2009年5月16日(土曜日)

4月の雑食・その3



「エコポイント」開始だそうだ。
何のことはない、翻訳すれば「もっと金を使え、国民めら」ということだろう。
何に使えるのかもまだ決まってないポイント導入を前倒しするほどケーキカイフクが大事なのだろう。どうせ貯まったポイントなんか次の「もっと金を使え、国民めら」へとリレーされるに決まっている。
必要もないところに無理矢理需要を掘り起こす。
国民の精神総動員させて育てるバブルの夢よ再び。
「贅沢は素敵だ」
政府はいつから広告代理店になったのか。
もうずっと前から。

拾い読みの続き。

『多読術』松岡正剛
神戸出張の帰りの新神戸駅、車内で気楽に読める本をと思って探していたら平積みになっていた。ラッキー。
読書の達人の話はとても刺激になるのだが、とても実践には至らないどころか、端から真似ひとつできない気がしてくる。
得るところの大きな本で、たくさんのドッグイヤーになってしまったが、マクルーハンの仮説を紹介しているくだりが興味深い。
「人類の歴史は音読を忘れて黙読するようになってから、脳のなかに「無意識」を発生させてしまったのではないかというんです」
ははぁ……。
「言葉と意識はそれまでは身体的につながっていたのに、それが分かれた。それは黙読をするようになったからで、そのため言葉と身体のあいだのどこか、今日の用語でいう無意識のような「変な意識」が介在するになったというんです」
とても興味深い仮説ではないか。

新書の最後は、『大人のジョーク』
たまにジョーク集を読む。別にパーティで披露しようというわけではないが、落語の小話が面白いのと同じで「切れ」を楽しむ。
志ん生の小話で私が好きなのは「橋番」。「猫の皿」(東京落語会1960.11.24収録)の枕に使われいる。

昔はこの、どこの橋にも橋番というものがいて、その橋から間違いが起こると橋番の責任でございました……
「こういうように毎晩身投げがあっては困るではないか!ん!? その方がそこにいて分からんのか!」
「へ!どうもあいすいませんでございます」
って、上役に叱られてその晩こう見ているってえと、
一人パタパタって駆けだしてってね、欄干に捕まって飛び込もうとする奴を後ろから捕まえて、
「てめぇだろ!?毎晩ここから身を投げやがんのは!」

書き起こした文章で読んでもあまり面白くないかもしれないが、志ん生の間とリズムで聞くと実に可笑しいのである。
ちなみに、このネタは江戸時代に書かれたいわばジョーク集が出典という。
これまで面白いと思ったジョークも、そのほとんどは覚えていないがこんなのは印象に残っている。確か日本の古いジョークだったか。
メイドが言う。
「旦那様、旦那様、起きてください!睡眠薬を飲むお時間です!」
こういうトンマ、思い当たる人も多かろう。
『大人のジョーク』という割には、大人が楽しめるものは見あたらなかったが、あまりに下らなくて気に入ったものが一つ。
アメリカ、オバマ大統領がまだ候補として選挙戦を戦っていた頃に出来たものだろう。
ある男が「デリヘルを呼んだら、すっげえブスの上、年増のババァだったから“チェンジ!”って、いうつもりが、“イエス!ウィ!キャン!”って言ってしまったんだ」
たはは。
こういう本は、何も考えずマッサージ機に揉まれながら読むのにちょうどいいのである。

新書ではないが、次もそうしたマッサージ本。
『新版 アメリカ横断TVガイド』町山智浩
志ん生にはまってから、とんとポッドキャストの方とは疎遠になってしてまっているが、町山智浩さんの著者はいつも楽しみにしている。
復刊されたものだからネタは古いが、取り上げる題材もその切り口も楽しい一冊。
先月から始まったMXテレビ『松嶋×町山 未公開映画を観るテレビ』も楽しみにしている……のだが、これまで2、3回見逃してしまった。ち。
とても面白い番組だが、あの下品な色が氾濫するセットは何とかならんのだろうか。

『そこは自分で考えてくれ』池田清彦
池田先生のエッセイはとっても面白い。
この本は、まずタイトルがいいではないか。
「そこは自分で考えてくれ」
そう言いたくなる人たちがとっても多いことだよ。
こういう場合の方が多いようには思うが。
「そのくらい自分で考えてくれ」
いや、こうかな。
「少しは自分で考えてくれ」
「温暖化より危ないこと」と題された稿の結びが秀逸だ。
ここだけ引用すると文意が正しく伝わらないかもしれないが、こういうことをきちんと書く人は貴重だろう。
「だから世界はCO2を減らす方法を考えるより、人口を減らす方法考えるべきだと私は思う」
私もそう思う。

『世の中にひとこと』池内 紀
たしか毎日新聞の書評で紹介されていて、興味を持った。
いまではすっかり少なくなったといわれる「大人」の、世間への距離感に気持ちよくなるエッセイ。
「ユーフェミズム(euphemism)」という言葉を初めて知った。
「「遠回しの言い方」で事実をごまかすこと。政府や権力側が使う常套手段であって、大衆操作の道具とされている」
例としてあげられているのは、戦時中の「逃げ出すこと→転進」「敗戦→終戦」「占領軍→進駐軍」。高利貸しをローンだのファイナンスというのも同じ。
ローンなんて昔は「月賦」といったのに。引きこもりだのニートはその昔「穀潰し」と言われていた。
まったくもって「言葉を換えると、事実があいまいになる。現実が見えなくなる」ものではないか。
政治家も官僚も広告屋も何を言ってるのかさっぱり分からないのは、まさにこれだ。インチキな奴の言葉にはカタカナや本人も漢字を書けない熟語なんかが多いことだよ。
「ヒネルトジャー」という稿では(ヒネルトジャーという言葉も懐かしいが)、江藤文夫さんという方のたいへん印象的な話が紹介されていた。私は名前すら知らなかったが、映像論・コミュニケーション論で著名な方だそうで、2005年に亡くなられたとか。
「日本のテレヴィジョンは戦争(第二次大戦)を体験していない」
ドキッとする。
言われれば、当たり前の、ことなのに、ちっとも思いも、しなかった。
著者はこう続ける。
「映画というメディアは戦前・戦中・戦後の時代認識をもち、その中で映像がつくられてきた。
テレビはまさにその一点を欠いている。歴史認識とは遠いところで、とめどなく肥大したメディアである。そのことの意味の大きさを、たえず思い出していなくてはなるまい」
「国民投票」の稿で紹介されるヒトラーの言葉も興味深い。
「国民の英知をあてにするものは大衆をつかまえそこなう」
なるほどねぇ……国民を馬鹿にしてる連中の方が金持ってるもんなぁ。
「おみこしかつぎ」では周作人『日本文化を語る』からこんな引用がされている。
「日本の国民性は宗教的であって、その行動はしばしば感情が理性を越え、風狂に近くなることを、私はかつて指摘しました」
近頃の豚インフルエンザや環境・エコ問題を巡る狂騒ぶりはまことに「風狂」というに相応しいのかもしれない。

トラックバック・ピンバックはありません

トラックバック / ピンバックは現在受け付けていません。

現在コメントは受け付けていません。