2009年2月28日(土曜日)

早起きの仕事



まったく。朝の7時起きなんて私にとっては非常識極まりないのである。
普段はせいぜいが朝の10時起きという生活。3時間早く起きるまではまだしも、一時間後には家を出なければならないというのがさらにしんどい。
早起きには無論事情がある。日本工学院という専門学校の声優学科、その1、2年生相手に特別講義をするという仕事である。去年の9月にも同学院でアニメ・マンガ学科の学生向けに特別講義をしており、早起きの仕事には懲りていたはずなのだが。
だいたい、遠いんだよ、蒲田って。
午前中の仕事は断るようにしよう。

8時過ぎの電車に乗る。
寝ぼけた頭でいつものつもりで電車に乗ろうとしたら駅員に止められた。
「お客さん、ここ女性専用車両なので」
あ、そうか。
一般的サラリーマンの出勤時間帯に電車に乗ることなど無いので、すっかり忘れていた。
うちから遠い蒲田までは乗車時間が1時間。
電車に長いこと乗るのは楽しくないが、今月はあまり本を読んでいないので、まとまった読書時間が取れるのはありがたい。
『黒澤明 封印された十年』(西村雄一郎/新潮社)を読み進める。
映画制作中に黒澤監督の関連本に目を通すことが多い。西村雄一郎さんの本はとりわけ興味深く拝読している。
先日、たまたま近所の本屋で見つけた塩澤幸登・著『黒澤明大好き!』(やのまん)を読み、映画を作る上でたいへん刺激になった。そのせいもあって、去年買っておいてまだ目を通していなかった『黒澤明 封印された十年』を思い出して読み始めた次第。
これがめっぽう面白い。
帯にはこうある。

“世界のクロサワ”に何があったのか?
なぜ、このあと作風が変わったのか?
あの頃のニッポンは何だったのか?
気鋭の映画研究家が“狂った時代“と自らの青春を交錯させつつ、全身全霊で描いた異色評伝ノンフィクション。

「1966-1975 巨匠が苦悩し闘った十年間の日々」を著者自身の受験、大学時代の体験を織り交ぜつつ描いている。黒澤明に興味のない人、興味があっても基礎的な知識がないと楽しめない部分もあるかもしれないが、映画をこよなく愛する一大学生の物語として読んでもたいへん面白いのではなかろうか。特に、当時の世相がうまく織り込まれていて、私にとって近くて遠い時代の雰囲気を知ることが出来る。当時の映画界、日本映画が衰退してゆく動向も俯瞰できる。
66から75というと、私が3歳から12歳の間。
「月着陸」や「学生運動」「浅間山荘」「ベトナム戦争」「万博」などもテレビ画面で見ていた覚えがある。覚えがあるだけでそれがどういう時代だったのか、北海道のイナカモンのボウズにはちっとも分かるわけがなかった。いまもよく分からないし、多分どこかで知りたくないという無意識の規制がかかっていたようにも思われる。
60年代後半の世相、特にヘルメットをかぶって争乱を起こしているオニーサンオネーサンたちの様を始めとして、時代まるごと「いやなもの」という印象でしかない。
近年になって、そういう時代の事への興味も湧いてきていたので、当時の世相などもたいへん興味深く読み進める。
西村雄一郎さんの著書では『巨匠のメチエ』(フィルムアート社)、『黒澤明を求めて』(キネマ旬報社)『黒澤明 音と映像』(立風書房)など、黒澤監督関連の本はインタビューが的確で広範な知識に裏打ちされた論考がたいへん面白かった。
また『巨匠たちの映画術』(キネマ旬報社)、『一人でもできる映画の撮り方』(洋泉社)など、映画技術を分かりやすく解説した本は、広く映像を学ぶ上でとても参考になるので、映像を志す若い人も若くない人にもお薦めしたい。

早起きは困るが、行き帰りの電車で本を半分以上読むことができた。が、早起きして内臓がまだ起動しないうちに朝食を取ったせいか、車内でお腹の調子に異変の予兆。すかさず薬に頼ることにした。その名も「ストッパ」。

さて、仕事。
9時半に蒲田の駅で担当者と待ち合わせて日本工学院へ。
特別講義は10時から。最初が1年生、13時から2年生相手の計2回。
てっきり「90分を2回」だと思って話す内容を準備していたのだが、正しくは「120分を2回」であった。
ネタには余裕があるので、伸ばす分にはさして問題はない。というか、ちゃんと確認しとけよな。
会場は大ホール。随分いるもんだねまた、声優志望の学生って。
「このうちの何人が実際に声優になるのだろう?」
などと思いつつ会場を見渡してみる。
聴講態度はたいへん真面目に見受けられる。
この特別講義に当たって、学生たちには事前に『パプリカ』を見せてあるということだったので、『パプリカ』中心に話をしようと思っていたのだが、『パプリカ』のメインとなる声優さんたちはたいへん上手な方ばかりで、これといってエピソードも多くはないので、これまでに関わりのあった声優さんや音響スタッフとの会話の中で、声優の在り方や芝居に関係する印象的な言葉をピックアップして話題にさせてもらった。
どんなことを話したのかを一々記すのも面倒なので、学生たちに配布した講義の概略を以下に紹介する。今時は「三行もあると長文」だと思う人が多いようなので、講義のダイジェストをさらにダイジェストにしたものを配布したが、以下はその全長版である。

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2009年2月27日日本工学院・声優学科特別講義
「キャラクターの背後〜非主流アニメーション監督による「声優芝居」遠望」

●講師略歴

1963年生まれ。武蔵野美術大学・視覚伝達デザイン学科卒業。漫画家を経てアニメーション業界に入り、98年『パーフェクトブルー』で監督デビュー。以後、オリジナル原作による映画『千年女優』『東京ゴッドファーザーズ』、TVシリーズ『妄想代理人』。最新作は06年公開、筒井康隆原作『パプリカ』。現在、新作オリジナルによる『夢みる機械』制作中。「アートカレッジ神戸」アニメーション学科、武蔵野美術大学映像学科講師。

●本講義「服用上の注意」

講師はアニメ・外画を問わず、顕著な特徴を得意げに振り回す「記号的な声優芝居」をひどく嫌悪する者です。また、副題にあるとおり現在の業界において「非主流」(「反主流」ではありません)のアニメーションを監督している者なので、現在主流にあるようなアニメでの活躍を希望している学生は、本講義を「話半分」に聞いてください。

●一言の背後

わずか一言の裏側にもたいへん多くの「もの」が仕舞われています。「もの」というのは、時間や空間や感情など様々なものを指します。その言葉を発する人物が生きてきた履歴、形成されてきた人格、置かれた状況やそれに対する感情など多くの複雑な「もの」たち。それらが一言の背後に見えなければ、本来の意味での「芝居」ではありません。
多くのアニメで聞かれるような、いわゆる「声優芝居」はすでに「記号化」されています。記号は複雑なものを手軽にパッケージにしているという意味でたいへん使い勝手がいいものではありますが、先に挙げた複雑で個別的な「もの」たちから切り離されている。つまり記号は「分かるもの」しか伝えません。
しかし「芝居」は分かるものだけではなく、「よく分からないもの」をも伝えるものなのです。

●画面の背後〜言葉を発する主体はどこにいるのか

声優は「キャラクターに生命を吹き込む仕事」といった言い方をされますが、これほど許し難い傲慢な物言いはありません。音の入っていない映像はすでに生命が宿っています。敢えて言うなら声優はそれを育てる仕事であり、同時に共に育つものです。
当たり前の話ですが、声優の前に「登場人物」がいる。
その声は常に登場人物の口から発せられるものです。言葉を発するのは声優ではなくそのキャラクターでなければなりません。
つまり言葉を発する主体は、声優にとって「自分であって自分でない」。より正確に言えば「自分でない自分」です。
さながら禅問答のようですが、芝居というのはキャラクターの映像と声優の身体、その両者の間(あわい)に生まれるものです。

●アフレコという「場」〜発することよりも聴くこと

声優といえばもちろん、言葉を発することがその主な仕事と考えられますが、しかし現在むしろ重要に思われるのは「聴く能力」です。
多くの芝居は「映像+声優」というキャラクター単体で成り立つものではなく、同じ成り立ちを持つ別なキャラクターたちとの関係の中で成立しなければなりません。
これは、日常経験する対人関係とまったく同じです。
年若い世代になるほど、日常的な対人関係において自分の「言いたいこと」だけが拡大され、相手の言葉を「聴くこと」がひどく縮小しているようです。アフレコ現場においてもこの傾向は同様です。
しかし、コミュニケーション(芝居もアニメーションもコミュニケーションです)というのは「発信」するだけでなく、それ以上に「受信」することが重要です。
応答というのは、受信があって初めて成り立つものなのです。
キャラクター相互による発信と受信が繰り返されることによって、アフレコ収録現場では独特の「場」が醸成されます。
この「場」に参加できない人から「芝居」が生まれることはありません。いわば「まるで空気を読めない」ような人なのですから。

●芝居のデッサン力〜「気持ち」と「外見」

芝居に「気持ちを込める」という言い方がありますが、私はあまり信用していません。気持ちが込められていても全然通じないことはある。
伝わらなければ「無い」のと同じです。
また、役になりきれば自然とその人物の言葉が出てくる、気持ちも伝わるという考え方も信用していません。
気持ちという実体が存在するわけではありません。
ある人物の気持ちというのは、相手に伝わったものを言うのです。納得がいかないという学生も多いと思いますが、君が誰かのことを100%理解することが出来ないように、誰かもまた君の言葉や気持ちを完全に理解することはあり得ません。
誰かの気持ちを分かった、というのは受け取る側の解釈によって「分かったような気がする」ということでしかありません。言葉を発する側がいかに言葉を尽くしても、結果的に伝わったものがすべてなのです。
まして不特定多数を相手にする声優という仕事において、どれほどの技術を磨いても、思い通りに気持ちが伝わるなんてことは絶対にありません。だって、受け取る側の解釈によるのですから。
つまり、そのキャラクターの内面というのは受け取る側の想像のうちにしかないのです。ということは、考えるべきは受け取る側に「どう見えるのか」ということ。
どう見えるのか、という「外見」を徹底して作ることによって、受け取る側がその内面を想像するようになる。
自分の「つもり」以上の芝居というのは、そういうことです。
そのための土台になるのが「芝居のデッサン力」です。
人物をデッサンする力は絵の話だけでなく、声の芝居でも同じ事です。日常的に他人や自分を観察すること、それを再現することで芝居の力を身につける訓練などについても触れたいと思います。
この点について、一冊の本がたいへん有意義な示唆を与えてくれます。
『イッセー尾形の人生コーチング』森田雄三・監修、朝山 実・文
日系BP社 ¥1300+税
声優や役者、アニメーターや漫画家なども含めて芝居を志す日本人には必読の本です。

●キャスティングという芝居

今 敏が監督するアニメーションは、そのタイトルごとに異なる世界観を有しています。当然、声優のキャスティングもその世界観に応じて異なった考え方をする。
たとえば『東京ゴッドファーザーズ』に『パプリカ』のようなキャスティングは出来ませんし、その逆もあり得ません。
敢えてまとめた言い方をすれば、そのタイトルが持つ世界観がどの程度「記号化」されているのか、というレベルで声の芝居への要求も異なってきます。ここでいう記号化のレベルというのは、記号化されて漫画的であれば芝居が簡単だとか、より現実的であれば難しいということではありません。それぞれに難しい問題を抱えていますし、それぞれに相性が重要です。
『パプリカ』や過去のタイトルにおいて、どのような観点でキャスティングを考えてきたのかを紹介したいと思います。

●質疑応答

質問を受け付けます。
もし挙手が少ない、全然無ければ、先日学校側からいただいた『パプリカ』の感想に記されていた質問から、適宜抜粋してお答えします。

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2回目、2年生相手の講義の際、事前に手渡された「質問」になかなか面白いものがあった。
『パプリカ』を見た男子学生の感想と質問がたいへん簡潔に記されていた。

女性には適わないと思いました。
女性には適わないと思いますか?

答えは勿論「はい」である。
何しろ『できそこないの男たち』(福岡伸一・著/光文社新書)なんだから。

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