2008年7月31日(木曜日)

課外ゼミ



先日の金曜日、武蔵野美大映像学科のゼミ生たちがマッドハウス見学に来社。
アニメーション業界に就職を希望する子たちを中心に5人ばかり。中にはすでに業界での仕事経験もあるセミプロもいる。
現在マッドハウスの動画部には映像学科卒業生がいるので、「先輩」から経験談やら苦労談などをあれこれ伺う。彼女は業界に入って3年目、じき動画から原画になる。
業界人、特に新人に近い子たちの切実な苦労といえば、やはり経済面である。
「食えるかどうか」
いくら好きな仕事だからって、霞を食って生きられるわけではないし、日本の一社会人として求められる生活の経費は決して少なくない。
就職に伴う不安は色々あるだろうし、環境や待遇を見比べることは大事なことだが、「食えるかどうか」をまず心配しなければならない職業というのはなかなか切ないものがある。
優良制作会社の一部を除いて、動画職はほぼ単価仕事の歩合制。
「一枚描いてなんぼ」である。
テレビシリーズの動画単価もピンキリだが、概ね現在の平均は¥220〜250くらいと聞く。¥270なんて単価も耳にするが、シリーズとしては高い方だろう。
動画職と違って「会社員」となる制作職の初任給が16〜17万、もし同じ(程度に使えない)「新人」である動画が同程度の収入を得るには、700枚ほど動画を描かないといけないことになる。
おいおい。
今時ベテランだって700枚は遠い数字であろう。よほど簡単な絵柄ならともかく、今時の絵柄でコンスタントに続けられる枚数ではない。
少し慣れてきたくらいの新人でせいぜい300〜400枚くらいが関の山だろうか。
マッドハウスの場合は、今年から交通費が支給されるようになったそうで、動画を支援するための補助金もあるとのこと。
心ある制作職によるそうした待遇改善もあってか、この2〜3年は脱落して行く動画職がほとんどいなくなったようだ。良い傾向だと思う。一月に上がる動画枚数も以前よりは伸びている傾向にあると聞く。
動画職への支援は是非とも必要だと思うが、しかし業界で生き延びるための基本は自助努力以外にあるまい。
それでも実際のところ、実家通いや親元からの期限付きの支援をもらっているといった条件でもないと、生活はギリギリのラインだろう。
無論「好きで選んだ仕事」なのだし、仕事に対する意志や意欲、向上心があれば過酷な期間も乗り越えられるはずだ、という考え方にも道理はあると思うが、とはいえ、精神力だって経済力の側面支援がなければ痩せ衰えるのが当たり前である。
希望が見えなければ目の前の些細な問題にすら大きなダメージを受けることは多々ある。

いかん。
最初から夢のない話ばかりで夢見るジャパニメーションには似つかわしくないことこの上ない。
多少フォローしてみるか。
精神的・経済的に低調を強いられる谷間において同僚・友人など「横の繋がり」が励ましにはなるし、「みんなも同じようなもの」という状況は確かに救いになるだろうが、どうやったってアニメーターの場合は自分の机以外に本質的な救いはない。
「上手くなる」
それだけのことであるし、それ以外にない。
それが有効なのだからこの業界はまだ健全であるともいえる。
ものすごく有能なのに芽が出なかった、ということはまずない。
主観的には別だろうけど。
「認められないオレ様」を抱えている人たちは掃いて捨てるほどいるかもしれないが、それは業界という世間の方に問題があるのではなくて、主観の方に問題があるだけのことだろう。
だいたい、アニメーションの仕事は、ごく一部の役職を別にすれば「他人の絵を描く」仕事である。主観が肥大したオレ様にはたいへん不向きに決まっている。
というより、相手の要請に応えることから「しか」始まらない仕事である。
これは絵描きでもそれ以外の職種でも同様である。
相手の都合を考慮できない「オレ様」は、不向きというより失格なのである。失格の人間が、ご希望に添った世間からの評価を得られる道理はないのである。
そういう意味で正しくアニメーションの仕事を身体化しつつ、技術やセンスを養えば、それだけのリアクションは得られる業界だと私には思える。
「正しくアニメーションの仕事を身体化しつつ」という点がミソだ。
最初から職人的仕事を希望する人には大きな障害にはならないかもしれないが、「アーチスト」指向の人にはここが我慢できないところかもしれない。
だったら最初からアニメーション業界に来なければいいのに、と思うのだが(笑)、教育機関の惹句には「個性」の二文字が垂れ流しになっているし、その奔流の中を流されてきた若者に、「騙されたキミが悪い」というのは酷ではある。
しかし、動画にしろ背景にしろ、その仕事における新人教育の要諦とはつまりこういうことなのである。
「まず個性を捨てなさい」
ひどいことを書いている気もするが、私がそう思っているということではなくて、「そういうもの」なのである。
何か、また夢がなくなってきたな。
しかしこれは、アニメーション業界の「通過儀礼」みたいなものであり、それを受け入れて身体化しない限り、どれほど才能や技術や能力があったとしても、それはアニメーションの仕事として馴致されない種類のものと見なされる。
それはいわば「規格外の才能」であり、それはスタッフワークに向かない。だって規格品を作っているんだから。
はみ出したい人は一人でアーチストにでもなった方がお互いのためである。まぁ、はみ出すための元の枠組みがもっともっと広い分野で芽が出るほどの才能なら幸いなのだが。
とはいえ。業界にとって新しい、これまでにないといった新規なイメージを得るには、そうしたこれまでの規格の外にあるセンスや才能も必要なのである。
安い言葉で申し訳ないが、そのためには「個性を捨てるな」ということになる。
矛盾したことを書いているわけではない。どっちも本当である。
どうすればいいのか?
私が知るわけがない。
私なんて何度も発言しているように「やりたいことなんて特にない」し、個性なんてものにも無縁だと知っている。売り物になるくらいの技術は多少あるだろうけど。
ま、年寄り風にいえば、一度捨てたくらいで失われるような個性とやらなら別にたいしたものじゃないわい、わっはっは。
あるいはこういう言い方も出来る。
出来るだけ相手の要請に応えるという仕事の仕方をしていながら、それでも現れてくるものが個性というものじゃ、わっはっは。
本当の話。

トラックバック・ピンバックはありません

トラックバック / ピンバックは現在受け付けていません。

現在コメントは受け付けていません。