聞かなければ良かった。
聞かなければこんなにあれこれと思いめぐらすことも妙な想像を膨らませることもなく、その日の通勤の電車の中でいつものように読書に集中できただろうに。
よく晴れたある日の午後3時。会社に行こうと家を出た矢先のことである。
近所の主婦が2人立ち話に興じていた。住宅街でよく見られる平和な風景であり、夏を思わせるような青空が一層のどかさを感じさせる。
主婦たちの横を通りしなその会話が耳に入った。
「……電磁波が出てくるから……」
聞き間違いか。いやそんなことはない。確かに聞いたぞ。
「電磁波が出てくるから……」
なんだそれは。何かすごい会話になっていないか。
なぜ主婦ののどかな立ち話にいかつい電磁波の話が出てくるんだ。エプロン姿の主婦2人という情景にそぐわない「電磁波」という単語の異質さ加減もさることながら、聞こえてしまったのがその一節であったのがいよいよ質が悪い。
しかもその発言の調子には「電磁波のせいでちょっと困っているのよね」というニュアンスがある。その主婦の最近の憂いは何より電磁波なのだ。
あるか、そんなことが一体。
もしかして前後の文脈を知り得れば何ということもない会話だったのかもしれないが、よもや歩を戻してその主婦に尋ねるわけにも行くまい。
「え?え?何から出てくるんですか?電磁波」
そんな唐突に割り込めば、それこそ私から電磁波が出ていると疑われかねない。近頃近所で我が家は「プレーリードッグの家」で通っているのに、翌日から言われかねないではないか。
「電磁波の出てくる家」
しかし何だ。一体何から電磁波が出てくるというのだ。
主婦の日常の中で電磁波が出るものといえばやはり電子レンジが代表か。電子レンジから実際に電磁波が外に放出されるかどうか私はよく知らないが、そんな危険性が取りざたされたという記憶はある。
電子レンジから電磁波が出ていることを話題にしていたのであろうか。しかし彼女の言い回しが気になる。
「出てくるから」
「電磁波が出ているから」ではないのだ。それなら私も前後関係を容易に類推できるし、頭を悩めることにもならなかったのだ。
「前に美容室の雑誌で読んだんだけど、電子レンジって使っている最中に電磁波が出ているから、意外と人体に影響があるんだって」
「怖いわねぇ」
「だから私買ったのよ、このエプロン。パソコン用の電磁波防止エプロン」
何でもない主婦の会話がすぐに想像できるではないか。何でもない、というにはやや問題があるが、エプロン姿の主婦の立ち話が許容できる範囲であろう。しかし繰り返すが発言は、
「出てくるから……」
なのである。伝聞の知識ではないのだ。確信に満ちているのだ。
目に見えない電磁波が出てくることは揺るぎのない事実として彼女の中にあり、それを前提にしての「(電磁波が出てくる)から、何々」という発言であろう。
どういうことであろうか。そのエプロン姿の主婦は電磁波の研究者なのか。一般家屋と見える彼女の家の中は実はハイテク機器が装備された研究所になっているのか。いやいやそんなことはあるまい。あるいは目に見えているのか。電磁波が出来る様子が彼女には手に取るように見えるのか。彼女言い回しにはそのくらいの確信が感じられる。
亭主が遅くに帰宅したときなど彼女はいうのだ。
「お腹空いてるの? じゃ、夕飯の残りだけどチンするね。悪いんだけど窓を少し開けてくれる。電磁波が出てくるから」
窓を開ければ電磁波が晴れるのかどうかはともかく、電磁波が部屋の中にいっぱいに広がる様子が彼女には見えてしまうのだ。作動中の電子レンジの扉から電磁波がふわぁりふわぁりと漏れ出て、部屋いっぱいに広がる様は想像するだに恐ろしい。窓を開けるくらいじゃダメだ。換気扇だって、空気清浄機だってフル稼働だ。
あるいは携帯電話のことだったのだろうか。
一時期言われたではないか。携帯電話の電磁波が脳に与える影響云々、と。それのことだったのだろうか。そうだ、そうかもしれない。
「私はダメよ、携帯持たない人なの。だってほら、あれって電磁波が出てくるから、ちっとも落ち着いて話していられないでしょ?」
やっぱり見えるんだ、電磁波。
携帯電話から頭部をくるみ込むようにふわぁりふわぁりと広がる電磁波も空恐ろしい。彼女の憂いを含んだ口調も頷けるというものだ。私は会社に向かう途中、携帯の留守番電話を確認するのが常なのだが彼女の発言のせいですっかり躊躇してしまった。
暑いほどの晴天の下、歩きながらしばし自分の携帯を眺める。
「……ここから出てくるのか?」
怖いし、電磁波。包まれちゃうんだし、電磁波に。
電磁波、電磁波。ああ気になる。
あまりに気になってこんな雑文まで書いてしまったではないか。これも電磁波のせいだ。もしかしてあの主婦が出していたのではないか、電磁波。
「つくづく思うけど女は損よねぇ、どうしたって月に一度電磁波が出てくるから……」
いかん。電磁波はダメだ。
エプロン姿の主婦の会話にあまりにそぐわない。
特に晴れた日はダメだ。