2008年5月16日(金曜日)

選んでから考えればよいと思うのだが



昨日更新するはずが一日遅れてしまった。
以下、一昨日のこと。
町山智浩さんのポッドキャスト「アメリカ映画特電」の最新号を聞きながら会社へ。
『サイレント・ランニング』というタイトルや、ジョン・ミリアスやマイケル・チミノなどの名前が懐かしく思える。ミリアスといえば『デリンジャー』がとても面白かったが、“右翼GOGO映画”『若き勇者たち』なども見返したくなった。
『ロイ・ビーン』は未見なので是非見てみよう。

16時から、「アートスクールライフ」という本の取材。
美大や美術系専門学校を目指す人たちに向けた、学校と学校生活の案内を目的とした本だという。6月末には出版されるとのこと。
誌面サンプルとして見せてもらったプリントアウトには、グラビアで現役美大生のおしゃれな部屋や個性的な部屋などが紹介されている。こんなビジュアルを見せられたら、コロッとまいってしまう高校生はさぞや多かろう。「俺も!」「ボクも!」「私も!」
「気に入った部屋で気ままな一人暮らしをする私」
「アートを学ぶ私」
「クリエイティブな仕事をする私」
……きっと夢が広がるだろうよ。悪いことじゃない。
しかし、そこにかかる費用を概算してみると、自分のことも思い返してちょっと気分が重たくなる。
親はたいへんだ。

以前にも取材してもらったことのあるライターの方がインタビュアー。
質問は、今 敏が美大進学を決めたきっかけから、美大での生活について、そこでの学習がその後の仕事でどう役に立ったか、などなど。今週月曜日にあった取材と内容が似ているので、なるべく違う話を心がけようとするが、今 敏の過去にお話しするに足るほどのエピソードはごく少ない。
なぜ美大進学を決めたのか。
劇的なことなど何もない。素直に答えればこうだ。
「先輩たちが行こうとしてたから」
要するに「みんなが行くなら大丈夫なんだろう」というような。
別に私には夢も野望も信念もなかったし、いまもない。
漫画家になったのも、「どうしてもなりたい!」という思いなどには縁がなく、漫画を描いて応募したら賞の一つももらったので、「じゃあ漫画家になろう」と思ったくらいだ。その後「漫画家としてやっていこう」という気になったにもかかわらず、いつの間にか「アニメの美術設定・レイアウトマン」である。そして誘われるままにたまたま「アニメーション監督」である。
「漫画家になる」はずが「アニメーション監督」。漫画家としては挫折している。漫画家の看板を完全に下ろしたわけでもないので、挫折というより「骨折」。漫画家になる「夢」は骨折、アニメーション監督としても不甲斐ないので「捻挫」しているかもしれない。

先輩の他に、もう一つ大きな影響があったのはは、兄上、今 剛である。兄が当時すでにスタジオミュージシャンのギタリストとして華々しく活躍していた。
「好きなことをして食っていくのはカッコイイ」
うちの親も「好きなことを仕事にするのが何よりだべさ」という人だった。
そういうものか、と私は信じていたのだろう。信じるものは救われる。いや、私の場合「信じるものは掬われる」だったかもしれない。「イタイ」思いも随分した。

もう一つ大きな要因は、唯一私自身の感情によるものだ。
「集団は嫌い」
思春期によく見られる尖ったつもりになっちゃった過剰な自我に他ならない。
若いってのは嫌だね(笑)
集団(当時のことだから要するにクラスのことである)が嫌いだから、絵を描く仕事なら一人(に近い形で)でも出来るだろう、という考えであった。なぜ集団が嫌いかといえば、同調圧力みたいなものが何より嫌いだからである。

美大進学を決めるに至ったのは、「先輩」と「兄」の影響、そして「集団は嫌だから」一人でも出来るような仕事、という消極的な理由に他ならない。
しかし、その「集団が嫌だ」という思春期の尖った自我だってすっかり変形して、当時の面影は少ない。何せ現在では集団作業の最たるものであるアニメーション制作に従事し、その中でもとりわけ面倒な人間関係が発生しやすい監督という立場である。そんなことが楽しめるようになるとは夢にも思ってもみなかった。
そのくらい自分の気持ちなんて当てにならないものである。
スレッガーさんのいうとおりだ。
「いまの自分の気持ちをあんまり本気にしない方がいい」

大学で学んだことがどう役に立っているのかという話などをして、最後に読者へのメッセージ、あるいは座右の銘などを求められる。
「座右の銘」などという気の利いたものは持ち合わせていないので、先月アートカレッジ神戸アニメーション学科の新入生にも話した内容を繰り返す。
これまでにも何度か発言してきたことでもあるが、要するに何事につけ「選んでしまった方(あるいは選ばざるを得なかった方)を正解にすればよいのである」ということをお話しする。
生きていれば無数の選択を必要とされる。その判断に悩むということは、選択肢がどれも同じように重要だからであろう。あからさまに有利と思える選択肢が混じっていれば、どれかで悩むことはあるまい。

たとえば学校を選ぶ。
新入生は学校を選択するに当たって、他の学校とも比較をするだろう。そして一つを選択する。どの学校が最も自分に適しているのか、それを少しは予測することが出来たとしても、事前に知ることは出来ない。選んで入ってみないことには分からないことである。
「学校に入ったら自分はどう思うのか」は入らないことには分からないのだから当然である。
分からないことをあれこれ悩んでみても仕方がない。乱暴な言い方だが、選択においてそれほど悩むということは、詰まるところ「どっちでもいい」とも言える。
「選んでみたら失敗だった」ということもあるだろう。
「あっちにしておけば良かった」と後悔するかもしれない。
経済的時間的な余裕が許され、やり直しが利く人はそうすればいいだろうが、そうでない人は、それを選択した「過去」の時点に自分の一部が囚われ続ける。
結果、常に「あったかもしれない自分への憧憬」を抱えて過ごすことになる。
当然、毎日が楽しくなくなるだろう。だって「最善の選択をした場合のあったかもしれない自分」に比べて現在の自分は「常に上手く行ってない」ことになるのだから。
あったかもしれない「最善の状況」に現状が勝てるはずもない(笑) 何しろ最善の想像なんだから。
不健康だ。
まるで赤提灯でくだを巻くオッサンだ。
「俺だってあの時、○○してれば……」
すれば良かっただろうに。

そういう不毛な発言をしないためには、常に現状を「正解」だと思う他はなかろう。
だから、選択した「後」の自分の在り方が重要なのである。
選んだ後に、その選択が正解になるように、常にそこで対処して行けばよいだけではないか。
詭弁に聞こえる向きもあろうが、現に私はそのようにして毎日楽しく暮らしている。
悪くないね。

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