2008年6月1日(日曜日)

誰が伝説だって?



昨日買った『アイ・アム・レジェンド』を早速見てみる。通常のエンディングがあまりよろしくないという評判は聞いていたので、まずは「アナザーエンディング版」を見る。
……ふーん、なるほど。これなら悪くないじゃないか。
続けて通常エンディングも見てみる。異なるのは本当にラストの数分くらい。
……ああ、そりゃそうだ。こりゃいかん。
「通常エンディング」の方が撮り直しさせられたバージョンと聞いていたし、どう考えてもこれはアナザーエンディングが元々の脚本に沿ったものであろう。「通常エンディング」は正に「取って付けた」という感でいっぱいである。
「通常」「アナザー」いずれにしても、何が伝説なんだかさっぱり分からないし、全体にまとまりに欠ける気がしてしまったが、「アナザー」の方なら、少なくとも見て損した気にはならない映画ではないかと思われる。いくら何でも「通常」のエンディングは人をバカにしているし、どこかからの「圧力」による「骨折」にしか思えない。うん、通常版は「骨折した映画」と呼んでもいいのではないか。
しかし「圧力」は仕方ないにしても、せめて何故シナリオ段階で判断されなかったのだろう。撮影してから撮り直しでは、制作者のフラストレーションもさぞや大きかったことだろう。気の毒だ。
だって、「通常」と「アナザー」は別の映画である。まったく逆の内容の映画とさえ言える。
ハリウッド映画では、試写の反応次第でラストを変更する、編集を変えるなどはよくあるとも聞くが、この映画の変更はそのレベルのものではないだろう。
個人的には映画そのものより、「通常」と「アナザー」の違いを知りたくて買って見たのだが、内容もそれなりに楽しく見られた。もちろん「アナザー」の方に限るが。
「アナザー」もエンディングだけが別に収録されているわけではなく、冒頭から最後まで「アナザーエンディング版」として収録されている。制作者の意地だろうか。単に両方収録した方がより商売になる、という判断であろう。

店頭でDVDを手にとってパッケージを裏返し、本編尺を見て嫌な予感はした。100分。なにがしか「上手く行かなかった」ことを暗示する尺に思える。
最近の話題作や大作は、総じて尺が長い。以前より映画の尺が伸びる傾向にあるように思える。同じ内容が言えるのなら尺は短いに越したことはないが、最近の映像文体の傾向だと尺は長くなりがちになる。観客へのサービス過剰が当たり前になれば伸びるのは当然だろう。
だから『アイ・アム・レジェンド』のような話題の大作で100分というと、嫌な予感がするのである。一日あたりの上映回数を増すために尺を短くしているのではないか、とか。それだけ内容に自信がないのか、とか。
案の定、エンディングだけでなくあちらこちらにバランスの悪さが感じられる。明らかに尺が足りない。この映画のテンポからすると、せめてもう10分、出来れば20分くらいは必要だったのではないかと思われた。
尺が妙に短い点に関しても、制作者の判断というよりも「圧力」の臭いがする。
おそらくは撮影まではしていて削除されたシーンがかなり多いのではないか。特に後半登場してくる人物に関する描写が相当落とされているのではないかという気がする。化け物に関してももうちょっとエピソードがあったようにも思える。
人の消えた街にいながら普通に電気が来ている点についても、ちょっとした描写くらいあったのではなかろうか。せめて自家用発電機に燃料を補給する、というカットの一つもあれば違和感は緩和されるだろうに。

元々のシナリオがどうだったのかは想像するしかないが、後半の動きの無さは元来の問題なのだろう。どうせリメイクするなら、後半に動きを持たせても良かったように思えるし、その方がハリウッドスタイルに則しているような気がする。
たとえば血清を作るためにはどうしても実験体を運び出す必要があって、街の外への脱出を図り、化け物の中を突破、さらに化け物が追ってきて……といったような。その脱出が主人公の精神的な解放にもつながる、とかなんとか。そういう方がハリウッド好みだと思うのだが。
もっとも、当初の予定であったと思われる「アナザー」を見る限り、制作者の狙いはそういう点にはなかったのかもしれない。
主人公は「アメリカ人」だし。だから「アメリカ人」はそこから「出て行くことは出来ない=行き場がない」という前提で作られていたのかもしれない。
いやぁ、本当に国際社会におけるアメリカそのものが主人公といったイメージの映画である。病原体の発生源を「グラウンド・ゼロ」とか言っちゃってるし(笑)
主人公のアメリカ人が、昼間ライフルを構えてビルの暗闇に入り込んで行くくだりなんか、ほとんどイラクにおけるゲリラ掃討戦そのままのイメージである。
あまりに露骨にイメージを重ねすぎたから「圧力」がかかったのであろうか。
「圧力」をかける側の言い分としては、「主人公のアメリカ人が命がけで開発した血清で人類を救わねばならない」ということだろう。すなわち「民主化」という血清をばらまく布教活動と同じである。これが「通常エンディング」。
「アナザーエンディング」とはいうと、「化け物にも知性や社会があり、主人公のアメリカ人と同様に愛だって持っている」というオチであり、それが制作者の当初の意図だったのであろう。
内容をねじ曲げるにも程がある。

さて、主人公が「アメリカ人」だとしたら、彼に付き従ってる従順な「犬」は何に当たるのだろう。ウィルスに感染して化け物側になってしまい、泣く泣く「アメリカ人」に絞め殺されるあの気の毒な「犬」。
「気の毒な犬」といえば、某国では「父親を犬扱いせよ」というたいへん遂行的なメッセージを含んだ「携帯電話のコマーシャル」がたいへん人気だそうだ。やれやれ。「そういうコマーシャル」を作る無節操な人たちはともかく、それを見て喜んでいる人たちがそんなに多いとは某国も悲しい国である。
だから「犬」というと某国が連想されるが、某国はアメリカ人にとって「犬」ほど大事なポジションにはないので、きっと仲良く侵略に当たったあの国あたりのイメージなのかもしれない。特定するよりも漠然と「アメリカ人」にとっての「犬」にあたる国を想像すればよい。そういう「犬」たちに対して、「もし協力しなくなったら(あっちに感染したら)絞め殺すぞ」というメッセージなのだろうか。
もちろん、これはこじつけであり、しかしあながち冗談とも言い切れないが、そんなことも連想すると興味深く笑えるというものだ。

連想ついでにこんなことも考えた。
「日本を舞台にしたらどうなんだろう?」

近い未来。ある治療薬が原因となって発生したGSウィルス。感染すると、皮膚が白くなり体毛は脱色され、目の色も変わり、怖ろしいほどに欲が深く好戦的なミュータントに変異する。全世界に蔓延するGSウィルスを止める手だてはなかった……。
そんな中、なぜかウィルスへの免疫があった「坊さん」が東京でたった一人、生き残っている。
坊さんは世界に一人という孤独感をも受け入れて質素な生活を送り、夜な夜な襲い来るミュータントたちを大音量のお経を流しては遠ざけ、昼間はミュータントたちを見つけ出しては成仏させながら、苦海からミュータント衆生を済度する方法を研究していた。
欲のない坊さんは、自生する野草などを食し、粗食によって健康を維持するが、大好きなタバコだけは止められなかった。周りに気兼ねなく据える一服は格別だった。一方、欲深いミュータントたちは共食いまで始め、勝ち残ったミュータントは過剰な肉食で日に日に肥満し巨大化して行った。

ある夜、新手のミュータント集団が現れ、坊さんを拉致する。
彼らはミュータントながらも組織化、社会化された新世代であった。ダイエットもしていた。タバコも酒も飲まなかった。勝手な法律を作るのは大の得意だった。

新世代たちは捕まえた坊さんに対し、異様に細かい法律を次々と適用し、様々は罪状を押しつけていく。弁護士はいたが言葉は通じなかった。そして、ついに坊さんに死刑の判決が下される。
「デス!バイ・ハンギング!」
だが、まさに処刑されるようとする坊さんを見る新世代たちの目は恐怖していた。そして坊さんは知るのだ。
自分が彼らにとって「新世代人類が寝静まる頃にお経を唱えて徘徊し、人類をあの世へと成仏させまくるという欲に駆られた存在」、すなわち自分こそが「伝説の怪物」であったことを!

こんなアホなこと考えてないで風呂でも入ろう。

トラックバック・ピンバックはありません

トラックバック / ピンバックは現在受け付けていません。

現在コメントは受け付けていません。