2008年6月13日(金曜日)

「役柄」



秋葉原の惨劇でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
残された家族や友人の方々は、悔やもうにも悔やみきれないお心持ちと思われます。
深く哀悼の意を表したいと思います。

火曜日のゼミでも通り魔事件が話題になる。
ゼミ生の一人は当日秋葉原に行ったそうで、犯行に使われたトラックも目にしたのだとか。上野に用があってその後秋葉原に行ったという。行く先の順番が異なっていれば被害者の一人に名前があったかもしれないと思うとゾッとする。
彼は上野で通り魔事件の情報に接したらしいが、その時には「犯人は二人で一人は逮捕。もう一人は逃亡中」という情報だったとか。そんな誤報が流れるところに妙なリアリティを感じてしまう。

私は秋葉原を利用することはほとんどないので、報道の映像を見ても強い実感は覚えないが、それでも日本の「どこかの街」よりは映し出される「背景」に感じるリアリティは大きいし、その分事件の実在感にも重みを感じる。増して、担当する学生の一人が、時間は異なっても当日現地にいたという事実を通じて、事件は不意にその距離を縮めて来たように感じる。
ゼミ生の中には事件後、実家から安否を確かめる電話があったという人も何人かいる。恥ずかしい話かもしれないが、そうした自分の身の回りへの影響を通してしか、事件のリアリティを感じられない。

何より、犯人や犯行の在り方に全然リアリティを感じられない。自分がいつ被害者になっても不思議ではないとは思うが、同じような加害者になることはまったく想像がつかないし、同じ地平にある気がしない。
しかし、犯人と年の近い男子ゼミ生の中には、もし犯人のように社会から落ちこぼれ、精神的に追い詰められたような気になれば「自分もそうなるかもしれない」という想像は自分と同じ地平にはあるように思える、という。そうした想像に恐れを感じられるのは健全なことなのかもしれない。

ゼミ生の一人は、事件についてこう語った。
「今回の犯行は掲示板のアラシに似ている」
この見方には納得させられる。もちろん事件や犯人のことが納得できたという話ではなく、そういう見方をすることで事件全体のイメージをいくらかでも把握しやすくなったというようなことだ。
私はネットの掲示板を利用することはほとんどないので(自分のところの掲示板ですら積極的に書き込んでいないくらいだし(笑))、掲示板でのやりとりやアラシといったものに実感は持てないが、「掲示板とアラシ」という構図は理解できるような気がした。
7人が死亡、10人が重軽傷を負った通り魔事件と掲示板のアラシ行為を一緒にするわけにも行かないかもしれないが、「秋葉原」という「お祭り」へのアラシ行為と考えると、犯行の動機(そんなものがあるとして)の低劣さもアラシと同じ程度なのかもしれないと思えてくる。何より、世代が下るに従ってそれだけサイバースペースでの日常といわゆる現実と呼ばれる日常との垣根が溶解してきているのであろう。

今年になって、通り魔事件はいくつかあった。
記憶に残っているだけでも、似た印象のする事件は「品川、戸越銀座の通り魔事件(16歳の高校生による犯行)」「土浦の通り魔事件(24歳のゲームオタクの男)」、「岡山の突き落とし事件(18歳少年)」などがある。
岡山の事件の犯人はこう供述していた。
「人を殺せば刑務所に行ける。誰でもよかった」
土浦の通り魔も「誰でもいいから殺したかった」、品川の通りも「誰でもいいから、皆殺しにしたかった」。
迷惑千万な「ブーム」である。ブームといって悪ければ「連鎖反応」だろうか。
今年になって硫化水素による自殺が連続したように、これら過去の通り魔事件が「秋葉原の通り魔」を召還する一因になったことは間違いないと思われる。だから今回の事件も「実績」の一つとして堆積し、さらに強力に次の通り魔を召還する可能性が高くなったであろう。
私は年内にもう一、二件、同様の犯行が起こるのではないか、と多少控えめに危惧していたのだが、ゼミ生の一人はこう予言した。
「一週間以内に起こると思う」
私などよりはるかに犯人たちと年齢も近くネットへの親和性も高い学生の言うことなので、妙な説得力を覚える。予言が的中しないことを祈るしかない。
秋葉原通り魔事件に関するゼミ生たちの反応を興味深く聞かせてもらったが、しかしなんと言っても一番の驚きは、この事件を知らなかった人がいるということだったりする。
知らずにいる方が難しいように思えるのだが。

私はというと、正直なところ当日速報に接し、「TVの前の一観客」として思った感想は「またか」だった。ショックはエコーのように遅れて到来したように思う。
先にも記したように今年に入ってから起きた通り魔事件がまだ記憶に新しい。特に犯人の供述が似通っていることが印象的だ。
「誰でもよかった」
これがたいへん象徴的なセリフに感じられる。犯人が言うとおり、被害者は「誰でもよかった」という意味の他にこうも思えてくる。
「犯人もまた誰でもよかった」
犯人の個性とか人格というものが見えない気がする。とりわけ秋葉原通り魔の犯人には、「個」としての特徴というか偏りが感じられず、むしろ「通り魔犯人」として必要な、いや典型的とも言うべき特徴や要件が事後的に貼り付けられた人物像という感じさえする。
語弊はあるかもしれないが、そのくらい「意外性」がない。
安手の漫画や映画に登場する、ありきたりな設定のような感触だ。もっとひどい言い方かもしれないが、現在「通り魔になってしまうような人」のイメージとして、過不足がない。なさすぎる。これは私一人の感触ではないように思う。
「格差社会にあえぐ低所得の契約労働者」「バーチャルなネット世界への過度な傾斜」「ゲームやアニメとの親和性」「過度な自己否定と裏腹に持ち合わせる顕示欲」「親しい者の不在」「社会との断絶」「普段はおとなしい人物であり、かつてのいい子」「秋葉原を選ぶ劇場性」などなど……世間が理解しやすい「通り魔犯人のイメージ」。これはメディアがその本能によって「誰にでも分かりやすい」イメージに仕立てるために取捨選択した、という側面もあるだろうが、そうではなく「元々本当にそういう記号的な人物だった」という面が強く感じられる。
世間に認識されたそれらのイメージに合致する人間だからこそ、通り魔として召還されたのではないか。そのイメージに当てはまるものなら、それこそ「誰でもよかった」という怖さを感じるのである。
益々奇妙で語弊のある言い方だとは思うが、「通り魔犯人とはこのような人である」という認識が世間に行き渡ったことで、それに近いイメージや境遇にある人間のうち、自分の責任すらも世間や社会の責任に転嫁して恨みを抱くような人物に「通り魔をして良いのだな」という選択肢を与えてしまっているのではないか。
それはたとえば「自殺をするときは硫化水素を使えば良いのだな」という認識と同じである。自殺したいから硫化水素という手段を選ぶのではなく、共有された「手段」が「実行者」を召還しているように思えてくる。
だからといって別に私は、競って事件を報道するメディアが悪いなどといいたいのではない。ただそういう倒錯した理路を感じるというだけのことである。

「手段」が「実行者」を召還するという構図が、「犯人もまた誰でもよかった」である。
以前は、既存の事件と類似した事件が起こるたびに「模倣事件」と思っていたが、今回の通り魔事件に接して、そうではないのではないかと強く感じた。
報道やワイドショーから垂れ流される外形的な「情報」が増えるにしたがって、むしろ「無記名性=犯人は誰でもよかった」と思えてくる。
この「無記名性=犯人は誰でもよかった」というイメージに、奇しくも今回の犯人と同年齢だという「酒鬼薔薇」の犯行声明に記されたフレーズが思い出される。
「透明な存在」
たまたま読んでいた『生きる意味』(上田紀行・著/岩波新書)という本に、酒鬼薔薇事件に関する記述があり、その「透明」に対する解釈が、「無記名性=犯人は誰でもよかった」と通底しているように思えた。
この本によると「透明な存在」とは、「自分を出したら必ず嫌われる、いじめられる。だから、何とか自分自身を出さないで生きていかなければならないと考えている若者」が「他者から受け入れられるために「自己透明化」していった人間の「透明」さなのである」という。そうして意識的に自分を脱色、脱臭していった「透明人間たちは交換可能だ」ということになる。
この交換可能な透明性がつまりは「犯人は誰でもよかった」と同じに思える。

そうした透明さだからこそ、通り魔という「役柄」を演じられるのではないか。そう、「役柄」。「通り魔という役柄」であり「硫化水素による自殺者という役柄」である。
先に記した「世間に共有された認識」とは、「役柄」といってもいいようなものだ。
だから、ある状況に追い詰められた(と思いこんだ)者は、それらの「「役柄」を演じるものだ」といった認識が広がり、世間に共有された結果、こうした事件が後を絶たなくなってくるのではないかという気がしてくる。
「手段」が「実行者」を召還すると書いたが、こう換言した方がイメージに近い。
「役柄」がその「演じ手」を配役する。
「劇場型」の犯罪にあまりに妥当してしまう比喩かもしれないが、今回の事件に痛ましさと同時に感じる違和感と恐れはここにあるように思える。
「通り魔」という「役柄」が認知されればされるほど、次の配役を求めるだろう。それが怖い。
自殺においては一時期花形だった「練炭自殺者」という「役柄」は、「硫化水素自殺者」に取って代わられた。
「通り魔」が、いつ「銃乱射魔」や「爆弾魔」に取って代わられるかもしれない。
犯人となる「演じ手」がどうなろうが知ったことではないが、命を奪われる「相手役」にさせられてはたまらない。
ゼミ生の一人がこんなことを言っていた。
「(通り魔犯人となるような境遇でもなく)学校でこうやって勉強していられるだけで運がいいと思う」
確かにその通り。通り魔などといった「役柄」に召還されることもなく、何より不幸な「相手役」に配役されることもなく、自分の「役柄」を続けていられるだけで幸運な気がしてくる。

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