先日このブログで今 敏に関する評論がイタリアで出版されるという話を紹介し、マルコ・ミューラー氏が書かれたという序文を引用させてもらった。
別のルートからもたらされた情報によると、どうもこの本のことであるらしい。
http://animeclick.lycos.it/not……p?id=21132
このページには各国語への翻訳もリンクもあり、日の丸をクリックすると下記のような、なかなか陽気な日本語が現れる。
「今敏は 、 新世代は、日本のアニメーションの取締役と感謝されている最も有名な、主要な映画祭での仕事のおかげで参加する。彼の映画の分析(パーフェクトブルー、千年女優、東京都の名付親とパプリカ)とテレビ番組制作 ( パラノイアを介して非常に重要な芸術の図にイタリアでこの本は、最初の調査は 、 提案されている複雑な問題を分析するコン、エージェント) 、さらに ” クロス”日本のアニメーションの主要国や国際的な専門家による治療を一部のおかげで、彼の素晴らしい作品のすべての側面に触れる。 カラフルな夢の世界での旅をする必要があります一般的にアニメや映画のファン。マルコミュラーによる序文。」
「取締役」というのもいかしているが、「東京都の名付親」はなかなか愉快だ。
内容は、色々な著者による評論集のようで、「15ユーロの価格は264ページを数える」ということなので、なかなか大部の本のようだ。
この本の著者の一人の友人の友人という方から丁寧なお問い合わせがあった。
この方は「彼らから日本でこの本を翻訳出版できないか相談を受けている」とのことで、今 敏がもしこの件に興味があれば協力してもらえまいか、と。
今 敏は今 敏に関するテキストを積極的に読む趣味はないし、今 敏に関する評論を今 敏が率先して営業するなんてのも珍妙な構図だし、だいたい『夢みる機械』が忙しいのだが、さりとて全然他人事というわけでもないので、出来ることがあれば協力はしたいものである。
「今監督の作品がヨーロッパでも高く評価されている事実を、日本の映画ファンにも広く紹介できる素敵な機会となるのではないか」とのありがたいお言葉だが、日本で高く評価されているわけでもないし……ましてや売れているわけでは全然ないし……今 敏個人としては翻訳出版の実現性を疑問視しつつ……。
もし出版に興味のある方がおられればご連絡ください。
前置きが済んだところで、ではしつこく「千代子讃江」第12回。
千代子の元に「傷の男」が現れ、過去から届いた「鍵の君」の手紙を渡す。
手紙によって感情が昂ぶった千代子が一気に走り出す。
いよいよクライマックスである。
「手紙」の文面が読み上げられる中、千代子が走る。
それを読む「鍵の君」の声、その解釈が実に面白い。映画では絶対にありえないが、生の舞台ならではの演出であろう。
舞台の熱が一気に上がる。
そして何といっても、このシーンをいっそう盛り上げるのが『数え歌 無限千年回廊』である。
健気にひた走る千代子のバックにこんな泣ける曲を流された日にはあんた、そりゃもうね、たいへんですよ、ええ。
本当に素敵な曲であり、相応しい詩である。
曲単体としても可憐だと思うが、何より芝居との相乗効果が素晴らしい。
破壊力抜群(笑) うう、泣きそう。
プロの歌い手ではないのがまたいい。
何しろ、「千代子たち」が歌っているのである。
その声はベタつかず、たおやかで健気でもあり、可憐でありつつも凛々しいのである。
千代子の内なる声、千代子の歌なのだ。
このスタンスに舞台版『千年女優』の解釈、そのエッセンスを見る思いがした。
以前、末満さんから聞いていたとおり舞台版は千代子の視点で解釈された演出で、曲も詩の在り方も「愛し君は何処に」とある通り、千代子の感情に寄り添ったスタンスだ。
ただ、単に感情を歌い上げたというわけではなく、形而上を表す言葉がちりばめられているので、感情面が強調されつつも無意識的な広がりがある。
対する映画版は、立花という男性視点という意味だけではなく、演出もその音楽の在り方もやはり父性的なのである(だからといって舞台版が母性的とは思わないが)。
監督の演出意図としては、平沢さんの雄々しい叫びは無意識の彼方から千代子を呼ぶ声であると解釈されていた。その正体不明の声に導かれるように、千代子が走る、と。千代子はその声に抗うことは出来ないし、それが何故なのかも分からない。
千代子の内部にあって、しかし自分では決して分からない外部から到来する声。映画において千代子は呼ばれる客体である。
舞台において千代子は歌う主体である。
いずれの音楽も千代子の内部から聞こえるものではあるが、「千代子から聞こえる」と「千代子が聞いている」という大きな違いが感じられる。
だから舞台版には「乙女」が感じられるのだろう。
実に健気で可憐な乙女だ。
それに対して、今 敏の演出と平沢さんの音楽の組み合わせでは、どうしてもこういうイメージになってしまう気がする。
「おい、そこの乙女」
北海道へひた走る千代子。
映画版同様、舞台上ではめまぐるしく回想や映画のシーンがフラッシュバックのように移り変わり、その中を千代子が懸命に走る!走る!走る!
誰よりもその先の展開を知っている原作者なのに、つい釣り込まれて思ってしまう。
「がんばれ!千代子」
私にしては珍しいほどうっかりかつ素直に感情移入してしまったのだが、その対象が舞台にいる千代子そのものなのか舞台版『千年女優』なのか、映画版やその制作のこと、『千年女優』にまつわるすべてのものに対してだったのかは分からない。
多分、すべてのものが舞台で懸命に走る千代子に凝縮されていたのだろう。
爆発的なまでに気持ちが揺さぶられてしまった。
何て正しいクライマックス。
千代子の勢いは、怪獣をも蹴散らす。
確か初日は一頭だけで、二日目からはその障害が倍に増えるというサービスもものともせずに千代子が行く。
千代子がついに辿り着く先が映画版とどう違うのか!
……は、見てのお楽しみ。