2010年1月31日(日曜日)

即座描く?



去年、読んだ本の中でもとりわけ面白かった一冊が、『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二(朝日出版社)。
二匹目のドジョウを探したら、ちゃんといた。
『海馬 脳は疲れない』池谷裕二・糸井重里(新潮文庫)
単行本は2002年に出ていたようだし、文庫も5年前に出ているので読まれた人も多いことだろうから、今更の話と思われても仕方ない。
こんな面白い本を読まずにいたとは勿体ない。
三匹目、四匹目も楽しみだ。

面倒なのでアマゾンから内容を引用すると、
「脳と記憶に関する、目からウロコの集中対談。いわく、「『もの忘れは老化のせい』は間違い」「30歳を過ぎてから頭は爆発的によくなる」―。記憶を司る部位である「海馬」をめぐる脳科学者・池谷裕二のユニークな発想と実証を、縦横無尽に広げていく糸井重里の見事なアプローチ。脳に対する知的好奇心を満たしつつ、むしろオトナの読者に生きる力を与えてくれる、人間賛歌に満ちた科学書。」
確かに、その通りだった。

「30歳を過ぎてから頭は爆発的によくなる」なんてお手軽な話を文字通りに受け取るかどうかはともかく、これはつまりこういうことらしい。
「つながりを発見する能力は30歳を過ぎてから伸びる」
これだけではよく分からないだろうが、20代までの経験や知識の蓄積から、一見関係のないものの間につながりを発見する能力は30歳を過ぎてから活発になる、というようなこと。
それまでに知っていたことの中に、知らなかった「関係」を発見する能力。
何だよ、まるで演出の話みたいじゃないか。
「シナリオから、シナリオライターさえ知らなかった関係を発見する」
同じだ。
自分によく当てはまると言ってはいささか図々しいとは思うが、しかし30を過ぎたくらいで演出や監督というポジションに付いて、一番感じたのはそういうことだった。
アニメーションの監督という初めての仕事なのに、度々感じたのは「あ、それって何だか「知ってる」」という既視感みたいなものである。もちろん予め経験があったわけでもなく、知っていたわけでもないのだが、初めての局面なのに「どうすればいいのか」アイディアが湧いてくる感じがした。
もっとも、「どうすればいいのか分からない」もそれ以上に多かったし、いまもそれは変わらないが。

ただ、やはりその既視感というか発見みたいなものは、20代までの経験と蓄積から生まれたもので、個々の情報は知っていたのに、しかしそれまではその中に見つけられなかった「つながりを発見」が出来たということなのだろう。
「研究の中で脳を直接見ていると、「二十代が終わるところまでの状態で、脳の編成はだいぶ落ち着いてくる」ということがほんとうによくわかります」「三〇歳を超えるとワインが醸成していくような落ち着きが出てくる。……すでに構築したネットワークをどんどん密にしていく時期に入る」と。
そんなことまで研究としてわかっていることも素直に驚きだったのだが、自分の20代、方向が定まらないような努力もそれほど無駄ではなかったことの方を素直に喜んでおきたい。

後から思えば色々な偶然も必然に見えてくる。
なるほど「つながりの発見」とは上手い言い方だ。
「年齢が上の人のほうが比喩をたくさん思いつくのも「つながりの発見」かもしれないですね」という糸井氏の発言に大きく頷かされる。
話していて面白い人はたとえ話がうまいものだ。
「それって、あれと同じだよね」
「それ」から「あれ」への飛躍。そういう発見に満ちていたいものだ。
地べたを這うような会話はやる気さえ損なうものだ。

その「やる気」がまた興味深いのである。
私が何より面白かったのは「即座描く」……さすがにパソコンで一発変換はしてくれないうえに、仕事を督促されているみたいだな。
「側坐核(そくざかく)」という脳の部位についての話が大変印象的だった。
これは「脳のほぼ真ん中に左右ひとつずつある」そうで「脳をリンゴだとすると、ちょうどリンゴの種みたいにちっちゃな脳部位です。ここの神経細胞が活動すればやる気が出る」ということらしい。
そこを刺激すればやる気が湧いてくるというのだから朗報じゃないか。
ではどうすれば刺激されるかというと。
「やるしかない」
身も蓋もない、というかなんというか、その構図が実に歯がゆくも皮肉で面白い。
「やる気が出ないならまずやれ」
心底誰かに言ってやりたいセリフだ。

実に経験則として、実感としてよくわかる話だ。
「側坐核の神経細胞はやっかいなことに、なかなか活動してくれないのです。どうすれば活動をはじめるかというと、ある程度の刺激が来た時だけです。つまり、「刺激が与えられるとさらに活動してくれる」ということでして……やる気がない場合でもやりはじめるしかない、ということなんですね。そのかわり、一度はじめると、やっているうちに側坐核が自己興奮してきて、集中力が高まって気分が乗ってくる。だから「やる気がないなぁと思っても、実際にやりはじめてみるしかない」のです」
ああ、はいはい!と思われる方も多いのではないか。
去年後半停止していた当ブログなどはまさにこの構図に近い。再開したらやる気が湧いて来るのだから。
「やってみるとやる気になる」というこの現象は、クレペリンが「作業興奮」と名付けているのだそうで、「作業しているうちに脳が興奮してきて、作業に見合ったモードに変わっていく」ということ。
はいはいはいはい、あるあるある。

ふと思い返すと、インタビューなどでこれまで数十回は聞かれたのが次の質問。
「なぜアニメーション監督になられたのですか?」
劇的な答えなど見当たらないので、私はなるべく正直にこう答えるようにしていた。
「やったら面白かったので」
無論「ではなぜ最初にやってみようと思ったのか」を聞きたいのかもしれないとは思うのだが、「やったら面白かった」が本当のところで、その質問と答の齟齬は、「やってみるとやる気になる」「やらないとやる気もしない」の内蔵する歯がゆさにも通じる気もする。
この構図について、この本でたとえとして挙げられているのが、掃除。
「掃除をやりはじめるまでは面倒くさいのに、一度掃除に取りかかればハマってしまって、気づいたら部屋がすっかりきれいになっていた、などという経験は誰にでもあると思います」
はいはいはいはい、あるあるあるある!
なるほどなぁ。実際そうだ。
「なぜそんなに片づけようと思われたんですか?」
「片付けたら面白かったから」
たいていのことは、最初からそうしようと思っていたわけじゃない。

最近、仕事場の引っ越しに伴って私はまさにそういう経験をしていた。
私は毎日の掃除や片付けは苦手だが、大掃除は大好きな方だ。
掃除とか片付けとか、モードがそちらにシフトすると、ずーーーっとそれに集中するし、だからアイディアも湧いてきて止まらなくなるのである。
「やったら面白い」
これが分からない人とは一緒に仕事をしても面白くないに違いない。そう思いません?
「やってることを面白がる」
才能とはそういうことなんじゃないかとすら思う。
もちろん私の場合、片付けに傾倒してその分、本業が疎遠になるのはいけない。それは分かっている。ただ、本業に戻るのが億劫というわけではないが、片づけを続けたいという、それこそ作業興奮が持続してしまう。
「まだやりたい」
ゲームに溺れる子供と変わりないような気もするが、凝り性の人とはその極端なことを言うのだろう。
凝り性の人を知っているので、自分が凝り性などとは決して思わない。私の芸風は所詮「若旦那の芸事」みたいなもんである。粋だという意味ではなくて、真似事程度の趣味から脱せないといったような。
しかし、凝り性の気もない人が、世の中にあってもなくてもいいようなアニメーションなんかに一所懸命になるわけはない……とまでいうと強弁だろうか。多分強弁だろう、社会的には。

いつまでも本業周辺(それも大事なことだが)にばかり傾注しているのはいけないのだが、なかなか本業が手がつかないのは結局、その興奮が快感だからなのだろう。快感には弱い。快感を楽しめないのは才能がない証しだとも強弁したくなる。いや、これは強弁ではない。
というのも本業だって結局同じだからである。
これが一旦、本業に手をつけるとみるみるモードが変わっていくのが自分でもよく分かるのである。
「ええと……消失点はここが無難か……あ、ダメだ、これじゃカット後半の都合と合わないや……まぁ、このあたりにしておくか。あ、違う違う、ここにすればいいんだ。ってことは、ここがこうなるから……あ!じゃあこういう絵に出来るじゃないか!……ってことは、待てよ、前のカットでこういう仕込みをしておけば、もっとこういうイメージを強調できるよな。ってことは……」
そうやって止まらなくなると、こういうことになる。
「片づけなんかもうどうでもいいや」
現金というか極端というか……多分両方だ。
普段、私の仕事場や部屋が片付かないのはこの「作業興奮」という現象のせいに違いない。
だって何しろ何を置いても「即座描く」だもんな。
……いや、そんなつまらないオチで終わりたかったわけじゃないんだけど。

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