年の瀬が近づいてきてせいなのか。また今日も中央線で2件の人身事故があったようだ。
オレンジ色も眩しい中央線は、東京の大動脈であると同時に飛び込みのメッカとしても知られておる路線で、これを日々利用している沿線住民の私としては、ダイヤが乱れてばかりで甚だ迷惑である。
飛び込むなとは言わん。せめて他の路線にも少しは飛び込め。あ、不謹慎な発言であったな。もとい。
死にたければ首でも括れ。自殺するときくらいは他人に迷惑をかけるでない。
ちなみに私は自殺に反対する方ではない。自由に死ぬ権利くらいはあってもよいのではないかと思っている。死にたいやつは勝手に死ね死ね。地球にも優しかろう。
何故に中央線において人身事故の確率が高いのか、車両の輝くオレンジ色が誘蛾灯のように人生に行き詰まった人々を招くのか、はたまた単に高架になっていないために飛び込みやすいポイントが多いのか、その原因究明は特命リサーチ200Xの菅野美穂あたりにでも譲るとしても、だ。この平成大不況が影響してないわけもなかろう。
先日イベントに行った多摩美大の学生などもまだ就職が決まらない人も多いと言っておったし、アニメの制作費も減る一方だろうし、倒産は相次ぎ、リストラの嵐は吹きまくり、終電近い電車の酔っぱらいの背広のおじさんの独り言は増大し、ホームにはお好み焼きの花が咲き乱れるわけだ。不況とは関係はないのだろうが、今日乗った電車の乗客は、三鷹の駅で停車中にホームから線路に向かって立ち小便をしていたが、それはさすがに行き過ぎではないかと思うのだがな。
風が吹けば桶屋が儲かる、とよく言うが、リストラの風はどこに利益を運ぶのであろうか。
近頃のアンケート調査で「夫婦間で不況のことが話題に上がるか?」という問いに、「よくある」「たまにある」を合わせて4組中3組の夫婦が不況を話題にするのだそうだ。不況という単語だけは大忙しだな。
更に「不況が夫婦間に影響を与えるか?」という問いに対しては20パーセントだかの夫婦が「夫婦の絆を強める」などとぬかしているそうだ。ケ。シアワセなもんだよ、まったく。ま、不況にも功罪があるということか。
ガキや年寄りに商品券を配ったところで何の足しにもならないような不景気だ。どのような対策やあがきも全ては、「ボッシュートに」されてしまうのだ、草野仁に。呉々も今はスーパーひとしクンで挑戦する時期ではない。
幸か不幸か私はそれほど不景気を実感した覚えはない。あえて言うなら仕事に就いたときから今までずっと不景気の状態なのだ。バブルは私になんの挨拶もなく迂回して過ぎていき、この平成大不況にも取りたてて痛い思いをしたこともない。
季節と景気の波は窓の外を通り過ぎていく仕事なのだろうか。私だけかな。
景気の好し悪しを最初に感じる職業はタクシーの運転手さんだそうな。さもありなん。好景気なら社用でタクシーで遠くまで行っても経費としてすぐに認められるであろうし、不景気ならタクシー券も出し渋るであろう。一般的に考えても、タクシーを利用するというのは贅沢な部類に入るかと思われる。
そういえば最近はタクシー待ちの人の列も少なくなってきたような気がする。アルコールも電車があるうちに切り上げるわけだな。これが私においては終電が近い時間になってから飲み始めることも少なくない。朝まで飲めば電車は走り出すのだ。せいぜい困ると言えば開いてる店が限られるというくらいだろうか。
店が限られるということは同じ業界に身を置く私と似たような人種の人間と遭遇するケースが多いが、それを良しとするか悪しとするかは遭遇した相手やこちらの状況にもよるところだ。仕事上不義理をしている相手と遭遇するのは折角飲んだ酒を醒ますことにもなりかねない。まぁ酔いが醒めたなら頼めばよいだけなのだが。
「すいません!同じのもう一つ」
「もう一つ」も5回いえば随分と酔うし、売り上げにも貢献できるわけで、結果景気回復にも一役買っているわけだ。エライぞ、俺。ゴメン、肝臓。
かくしていい気分になってしまうと、更に調子に乗って電車が動いているにもかかわらず店を出て右手を挙げてしまうことになる。
「ヘイ!タクシー」
いや、まさか本当に声に出すわけではないがな。
先日タクシーに乗ったときのことだ。さほど酔っていたわけではなく、この時は単に終電を逃してしまっただけだったのだが。
近頃はイレギュラーの仕事で臨時収入があったせいか、私の財布の紐は甘くなっておるようだ。福沢諭吉の尻も軽いこと軽いこと。2本続いた喋りの仕事のお陰か。悪銭身に付かず。悪銭じゃないって。それはともかく。
「武蔵境って分かりますかね?」と私。
阿佐ヶ谷でタクシーを拾ったのだが、「練馬」や「多摩」ナンバーならこのあたりの道も良く知っていようが、そのタクシーは「足立」ナンバーだったからちょっと聞いてみたのだ。
「はい、武蔵境ね、五日市街道で行きます?それとも井の頭通りで?」
取り越し苦労であったか。
「お客さん、飲まないんですか、お酒」
「いやぁ今日はたまたま。普段はしこたま飲む方ですけどね」
「ああ、そうなんですか」
まぁタクシーに乗ったときにはありがちな会話である。当然話は作法に則り、タクシー内における正しい話題に転じていく。
「運転手さんはこの辺もよく走ってるんですか?足立ナンバーでしたよね」
「いやぁ、最近はそんなことも言ってられないから。不景気ですからねぇ」
なんだかマンガやドラマに出てきそうな運転手の決まり文句であった。「不景気ですからねぇ」
しかし一度言ってみたいものだな「いいっすよねぇ、景気。もう、ウハウハッすよ」ウハウハとはさすがに言わないか。
その運ちゃんは初老のおじさんで、どうにも話好きのようであった。
現在の中規模なタクシー会社において抱えているドライバーの数や、一人頭が月に稼ぐ金額を具体的な数字をあげて話してくれ、しかも会社の取り分まで心配して、経営が成り立つのかどうかの心配までしだすのだ。詳しくは覚えていないが、車一台あたりに対するドライバーの数の平均は2.6人なんだそうだ。一日2〜3交代なのだろうか。
しかし月間の売り上げの多いドライバーは特別に専用の車を一台割り当ててもらえるのだそうな。つまりその気になれば一日中仕事も出来るわけだ。これは確かに頑張った分の報酬がもらえるわけで、働きたくても車のないドライバーよりも有利であろう。このような実力社会は正しいあり方かと思われる。朝会社に行って、日がな一日机に向かっているだけで報酬がもらえる時代は終焉を迎えた方がよい。ざまぁみやがれ。ヒャッホー。
その運ちゃんのタクシー会社にもやはりそういうモーレツドライバーがいるそうで、月に稼ぐ金額もなかなかのものとか。
「いやぁ、見てるとね、帰らないんですよ、家に。会社で寝泊まりして働いてるんだからねぇ」
何を言いやがる、私も忙しいときは…などと切り返す程私も子供ではない。
「そうやって稼ぎ口があるんだから、まだいいですよね」
「いやぁ、何か本人は相当な借金抱えちゃってて、いつも金がないみたいでね」
「ああ、そりゃ闇雲にでも働かざるを得ないってことですか」
「気の毒だねぇ」
「借金作った本人の自業自得でしょうけどね」
私も別に乗り気で話を聞いているわけではないのだが、タクシーの運ちゃんの機嫌を損ねては、遠回りとか急ブレーキとかどんな意地悪をされるか不安で、いつも愛想をよくしてしまう。客なのにな。昔入院していたときに同じ病室にいたタクシーの運ちゃんから、いやな客を乗せたときに色々意地悪をしたことを聞いたせいもあるかもしれない。話好きな運ちゃんの相手もせねばなるまいよ。
「でも、運転手さん、そういう人たちって、借金があるってのは多分景気のいいときにはそれなりにいい思いをしたんでしょ?きっと」
「まぁそうなんでしょうねぇ、バブルの時にはいい思いをした口なんでしょうけど」
車は環状八号から井の頭通りに入ったあたりに来ていたろうか。道は意外と混んでいる。自宅まではまだ15分やそこらはかかろうか。話を熱心に聞いている風を装いつつ適当に話題を合わせてみる。
「私はバブルの良さも知らないですよ」
「それなりの地位の人間が一転して馬車馬みたいに働かなきゃならなくなるっていうのは、やっぱりしんどいですわねぇ…」
「ですねぇ、でもそうやって結局は帳尻がどこかで合っちゃう、というか自業自得というか、いい思いをした時期があっただけいいんじゃないんすか?」
「そうかもしれませんけどねぇ」
宇宙の収支は常に保たれる、というのが私の考えだ。
「どっかでツケは回って来るんですよ、きっと。因果ってのは見逃してくれませんよね、ホント、ハハハ」
「まったくねぇ…私も会社が倒産するまではねぇ…」
……え?
「私も、これでもね、多い時期には下請けの人間合わせて400人くらいの会社をやってましてね…まぁ中小企業ですよ…」
……しまった。
「ステレオやなんかの部品作ったりとかしてたんですが、不景気で結局倒産…」
…ツケが回ってきたのは運転手さん、あんたもかい!?
「大きな会社の下請けやってたんですけどね、不景気になってあっさり切り捨てられるんですよ、中小なんて……私ね言ってやりましたよ、そこの社長に…」
ああ…因果の網にからめ取られてもがく一人だったのか、運ちゃん。
「私らはダンパーか!!ってね。今までの貢献度なんて一切省みられもしない…借金だけ残っちゃって…」
借金を抱えて馬車馬のように働く同僚の話は他人事ではなかったのか。
しかし道理で一ドライバーが会社の経営状態の心配まで細かにするわけだ。長年染みついた経営者の感覚は消えない物なのだろう。
「お客さん、フィリピンは行ったことありますか?」
「あ、いえいえ、無いですけど…」
せいぜいがフィリピンパブだ。
「いいところなんですよぉ、昔よく行ってた場所があってね、景色もいいところで、そこに行くと街のお偉いさんが歓迎してくれるんですよぉ…色々接待してくれて、軍のヘリコプターにも何度か乗せてもらったりして…」
「へぇ、そりゃあ凄いですネェ…」
あんたこそバブルでいい思いをした口じゃないか。
「みんな私が持っていく日本酒目当てに集まって来るんですよ…酒は一人2本しか持っていけないでしょう?」
「そうですよね、制限があるんですよね」
「だから我先に来るんですよ、酒は菊正宗ね…」
昔を思い返して夢を見るのは構わないが、前だけはしっかり見てくれよ運ちゃん。
「私のパスポートなんてね、フィリピンの入管のスタンプで埋まってたものですよ」
車が吉祥寺に入る。客待ちのタクシーの列。確かに不景気だ。
「随分行ったけど、現地の言葉はちっとも覚えませんでしたけどねぇ」
「タガログ語ですか、あ、その交差点を左にお願いします」
運ちゃんの話の腰を折らないように道を指示するのも一苦労だ。
武蔵境に着くまで、かつて社長と呼ばれた運ちゃんはありし日の思い出に浸り、私は運ちゃんのご機嫌を損ねまいと熱心に、時には身を乗り出して聞き入ってみたりしたのであった。
喋り続ける運ちゃんはまるで付けっぱなしのラジオのようであったが、さすがに一方的に喋り続けては気まずいと思ったのか、話題を急に客の私に転じた。
「で、お客さんは芸術家?」
長髪イコール芸術家…住んでる時代が違うわな。
「いや、それほどのもんじゃないですけど、まぁ絵を描いたり何かして…」
「絵っていうのは…」
「あ、そこ右に曲がって、アンダーパスに入らない方の道へお願いします」
「どういう絵を描いてらっしゃるんですか?」
「ええ、アニメーションなんかを作ったりしてまして…あ、そこで左に」
「ああ、今は日本のアニメってのは国際的にも評価されて、いいんじゃないですか?景気の方も」
仕事中に聞いているラジオが情報源であろう。
「いやいや、評価はともかく儲からない仕事ですよ、少なくとも私なんかは、あ、その信号右で、まぁ言ってみれば仕事に就いたときからずっと不景気みたいなもので…あ、このまま真っ直ぐで…」
やっと家の近所だ。
「外から見ると良さげに見えま…」
「あ、ここでいいです」
料金メーターは¥5,140。金額ちょうどをトレイに置くと、
「あ、これはいいですよ」
と、小銭分¥140円をオマケしてくれた。
「あ、すいませんね」
「いや、もう、こんなに乗ってもらったんですから」
こんなに話を聞いてもらって、も含まれているのかもしれない、と思いながら有り難く小銭を戻す。私は別に借金があるわけじゃないのだがな。ともかくありがとう、運ちゃん。運ちゃんのこれからの人生に幸多いからんことを。因果の巡りは悪いことばかりを運ぶはずではないのだから。さらばだ、運ちゃん、縁があったらまた会おう!
「あ、領収書貰えます?」