2009年5月14日(木曜日)

ゼミの楽しみ



今年も武蔵野美大映像学科でゼミを担当している。
ゼミ生は今年も二桁に満たない人数なので、にわか講師(にせ講師ではない。私は正確には客員教授だったはず)としては負担が少なく、多少は気が楽だ。
去年のゼミ生は男子が半数以上だったが、今年は男子学生はわずかに一人。
アニメーションを卒業制作にする予定の学生が多いが、実写を撮る学生も混じっている。楽しみだ。
ゼミで去年と同じネタを使い回すのは何か「いけない」ような気もして(というか、私が飽きてしまうせいだろうが)、一昨日のゼミでは去年とはちがうネタで演出や映像の解説みたいなことをしてみた。
長尺の劇場アニメーションだと見るのに時間の大半を使ってしまうので、『妄想代理人』の1話をネタにする。
1話をまず通して見てもらう。
久しぶりに自分でも見返して思った。
「あ。すっげぇ楽しそうにコンテ描いてるぞ、私」
どうやって余計な芝居や動きを省略して必要なことだけをフレームに収めるのか、テレビシリーズという制約と実に楽しそうに遊んでいるのが微笑ましくなってくる。
学生相手に話をすることでお足をいただいているが、同時に学生それぞれのアイディアに対して同時に頭を回転させることは「多面指し」のようでとても良い訓練になるし、自分の仕事についての反省や批評の時間にもなるので、私個人にとっても貴重な「ゼミ」である。

『妄想代理人』1話を見終わって、頭から順に解説する。
なぜファーストシーンがこのようになるのか。
「私の場合は、いつもファーストシーンは物語の象徴的「総論」みたいなもので……」
最初のカットをどのように考えて選択したのか。
「対となる二項の対比を扱う話なので、その代表は光と影、正像と鏡像だろうから……」
そこからどのようにお客さんの視点を誘導して行くのか。
「雲間から光が差し、それによって影ができて、そこからPANアップして今度は……」
重要人物を最初に登場させるときの工夫とはどういうことか。
「重要人物の登場は印象づけたいので、この場合は……」
カットとカットの間、フレームの外に何を押し出し省略しているのか。
「実際のアクションは一つも描いていなくても、画面外の音を活用して……」
人物の表情によらず内面を外部に象徴させるとはどういうことか。
「表情の乏しいキャラクターを見せるために、ここでは象徴として……」
説明的な台詞を、どのように日常的な会話にかみ砕いたり、掛け合いの会話に持っていくか。
「この台詞を1ワードで言わせず、こっちの人物に残りをフォローさせて掛け合いにすると会話の流れにリズムが……」
説明として必要なシーンをどうやって「見せ物」に仕立てるか。
「説明的なシーンも、別な同時に流れを掛け合わせて……」
カット割りで芝居するとはどんなことか。
「この切り返し自体が「驚く」という芝居になっているから、表情変化は必要なくなって……」
画面と台詞によるハーモニーとはどんなことか。
「言葉だけの繋がりではなくて、言葉から画面、画面から言葉に受け渡して……」
……といったことを、1話をプレビューしつつ思いつくままに喋る。

半パートを過ぎたくらいでタイムアップになってしまったので、以下次週ということにする。喋っているうちにこちらも楽しくなってきて、ついつい時間を超過してしまった。ブログが長くなるのと一緒だ。
自作を解説するのは少々恥ずかしい行為だが、他の人の映像ではなおのことろくな解説が出来そうもない。
『妄想代理人』の1話が面白いかどうか、良く出来ているかどうかはともかく、「演出は何を考えるのか」を知ることで、自身の制作において判断基準を考えやすくなるのではなかろうか。
もっとも、私の場合、誰かに体系的に映像や演出を学んだわけではなく、あっちこっちで聞きかじったり、本で読んだりしたことを自分なりに組み立ててきた過ぎない。
必要に迫られたから考えた、という方が適切だ。
漫画やアニメーションの演出に限らず、美術設定やレイアウトというプロセスであっても同じことだが、目の前の仕事には常に自分にとって「未知の問題」が含まれている。
「どういう基準や価値観で判断すればいいのか、よく分からない」
昨日までとは違うことを、少しでも進歩を重ねたい考えながら仕事に取り組めば、得てしてそういう事態の連続になる。
よく「頑張ってください」という漠然とした励ましの言葉が安易に流通されるが、この言葉についてどなたかがこんなことを書かれていた。
「頑張り方が分かれば問題のほとんどは解決したようなものである」
その通りだと私も思う。

「どうやって頑張ればいいのかよく分からない」という不愉快な状況を少しでもかみ砕いて快適に仕事をするために、私は自分なりに対処のプログラムを考えてきた。というよりも、対処の方法を考えることこそが仕事であり楽しみである。
果たしてその対処法が他の人にも有用なものかどうか、確たる自信はない。
ちなみにプログラムは日々修正され続けている。だから、今年と来年で言うことが変わることだってあり得るし、そうでなくては物づくりの呼吸が止まるに等しい。呼吸困難に気がつきもせず「自然死」している人も多いので要注意。
考えてみれば、ゼミを担当することそのものが私にとっては「どういう基準や価値観で判断すればいいのか、よく分からない」仕事の塊で、どういう関わり方をすれば学生にとってより内容が豊かになるのかを考え続けているわけで、それがまた私にとって楽しいのである。

学生には、作り手側としてどんな基準でものを考え、どうやってイメージを育てていくのかが少しは伝わったのではないかと思いたい。
映像的な個々のテクニックを覚えるのではなく、作っている当のものとの関わり方の参考になれば幸いである。
プロジェクター使用のため、暗くなった教室で話を聞く学生は睡魔に侵略されているのではないかと思ったが、後で興味深そうに絵コンテに見入っていた学生も複数いた。面白がってくれたようで少しホッとする。
「こういう話って、聞いたことないの?」
皆、一様に首を振る。
うーん……映像学科って、そういう話もする空間じゃないのか……。

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