2009年3月3日(火曜日)

先月の傾向



もう早3月とは、まるで詐欺にあった気分だ。
新作『夢みる機械』のコンテはペースが上がらず、危機感は増大するばかりだ。
飛躍的にペースが向上する方法を思いつくわけでもないが(そんなものがあったらとっくに実践している)、先月は新たに協力してくれるスタッフに参加いただいた。その仕事の発注のために、これまで取ったことのない方法でコンテを描いてみた。これが今回の光明になることを期待しよう。
主人公たちの冒険はまだ始まったばかりだ。先は長すぎるほど長い。

短い2月、そのトピックは何といってもこれだ。

平沢 進ソロ11thアルバム『点呼する惑星 』 発売。
2009年2月18日発売 CHTE-0046 3,150円(税込)
http://noroom.susumuhirasawa.com/

ありがたいことに私は正月早々から愛聴させてもらっている。
歪んだユーモアが楽しい、まことに傑出したアルバムである。って、どのアルバムもそういえるのだけど。

愛聴していると言えば相変わらず、もう一方の師匠、古今亭志ん生である。
去年末にポニーキャニオン版48枚組「五代目古今亭志ん生名演大全集」を手に入れて以来、どっぷりと志ん生にはまっている毎日。
先月は、コロムビア版13枚組「古今亭志ん生名演集」、さらにビクター版「五代目 古今亭志ん生」20枚シリーズを揃えた。
さらに、講談社のDVDブック「志ん生復活!落語大全集」もじきにすべて揃うはず。
どうしたんだ?私。

私には特にコレクションの趣味はないのだが、一時期にこれほど熱を上げて物を買いそろえた経験は、20代半ば以来であろう。その時の対象はヒラサワ、P-modelであった。
爾来、飽くことなく聞き続けているのだから、きっと「師匠」熱は一時期で終わることもないであろう。
志ん生を知ったのはかれこれ四半世紀前。
二十歳の頃は、自由に使える「お足」なんて微々たるものだったが、書籍やCD、DVDなどの仕事の肥やしになるものなら、いまでは値段のことをさして気にせず欲しいものをが買えるようになった。
大人になって良かった良かった。
毎日働かせてもらっているおかげである。仕事があるというのは本当にありがたい。

志ん生師匠以外の落語はほとんど聴いたことがないに等しいが、現在世の中は落語ブームだそうで、おかげでコンビニエントなシリーズが発売されている。
「落語 昭和の名人決定版」
小学館から隔週刊で出ている「CDつきマガジン」である。「ディアゴスティーニ」みたいなシリーズだ。
これまでに4回発売となっており、各回昭和の名人を一人取り上げて、資料や解説が記された冊子と3題ほどの落語がCDに収録されており、カタログ的に聴くにはたいへん重宝だ。
第一回目が三代目古今亭志ん朝、以後五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん、六代目三遊亭圓生。
圓生はもっと聴いてみたい気がした。
この先の発売も楽しみなシリーズである。

先月は読んだ本が11冊。見た映画はわずかに3タイトル。
単純に時間を割けないからなのか、精神的に余裕が少ないのか。映画を見る機会が減っているのは決してよろしくない。
映画は先月から引き続きヒッチコックが3本ばかり。

『逃走迷路』
『トパーズ』
『フレンジー』

どういうセレクトで見ているのか、特に意味はない。単に買ってあったものの中からその日の気分で選ぶ。
『逃走迷路』は以前にも見ている。といっても……20年くらい前のことなので、「面白かった」という以外にあまり記憶がない。
この映画を元に、後年『北北西に進路を取れ』がセルフリメイクされ、ヒッチコックの代表作の一つとなる。比べる必要はないが、冤罪を負った主人公が逃走中に出会う人々のバリエーションや味わいは『逃走迷路』の方が豊富だ。
盲目の老人、サーカスの色物たちがたいへん印象的で、ちょっとした「異界」巡りのようである。一般の常識的物差しから見れば「奇妙な人たち」に出会って行く、という話形はたいへん好ましい。
『トパーズ』は制作の迷走ぶりが窺えるヒッチコックらしからぬ、あるいは晩年を感じさせる映画ということになるのだろうか。特典映像によると、試写では「最低よりもさらにひどい」といった評価が多かったとのこと。ヒッチコックを期待している人には無理からぬ内容であろう。確かに全体に話や映像の切れが悪く、「何の映画か?」というつかみどころにも欠ける。
『フレンジー』も晩年の作だが、こちらは本国イギリスに戻って撮られたこともあってか、エネルギーが感じられる。こういう曖昧な言葉を使ってはいけない気もするが、アイディアと内容が噛み合い、往年のヒッチコックを期待した人たちにもアピールしたようで、ヒット作となったらしい。
ネクタイ絞殺魔が婦人をレイプ、殺害するくだりはちゃんと嫌悪感を催すほどに「ひどい」シーンとなっている。
連続殺人というサスペンスフルなモチーフもさることながら、捜査担当警部夫妻の奇妙なユーモアがいい。
何かの本で読んだが、たしかにヒッチコックの映画における食事シーンは「死」とセットになっていることが多い。生と死という大きな振幅を持ったモチーフを凝縮しやすいせいだろうか。
落差が大きいだけに夫妻の食事シーンは笑える。

笑うといえば、映画ではないが『空飛ぶモンティ・パイソン』(TVシリーズ)も見始めた。
去年阿佐ヶ谷でのトークイベントの際に、ソニーさんからいただいた7枚組のDVDボックスで全45話。先月は5話まで見た。先は長い。
このボックスの目玉は「日本語オリジナル吹き替え復活」だそうだ。アマゾンの商品説明にもトピックとしてこのように記されている。

「ファン待望!伝説の日本語吹替を初収録!! モンティ・パイソンの日本上陸はいまを遡ることおよそ30年前、1976年に東京12チャンネル (現:テレビ東京)で放映された「チャンネル泥棒!快傑ギャグ番組!空飛ぶモンティ・パイソン」。納谷悟郎、山田康雄、広川太一郎など豪華メンバーが繰り出すその名吹替はその後一切世の中に登場することはなくファンの間では伝説化するほど!今回はその伝説の日本語吹替がついにDVDで復活!!」

なるほど、確かにその通りかもしれない。
数は少ないとはいえ、私も随分昔にこの吹き替えによる『モンティ・パイソン』を見た覚えがあるし、広川太一郎さん、青野武さん、納谷悟郎&近石真介さん、山田康雄さん、飯塚昭三さんら錚々たる声優さんの声の調子はたいへん印象的であった。
その広川さんが亡くなられたのが、去年のちょうど「十年の土産」開催中のこと。折しも会場においでいただいた飯塚昭三さんとその話題になった。飯塚さんには「広川太一郎のアドリブはどうして生まれたのか」など、当時の収録の様子などを聴かせていただいた。
そんな記憶もあって、1話と2話を吹き替えでみてみたが、正直少々つらい。
日本でのオンエア時カットされた部分は当然吹き替えが入っていないので、視聴覚上面倒も多い。
それに、懐かしいということを除けば、魅力は感じられない。
何というか、現在の「声優芝居」につながる根深い問題も感じられて嫌になってくる。
元の芝居に比して「大まじめにふざける」という感じが薄く、とぼけた笑いが失われている。どうも「ふざけている」ことを強調しすぎではないかと感じてしまうのだが、当時の笑いに対するセンスやテレビの在り方を考えると、「当時はそういうもの」だったのかとも思う。現在も、だけど。
単に私が、レンタルビデオの普及以来、吹き替えで見るのが嫌になったというせいもあろうが。
3話からは字幕で見ることにした。
やっぱり『モンティ・パイソン』はたいへん面白いのである。

先月読んだ本。「巨匠」関係では、

『おしまいの噺 落語を生きた志ん生一家の物語』美濃部美津子(アスペクト)
『黒澤明大好き!』塩澤幸登(やのまん)
『黒澤 明−封印された十年』西村雄一郎(新潮社)

『封印された十年』で『デルス・ウザーラ』撮影当時の様子が興味深く紹介されていたので、日曜の夜、早速『デルス・ウザーラ』を見た。
デルスと、低迷期にあったとされる監督の姿が重なって見えてきて、よけい悲しくなった。この映画、インチキなエコロジーに汚染された現在にこそいっそう相応しい気もする。
「お馴染み」の方々では、

『精神科医は腹の底で何を考えているか』春日武彦(幻冬舎新書)
『読まない力』養老孟司(PHP新書)

の2冊。前者は副題の通り、精神科医の具体的なエピソードが面白い。後者はここ数年の「Voice」誌上に連載していたエッセイで、時事問題を扱っている。「すっかり忘れていたついこの間の大事件」を思い出させてくれる。

『日本人の〈原罪〉』北山 修+橋本雅之(講談社現代新書)

これはたいへん示唆に富んだ一冊で、以前ブログで紹介した。

『幕末史』半藤一利(新潮社)

『昭和史』『昭和史 戦後篇』に続くいわばシリーズ第3弾。
著者の半藤氏の父方の家は越後長岡藩にあったそうで、いわば「賊軍」とされた側。「薩長史観」という「ただしーれきし」をちょっと裏側から見るような視点が気持ちよい。
その他、

『「汚い」日本語講座』金田一秀穂(新潮新書)
『だましだまし人生を生きよう』池田清彦(新潮文庫)
『日本人の禁忌(タブー)』新谷尚紀・監修(青春出版社)
『回復力』畑村洋太郎(講談社現代新書)

『回復力』を読んで「コンプライアンス」という言葉の正しい意味を初めて知った。正しい意味どころか、正しくない意味もよく知らなかったのだが。
企業などの不祥事、その謝罪会見で「今後はコンプライアンスを徹底する」といった使われた方はお馴染みで、一般には「法令遵守」という訳を与えられているそうだが、その場合はcompliance with the lawといった使い方でなければいけないのだとか。
「コンプライアンス」という言葉は、工学の世界で使われる場合「相手のものの形に従ってそのものが変形する時の「柔らかさ」や「柔軟性」」を指す。
自動車の車体をプレスする時、鉄板を金型の間にはさんで押しつける。このとき「素直に変形する度合いをコンプライアンス」と言い、「「コンプライアンスが大きい」というと、小さな力で大きく変形する状態」ということになるのだそうだ。
「これを人間関係に当てはめてみると、社会や相手の変化に順応するように自分が柔軟に変化している姿が想像されます。社会が何を求めているかをきちんと見極め、それに順応しながら柔軟に動いていくこと、これがまさしく「コンプライアンス」の本当の意味であり目的である(本文より)」
なるほど、そう聞くとたいへんいい言葉である。
このことは先日、日本工学院声優学科での特別講義でも紹介させていただいた。こういうこと。
「コンプライアンスの大きい声優さんになりますように」
締めの言葉としてたいへん都合のいい話であった。
何でも読んでおくものである。

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