1999年7月12日(月曜日)

第六回「飛べ!オオキド」



-日記-

 『さあ自己紹介のページは出来た、っと。他にどんなページを作ろうか。他にはどんなページを作ろうか。他にはどんなページを作ろうか。自己紹介の次はどんなページを…他の人はどんなものを作っていたっけ?
 そうだ“What’s New”だ!……いや、それはまだ早いか。何が新しいかの前に、その“何”を決めなくちゃ……そうだ!
 “日記”だ。世間ではあまり理解されにくいオオキドの繊細な感受性を分かってもらうには絶好のコーナー!!
 日々感じた出来事を徒然なるままに書き連ねていこう。ああ、みんなオオキドの価値観に共感してくれるに違いない』

 三国一の幸せ者、オオキド。やんややんや。
 いや、「日記」が悪いというわけではないし、自分のためのメモとしての存在価値もあるだろうし、それに長い期間続けていれば、これもまた立派な記録にもなりうる筈。「日々感じたこと」を日々更新していく根気が続けばの話だが。
 それにこれもまた、自己紹介同様特殊な立場にでもない限り、キミの行動や価値観にすぐに興味を持つようなお人好しはいるわけもないし、キミ自身他人の興味を引きそうなことにそうそう出会う筈もないかと思うので、「面白いこと」ばかりに注目するのではなくて、少しは「面白く伝える」ことにも目を向ければよいのではないだろうか。

 例えばそれが会社の同僚とのやりとりの中の些細な冗談でも、事象の順番や話の落としどころを工夫したりという演出一つでお客を「クスリ(笑)」とさせるくらいは出来るのではなかろうか。そういう積み重ねの中にHP制作への態度や節度が見え隠れすることで、他のHPとの差別化にも繋がり、お客を再び立ち寄る気にさせるのである。
 闇雲に書き散らすよりは、感じたことをお客に伝えようとする意志が大事。

 ただし自分の感受性にウソをついて何者かに成りすまし、自分に泥酔したような日記は面白すぎるので垂れ流さないように注意されたい。笑い物になりたい人にしかお勧めしないぞ。笑わせるならともかく、笑われるのはあまり楽しいことでもないだろうし。
 発信する情報は常識と倫理のフィルターを通すのが望ましかろう。
 「ネット上での別人格の是非」について論じてもしょうがないだろうが、「個人の頭の中」と「ネット上」に多くの類似点があったとしても、それは別物であることを明確に意識していないと、頭がメルトダウンしかねないので気持ちをしっかりと持ってもらいたい。妄想の彼岸はすぐそばにある。うっかり渡っちゃあなんねぇべ。戻ってくるのは至難の業だぞ、きっと。

-お気に入り-
 『“PROFILE”“DIARY”は決まったぞ。他にどんなページを作ろうか。他にはどんなページを作ろうか。他にはどんなページを作ろうか。他にはどんなページを作ろうか。日記の次はどんなページを…他の人はどんなものを作っていたっけ?
 “好きなもの”そうだ、この感受性の鋭いオオキドのお気に入りや見たモノ読んだモノ聞いたモノを紹介してみよう。オオキドのHPを訪れた人を刺激するに違いない。
 それで同じものを好きな人とメールで語り合えるかもしれない。超凄いアイディア!(みんなやってるけど。でもみんなやってるから大丈夫、きっと)
 “MYFAVORITE”は、訪れた人が読みやすいように“BOOKS”“COMICS”“MOVIES”“MUSIC”“ETC”というコーナーに分けてみよう。う〜ん、ばっちり。見たり読んだりしたものを紹介しながら、鋭い批評眼でコメントを付け、分かりやすいように10段階評価で採点もしてみよう。まるでプロみたいじゃない!?』

 かくして世間の評論なんかメじゃない、と本人だけが思いこんでいる客観性のない批評とやらがが電子の海に広がっていく。さながらタンカーの事故だ。海を覆う重油のような節操のない独り言。ま、それも一つの利用法なんだろうけど。少しは世間と自分の心に深く耳をかたむけ、「恥」という言葉の意味を知るのも良いのではないだろうか。
 一億総評論家、と言われたことがあったと思うが、電子の海はその格好の舞台を提供したのであろう。かつてのような活字や写植の手間もお金もかからず、モニターに映し出されたそれはまるで「プロみたい」だし、格好の自己満足を付加してくれるはずだ。
 それは勿論批判されることではなかろう。むしろ正しい態度のようにも思われる。なぜなら「本人だけが楽しければそれでよい」と言うのが基本的な態度であろうし。ただ発信者としての自覚と責任という名の下で、なおかつネチケット(笑)とやらを守っている範囲での話だが。
 ちなみにネチケットだのネチズンだのといった言葉は「E電」と同じ末路をたどるような気がしてならないのだが、如何思われます?

 かようなネーミングのセンスはともかく、インターネットと言っても一つの社会である以上、遵守するべきルールは存在するであろうし、本人が楽しいからといって何を書いてもいいわけでもあるまい。今更そんなことはわざわざ言うまでも無かろうが。
 とは言え「誰でも情報発信者になれる」という甘言の裏に押し込まれた、「情報発信への責任」が軽んじられているのもまた事実。
 不特定多数の人間に何かを伝える、という経験をくぐってきていない素人がいきなりメディアの一端に参加するとなると、それはもう子供に銃を持たせるのと同じで、危険な絶体絶命のピンチが危ないに決まっている。
 さらに先に「プロみたい」と記したが、娑婆で文章書きやら絵描きやらのプロ意識や倫理観が低下の一歩をたどっている中で、そこにすらすくい取られなかった物がろくなものであることは極端に少なく、勢い感想と評論の区別も付かない自己顕示欲丸出しで一方的に自由な主張が繰り広げられることになる。勿論独自の視点で社会や事件、創作物へのコメントを書いている素人の方もおられる。しかしオオキドにそんな真似の出来るわけもない。

 インターネット社会は現実社会のいびつさを映す鏡でもある。ルールはおろか恥や節操という単語は存在しない暗黒側面も有している。忌まわしき精神の権化、ヒルコたちの狂宴の夜の世界。
 概ね額面通りの「お気に入り」についてはさほど問題はないかと思われる。多少いびつな愛の形があったとしても好きで書いている分には。ただしこれが対象への好意ではなく自身に対する肥大した愛の形となると、にわかに鬱陶しい匂いを放ち始める。近寄っちゃあなんねぇ。
 往々にして世に溢れるオオキドとその同類は、現実の社会に本人が思ったほどに認められていない。充足した現実の生活を送る人間はオオキドではないのだ。
 「自分は本当はもっと能力があるのに、世間は分かってくれない」式な、羨ましいほどノーテンキな思考法の持ち主、これがオオキドの正体だ。ヒューヒュー!朋ちゃんも応援してくれるはずだ。

 自分の能力を省みることもなく闇雲にオオキドはインターネットの大空に飛翔する。イカロスの思い上がりは、天照大神ver.ギリシャが粉砕したが、オオキドの翼を溶かす太陽は存在しない。なぜならそれはインターネットの暗黒側面。オオキドに関わってくれるほどの暇な太陽も、いや端から太陽など有りはしない。
 あるのはオオキド対オオキドの救いようのない戦いのどす黒い修羅場だ。オオキドは他のオオキドが大嫌い、というのも特徴の一つだ。同族嫌悪の証はBBSなどでよく見られたりするので、オオキドを調査したい学究の徒は、異様で不毛な盛り上がりを見せるBBSなどでフィールドワークされたい。きっと難しい言葉を無理して使いたがるのもオオキドの特徴の一つだぞ。しかも受け売りなんざ十八番も十八番。
 オオキドは、その根拠のない恨みの矛先たる、現実社会に座を占めた他人やその功績、作品を偉そうに語ることで、それらよりも自分が「ホントは」優位に立っていることを示さんとして、尚更気の毒なループに陥っていく。解脱の単語も存在しない猿の自慰。
 自分はこの社会では認められにくい、などと自嘲を気取りながらも社会の価値観を批判する一方で、その社会の価値観の最たる基準とも言うべき「10段階評価」で他者の価値を計る。矛と楯の故事を知るがいい。

 大体が他者を批評するに当たっての基準が、まったく見えてないものが多すぎる。みんなが大好きなテストであればそこには明確な正解と満点が存在し、そのルールの中で競い合い優劣を付けることは可能だ。
 これが批評となってくるとややこしいところはあるのだが、少なくとも論じ手の価値観や意識が示された上で語られるか、対象に対する独自な視点や切り口、あるいはまた対象を素材とした新しい主張などがなければ意味がない。感想とは違うのだ。
 例えばどこかの小学三年生が小津安次郎の「東京物語」を見て「長くて寝ちゃった。見ている人のことを考えてないよ。エーガなんだから楽しませて欲しいな」と言ったところで誰も相手にはするまい。
 同じことがネット上を埋め尽くしているわけだ。本人が退屈したことは感想に過ぎず、だから良くないと言うのは履き違いも甚だしい。書き手の価値観が脆弱、と言うより恐ろしく未分化なままで評論めいたことをするのは如何なものかと思う。ネットでの主張が飲み屋のバカ話よりは影響力があることを考えれば、その対象となる創作物などを送り出している側としては「営業妨害」に他ならない。もっとも同じことが娑婆のメディアにも言えるのだが。言論の自由という便利な言葉を覚える前に、節操という人の道を知るのが先だろうに。
 念のため断っておくが、感想は自由であると思う。「私はこう思う」という態度であれば、良いのではなかろうか。好きにせよ嫌いにせよ、そう思ったのならそれは率直でかまわないことかと思われる。問題なのはそれが高じて変化し「好きだから良いもの」「嫌いだから良くないもの」といういたって乱暴かつ単純な論理の根拠とすることであろう。指摘されれば誰もが「そんなことは知っている」と言うのだろうが、身に付いている人はそう多くはないであろう。かく言う私も身に付いているとは言い難い。これを機会に改めていきたいなぁ。

 ともかく物差しの単位がなんの権威すら持ち合わせていない個人の尺度では、まるで意味不明になるのは当然で、そこに娑婆の仇をインターネットで、というさらにいびつな問題が混じってくるとこれはもう近づいちゃあなんねぇべぇ。
 かくしてインターネットは社会で成就されなかった怨念の吹き溜まりとなっていくわけだ(笑)
 まがい物たちの楽天地、インターネット。良かったな、オオキド。
 かねてより「自分の居場所」を渇望していたオオキドは正にそれを見つけたわけである。
 全くどうにかならんのか、あの「自分の居場所が無い」という念仏を繰り返し唱えている信者たちは。耕しもしないものが実りを手に入れられるわけもないのだ。居場所がないならとっとといなくなれ。その方が人にも地球にも優しい。
 生きとし生けるものが無意味な存在ではないと思う身としては、全ての死も無駄では無いとも考える。無駄な生の有意義な死ももちろんあり得るのだ。ただし中央線には飛び込むなよ。迷惑だ。
 こういうことを言うと、反論されるのだろうな。「弱い者の立場に立ったことがないからだ」「弱い者の気持ちが分からない」だとか。断っておくが、見方によっては誰だって弱い立場や部分を持っていようし、私なんかひ弱なもんだ。だから弱い者や真性の病気の人を非難する気はない。強くなろうともしない者が他人をやっかむのが不愉快極まりないだけだ。

 これからこの世界に自分の島を確保しようとするキミは、オオキドのように節操や恥を忘れてはなら…いや、忘れないのが望ましい。誰の中にもオオキドはひっそりと巣くっているぞ。

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