思い出と下らない話題でさっぱり先に進まない「千代子讃江」シリーズだが、舞台版『千年女優』観劇が鍵となって「回顧の扉」が開けられたらしいので仕方あるまい。
あろうことか、監督作のDVDを自宅のプレイヤーに押し込むなんて真似までしている。
あな、怖ろしや。それは「見るなの部屋」。
しかし単に回想に浸っているというわけでもなく、現在制作中の映画をより深く捉えるためであり、より切実にどういう作り方をすればいいのかを探るために必要になっているらしい。
不思議なことにこの「プチ十年の土産」傾向は私の内的なものだけではなく、外部にもシンクロを感じることがあって興味深い。
たとえば、最近こんな依頼が続けて二つほどあった。
フランスで行われるアニメーションのイベントで、今 敏監督の全作を上映するので是非講演なども催したいので招待したい、と。
もう一つは、スイスの著名な映画祭で日本製アニメーションの大回顧展が企画されているそうで、ここでも『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』『パプリカ』の上映が希望されており、セミナー開催などのために招聘したい、と。
どちら様も本当にありがとうございます。
誠にありがたいことですが、申し訳ありません。黄色いロボットが早く描け早く描けとだだをこねる毎日なので、海外出張は極めて困難な状況であります。
また、こんな知らせもいただいた。
『パプリカ』で大変お世話になった、ベネチア映画祭の主席プログラムディレクター、マルコ・ミューラー氏が「アニメ・映像事情を含みつつ、今監督の本 を出すそう」だとのこと。
ありがとうございます。
そのイントロダクションをいただいたので(イタリア語のテキストを翻訳してもらった)、ご紹介させてもらう。
「宮崎駿の時代に、押井守と同様に奇抜でエキセントリックな主人公を描き、現代日本アニメ映画アーティストとして素晴らしい貢献をしている。
惜しみない技術と独特なアーティスティックな感覚で、もっとも刺激的な漫画・アニメ産業の文化の1ページのようにこの映画を確立させている。
作品の本質は、多数の暗示を示して始まるが、典型的な形の結果にはならない。(いつも視聴者が見つけることが出来るようで、しかし本質は、妄想に取り付かれて気まぐれに変化し続ける) 激しさ・狡猾さ・偏在性は、ヨーヨーのように監督の手の中に戻っていく。双曲線でつかみどころのない空間の感覚は、今監督だけが持っている。
監督は、人間の不条理さを取り戻すために、現実の隙間を操作している。
曖昧さを回避するために最後に自問する必要がある。これは、詩なのか、詩ではないのか。疑いなく今敏の映画は、夢想家の詩であると返答する。」 「素晴らしい貢献」をしているかどうかは甚だ疑問だが、しかし、そうか。今 敏は「夢想家」なのだな。夢見る45歳。
しかし広辞苑によると「夢想家」とは「あてもないことを思いめぐらしてばかりいる人。」とある。
あ、ちょうど現在の私ではないか。
そういえば、大晦日には日大文理学部心理学科、横田正夫先生から「今敏のアニメーションにおける停滞する悪意:成人期危機と中年期危機」という小論もいただいた。『MEMORIES/彼女の想いで』から始まり、『パーフェクトブルー』と『パプリカ』を中心とした内容で、それによると、今 敏は「成人期、中年期それぞれのテーマを乗り越えることを描いてきている」ということになるらしい。
ふむ。どうやらことの順序が逆かもしれない。
外部の状況が内部の傾向を惹起しているという方が正しいのか。強制的に思い出させられているということか。何のために?(笑) 昨年開催した「十年の土産」では足りなかったということなのだろうか。
しかしなぁ、「十一年の土産」じゃあまりにも忙しないじゃないか。
ということで、近況が長くなったがここから「千代子讃江」シリーズの続き。
「鍵の君」を求めて千代子は満州に渡る。
実際は映画の撮影のためである。この映画は原作版では「士勇の痍傷」と想定されている。タイトルは逆から読むように。
少々舞台版体験の話題から横道に逸れる。
劇中映画のタイトルを確認しようと、珍しく「千年女優画報」を開いてみた。
この「士勇の痍傷」のポスター画像(ちなみに劇中に登場する映画のポスターやチラシは監督が描いている)の横に、そのあらすじが書いてある。
「暴漢に襲われた千代子を救う陸軍少尉。彼と再会するために、千代子は赤十字の看護婦となって大陸へ渡るが、秘密作戦に参加している少尉の行方は杳としてつかめない。馬賊の襲来、満州の金持ちによる貞操の危機、あるいは謎の女スパイの妨害といった苦難を乗り越えていく千代子。戦前に撮られた彼女のデビュー作。」 そういう映画だったんだ……(笑) このテキストを書いた覚えがないから、多分今 敏が何となく考えていた内容を編集者が補足してまとめてくれたのであろう。
その他の劇中映画も同様に、ポスターやチラシの画像と共にそれらしいあらすじが付されている。
舞台版『千年女優』のサントラCD付きパンフレットも感動を甦らせるアイテムとして素晴らしいが、「千年女優画報」も多くの本編画像や制作資料画像、出演者やスタッフのインタビューや対談を収録し、たいへん丁寧に編集されたムック本である。
是非舞台版、映画版を問わず『千年女優』鑑賞の洒落た手引きに是非お手元に。って、こんなところで宣伝かよ。
「千年女優画報」 (発行:マッドハウス、スタイル 発売:スタイル ¥2700+税) 以下に詳しい情報がありました。
http://www.style.fm/as/02_topi……1116.shtml 閑話休題。
舞台上は満州の撮影現場。取材する立花と井田はいつの間にか、映画の撮影スタッフとして取り込まれたりもしている。
映画版にはない、気の利いたアイディア。私も使いたかったな(笑) 島尾詠子にいびられた千代子が、はねのけるように叫ぶ。
千代子「私…、一目あの人に逢いたいんです!」 その言葉が強い。
全般に、特に若い千代子が感情を表出させて声を張る場面は映画版より遙かに印象が強い。無論、監督の演出的力量が足りなかったという面もあるかもしれないが、声優さんが弱かったということではない。
そこに言葉を発する実際の身体がある。舞台ならではの強みだと思われる。
千代子というのは(あくまで私の解釈に過ぎないが)「突発的な人」である。
内面で感情が筋道立って盛り上がるのではなく、急にテンションが上がって声を上げるなり走り出すなりしてしまう人で、その自分の行為が感情をさらに昂ぶり、その昂ぶりが次の行為を触発し……というスパイラルとなっていく。それが千代子であり、『千年女優』だと考えていた。
ではその一番の元となる「突発」の核には何があるかというと、これは分からない。分かってはいけない部分であると思うし、実はそこは「空っぽ」だといってもいいのではないかとすら思っている。空っぽが悪ければ「真空」でもいいのだが。
この点、反発を感じる人も多いのかもしれないが、しかし千代子に限らず人というのは得てしてそういうものではないかと私は思う方だ。
だから千代子はむしろ「弾みで」(笑)、声を上げたことが感情に点火する。そういう構図なのではないかと私は思っていた。
その、声が強い。
見ている方としては、千代子の感情に同期して言葉を受け取るのではなく、その言葉によって千代子の突発的な感情に触れるわけだから、その声の強さがストレートに観客を揺さぶってくれる。
言葉を発する主体が身体を持ってそこにある。
これは実写であれアニメーションであれ、二次的な表現である映像では絶対に及ばぬ魅力であるし、舞台を映像化しても再現され得ないものあろう。
小柄な前渕さなえさんが全身声になったかのような迫力である。迫力という言葉は不似合いかもしれない。届かぬ何かに懸命に届こうとしている感じがたいへん健気に映り、それが絶妙に千代子なのである。
健気な千代子は、詠子が仕込んだインチキ占い師に探し人を尋ねる。
舞台版では、軽い笑いを誘う仕掛けが講じてある。この適度にいい加減な演出と千代子の懸命さの対比が利いているので、千代子の台詞がいっそう強調される。
「教えてください! あの人は今どこに!」 脳裏にアフレコのシーンが甦る。
占い師役の声優さんが、老人風の声を作っているせいか、言葉が少々聞き取りにくかった。最初、どう聞いてもこのようにしか聞こえなかった。
「その男……もしやカニを探しているのでは!?」 生臭いよ、それじゃ。
2009年1月31日(土曜日)
千代子讃江・その7
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