2008年5月5日(月曜日)

アイディアの体力



夕べはマイケル・ムーア監督の『シッコ』を見る。特典映像も含めてたいへん興味深く見た。興味深いという意味でも面白いし、単純におかしいという意味でもおもしろかった。
日本もよほど「金カネかね」の拝金主義が覆う世の中になっているようだが、いやいやまだまだ後進国である。さすがアメリカ。先進国はもっともっと先を行っている御様子。
見習いたい人はさぞや日本にも多かろう。

さて、前回のつづき。
「アイディアが浮かびやすくなる身体」にするという、誰もが知りたくなるようなことを偉そうに前振りしてしまったが、別に全然たいしたことではない。
話は簡単だ。自分がこれから作ろうとしているアイディアや話、それに類する映画や小説などの創作物をたくさん見る、というだけである。
何だ、と思われるだろう。私もそう思う。
つまりは「参考作品を見る(読む)」ということと思うだろうし、学術論文を書く際に多くの先行研究に当たるのが当然なことと同じと思われよう。
確かにそれと同じ面もあるのだが、参考や研究を目的として見るわけではないのである。
たくさんの参考例を見る、というより、自分がこれから作ろうとしている世界に慣れる、馴染むといった方が適切な在り方だ。

この方法(ともいえないようなものかもしれないが)も、私が20年前にある人から教わったものである。
「それに類する映画(その他の創作物)をたくさん見て、ムードに浸るんだよ」
「ムードに浸るんだよ」である。たいへん分かりやすい言葉だ。
たいへん理解しやすいご指導をいただいたものの、その「効用」を実感するにはずいぶん時間がかかった気もする。その後、漫画やアニメーション制作において自分なりに少しずつ実践してきて、いまならなるほどその通りだと思える。
良い参考例ではないが、『東京ゴッドファーザーズ』のプロットやシナリオ制作当時、気分に浸るための資料として読んだ本と見た映画を上げてみる。

書籍/『ダンボールハウスで見る夢』『“死んでもいいや”症候群』『東京遺跡』『霊園はワンダーランド〜ホームレスと過ごした一年間の記録』『新宿段ボールハウスの人々』『ホームレス日記“人生すっとんとん”』『スーツホームレス』『ホームレス自らを語る』『山谷崖っぷち日記』『友がみな我よりえらく見える日は』『ホームレスになった〜大都会を漂う』『東京ホームレス事情』『新約聖書を知っていますか』『僕らの広大なさびしさ』『ヤクザに死す』『“少年犯罪”の正体』『ヤクザという生き方』『新宿 歌舞伎町 マフィアの棲む街』『タクシードライバー日誌』『偶然の一致はなぜ起こるのか』『男でもなく女でもなく』『二丁目からウロコ』『タクシードライバー・一匹狼の歌』『こじき大百科』『ホームレス入門』『現代ヤクザ録』『21世紀のヤクザ基礎知識』『ホームレス作家』『新宿ホームレスの歌-“放浪歌人”の70余年』

映画/『真夜中のカーボーイ』『ザ・ストレイト・ストーリー』『ミッドナイト・ラン』『サイダーハウス ルール』『マイライフ アズ ア ドッグ』『ブラス!』『フルモンティ』『バグダッド・カフェ』『都会のアリス』『ジョンズ』『ガープの世界』『ホテルニューハンプシャー』『三人の名付け親』『スリーメンアンドベイビー』『サイモンバーチ』『オールアバウトマイマザー』『バードゲージ』『プリシラ』『永遠と一日』『フローレス』『トーチソングトリロジー』『3人のエンジェル』『GO』『赤ちゃん泥棒』『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』『スローターハウス5』『アタックナンバーハーフ』

この時期、他にも読んだ本や見た映画はあるし、それらからも多分に影響は受けているはずだが、上記の作品は直接的な狙いで消化してもの(と思われる)。また、作画作業に入ってから目を通したものやビジュアル参考としての資料はここには含まれない。
本の方が直接的資料の傾向が強く、映画の方がムードやキャラクターの気分といった傾向のようだ。
あまり関係がなさそうなものも混じっているが、おおむねタイトルを見ての通りキーワードは「ホームレス」「ゲイ」「ロードムービー」「皮肉な話」が主で、その他「貧乏」「赤ん坊」「ヤクザ」「タクシー運転手」などなどだろうか。
話をこしらえる段階では、直接的な資料や参考は別として、極端な話何を見れば適当なのかもよく分かっていない。
だからといって手当たり次第に目を通すわけにも行かないので、関係のありそうなものやたまたま目についたものをチョイスしている。「たまたま」という縁も大事である。

繰り返すが、参考になるアイディアや上手な参考例を手に入れるために見たり読んだりするわけではない。
むしろ、つまらない映画や出来の悪い映画を見ているとアイディアが浮かんでくることも多い(笑)
「こうすればいいのに」「私ならこうする」といったトレーニングはアイディアを出す訓練にとてもよい。これはこれでたいへんな効用であるが、そんなに理解しやすいことに一番の眼目があるわけではない。
自分がそれらに触れて、何を見ているのかは自分にも実はよく分からないことの方が大事である。
意識的に吸収する部分もたくさんあるが、どちらかというと自分の無意識に、これから自分の作りたいものにまつわりそうな種々雑多なものを「ロード」するといったようなことが主な狙いである。何せ無意識に見せているのだから、そこで何が発酵して何が出力されてくるのかは私には予測がつかないことになる。
そこが一番面白いところである。
自分がこの先何を考えるのか分かっていたら全然面白くない。

私が知りたい、得たいというアイディアを意識的に探すのではなく(そんな都合のいいものは滅多にない)、意識よりももっと広大かつ深淵な無意識に色々なものを投げ込んで「考えてもらう」のである。
そこからいつか到来する閃きやアイディアは私の意識が知らないものであり、まるでよそからやって来たように思えるものだ。
だから私は自分の無意識であっても、そこから受け取ったアイディアは「私が考えた」ではなく「出てきた」という言い方をする。「creation」(創造)というより「generation」(発生)である。実際、それが実感にもっとも近い。
最も近い他者、それが無意識。ホントに。
何やらもっともらしいことを書こうとしても、浅知恵と知識の無さが露呈するだけなので、平たく書くと要するに、ネタやアイディアを探すためではなく、それらによって触発され、自分が取り組んでいる問題に関して脳を活性化させたい。そういうことだ。
その「自分が取り組んでいる問題に関して脳を活性化」がつまりは「アイディアが浮かびやすくなる身体」ということである。
そういう状態を持続することが実りにつながる。

多くの創作物や先例に当たってアイディアやパターン、ノウハウをストックすることも勿論大事である。しかし、アイディアやノウハウをいくらストックしたところで、制作中にいつも逢着するのはストックでは解決できない問題なのである。
第一、それまでのストックで解決できるものなら問題とは言わないし、「答えが分かるくらいなら問いではない」とソクラテスだって言っている。
また、ある人はこんな名言を残している。
「100のノウハウを身につけたところで101番目の出来事には対処は出来ない」
言ったのは私だ(笑)
101番目の事態に直面したときに、「その場でアイディアを生み出す」ことが出来るかどうか。
アイディアが必要になったときや困った問題を前にしたときに、アイディアを生む体力を養うことがもっと大事なのである。
「いつでもオンデマンドにアイディアを」
下手なコピーみたいだが、そういう人になりたいものである。
若い方(に限らないが)には、「アイディアの体力」をこそ養って欲しいと思う。
身体のトレーニングと同じで、普段から身体を動かしていればそうでない場合に比べて身体は動きやすいものであろうし、体力も養われる。同様に普段から「アイディアが浮かびやすくなる身体」をこころがけていれば、自然と「アイディアの体力」も養われるのではないだろうか。

また話が長くなった。
ゼミではこの後、ストーリーの考え方などを紹介し、コンテの話に入る前に、残りはすでに15分くらいとなってしまった。中途半端になってしまうので、コンテ解説は次回とする。
気がつくと次回とその次の回もGWの休みで休講だ。それじゃ休みすぎだ。

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