拾い読みの続き。
『経済成長という病』平川克美
経済にはとんと関心がないが、経済を通した倫理や哲学、普遍に通じる物の見方を示してくれる平川克美さんの本は大変示唆に富んでおり、著書が出るのを楽しみにしている。
自分の頭で考える、ということについてたとえばこのような端的な例を示してくれる。
「「考える」ことに要請されているのは、たとえば奇術の種を明かすことではなく、なぜ人は奇術にやすやすと騙されてしまうのかと問うことだと思う」
リーチの長い考え方である。
専門家の陥る罠にたいしてはこんな指摘を。
「経済の専門家は、時の経済の枠組みが作った言葉で考え、その枠組みの価値観で判断している」
なるほどその通りだなぁ。
使う言葉が思考を規定するという最たるケースだ。
「プロ=専門家というものがしばしば陥るピットフォールは、素人が知らない裏事情に通じているといったことや、一次資料や現場にあたってきたという経験の蓄積は、事実を説明するためには有効であるが、状況の判断や、将来に対する推論に対しては、素人に卓越しているということをなんら意味していないということに対する自覚の欠如である」
耳が痛い。
「自覚の欠如」が結局は「分かったつもりの思考停止」につながるのであろう。
マンガ畑からアニメーションの業界に移ってきた当初は、業界人には見えにくい問題がとても見えやすかったが、すっかりアニメ業界人として定着してしまった現在、慣れゆえに単純な問題さえ見なくなっていたり、習慣化した不合理を疑えなくなったりしているであろう。
勉強します。
この本は「ドッグイヤー」がいっぱいだ。
「どのような集団のメンバーであろうと、わかりやすい人間であることが要求される」「とにかく、ひとことで説明できるような役割を与えられる」
わっはっは、まったくまったく。
「どうしてか。そうでないと、人物判断の処方箋が書けないからである。評価ができない」
おーおー、どっかの「木っ端役人」のことみたいだ。
そして、こうした標準化を憂えて著者はこう断言する。
「「わけのわからなさ」には意味がある」
かっこいい。
「ひとりひとりが、分割されて、お互いに交通することをしなくなることを称して「多様化の時代」と言うなら、それは人間の本質的な多様性というものの価値を断念した時代という他はない」
教育の問題に対しても、「教育の現場にビジネスの等価交換的な価値観を導入」することで「等価交換的な価値観でしかものを考えることのできない生徒を大量に再生産」する指摘する。
とりわけ教育の恐ろしさをこう記しており深く身体的に納得してしまう。
「先生が生徒に授ける知識と同時に、その授け方、方法、プロセスのすべてがそのまま生徒に授けられてしまうということである」
うう、教育現場の末席に連なるものとして耳が痛いと同時に、自分に刷り込まれた授け方をせめて検証しなくてはという気になる。
教えている内容に問題がなければ教えているものがニセモノでも支障はない、うちには問題なかったと判断するような某美大の木っ端役人に聞かせたいが、どうせ聞く耳を持たないのだろう。
それが木っ端役人だもの。
『一神教の誕生』加藤 隆
時折宗教に関する本を読みたくなる。
別に特定の宗教に帰依したい気持ちがあるわけでなく、ましてや救いを求めているとかいうわけでは全然ない。
単純に宗教の成り立ちや背景、哲学的な面に対する興味であろう。
この本を購入する際、同時に『入門 哲学としての仏教』という新書を合わせて選んでいるが、こちらはまだ読みかけ。
印象に残ったのはユダヤ教における「律法主義での「罪人」の登場」というくだり。ちょっと自分の仕事のことが重なって思い起こされドキッとした。
ユダヤ教の聖典「律法」というのは敢えて完全なる理解が及ばないように書かれた書物だそうだ。しかし「完璧な律法理解に到達することはあり得ないかもしれない」ものの、「不十分な律法理解のあり方は、どれも同じように不適切なのではなく、その間に優劣があるのである。そうでなくてはより良い律法理解の努力をする意味がなくなってしまう」ことになる。
完璧な描画や作画能力はありえないが、そこを目指そうと努力し続けることを正しいと前提してしまうあり方がついつい重なってきてしまうのは職業病か(笑)
「律法主義が支配的になることによって、社会の中が、より良い律法理解の絶えざる競争の場になってしまうのである」
そりゃあ、そういうことになるし、より良い作画や背景、広く映画やアニメーションを求めてやまないという、ある意味「正しい」態度も同じ現象を引き起こすことになる。
「このような状況では、より良い律法理解に達した者の方が、そうでない者よりも優れている」
より良い作画に達した者の方が、そうでない者より優れているとされる価値観は業界標準である。
このことによって当然、人々の間に価値的序列が生じる。
「律法の理解というには程遠い者、律法を守っていないとはっきり言えるような者は、宗教社会的にはっきりと否定的に位置づけられるという現象が生じてくる」
宗教社会じゃなくても、努力を続けない者は否定的に見られるもので、当業界でもお馴染みである。最近は違うみたいだけど。
「律法の理解や実践に限らず、何らかの活動や行動に本質的な宗教的価値があるとする場合に、こうした社会的宗教的差別の問題は避けがたく生じてくる」
「一定の活動や行動に本質的な価値があるならば、その活動や行動に積極的にコミットしない者には本質的に価値がないということにならざるを得ないからである」
さらに、「熱心にコミットするあり方は「敬虔」と呼ばれるのが一般的である。宗教的な敬虔は、宗教的差別の原因となる」
仕事に熱心な人間が、そうでない者を非難や差別の対象にすることもまたお馴染みであろう。
「ファリサイ派的な律法主義において生じた敬虔な態度によって」引き起こされた宗教的な差別は、その差別の対象とされた者を一括して、一般的にはこう呼ぶのだそうだ。
「罪人」
そりゃ重いや。