思い立って、描いたのが下の画像である。

coverillustration.jpg

実に華がないね。全然ない。
華がないどころか、このロボットには頭と覚しきものもない。これが主人公の初期設定である。話の進行に従ってこのロボットも育つ予定だ。
画像の左右を飾っているのは、絵コンテからの抜粋画像で、遠目にはグレーのラインに見えるように構成している。
判別できる程度の解像度にしておいたので、どういう類のものが描かれているのかお分かりになるであろう。ちょっとした「予告篇」だ。
こんなものを描いているから目と手に過度な負担がかかるのだが、こんなものを嬉々として描く(ということになっている)のが今 敏の身上である(と思われる)。
時間のかかるものを描いている分だけ志ん生を楽しめるのはいいのだが、それだけ絵コンテの進み具合が牛歩になってしまう事態には困惑している。
だが、描かなければならないのである。絶対。
だって、誰も描いてくれないんだもん。って、当たり前だっちゅうの。

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