1999年8月11日(水曜日)

Q&A? -1-



 掲示板の方でもちょっと話題にさせてもらいましたが、この夏アメリカで「パーフェクトブルー」が公開されるという事情もあって、海の向こうからインタビューが舞い込んできたりしてました。もういい加減読者の方もパーフェクトブルーのネタには飽きたでしょうし、私もかなりうんざりしておりますが、折角一生懸命答えたので一応アップすることにしました。
 アメリカの「アニメファンタスティック誌」という雑誌でしょうか、それと「マンガオンライン」という、多分ウェブサイトなんでしょうね、二つの依頼に答えたものです。
 本来は「パーフェクトブルー」のカテゴリーの属する内容ですが、今更パーフェクトブルーのコーナーを更新するのも気乗りがしませんし、質問事項にまつわる事柄などを徒然に書き足したりもしてみましたので、「NOTEBOOK」の扱いということにしてみました。質問に答えたのはもう何ヶ月か以前のことですが、あれこれと書き足しているうちに時は過ぎ、量も膨大なものになってしまいました。
 以前にも似たようなテキストをアップしたことがありますし、特に目新しい発言もないと思いますが、暇な方はご一読下さい。「◆」印以下がHP用の書き足し分です。
 
 Q1・一番最初にアニメーションに関わられたきっかけは何ですか?
 

 A・元々私は漫画家でした。雑誌に時々短編を発表したり、週刊誌に連載をしたこともあります。その頃縁があって、「AKIRA」の大友克洋氏と懇意にさせていただきました。
 その大友氏が原作の「老人Z」というアニメーションに参加したのが、この仕事に携わるきっかけとなりました。この作品の監督からの依頼を、大友氏を通じて受けたのです。美術設定というポジションでした。
 ご存知かもしれませんが、日本のアニメーション業界でいう美術設定とは、実写映画などでは「プロダクションデザイン」といわれるものです。作品に登場する舞台を決めたり、そのデザインなどが主な仕事となります。
 「老人Z」では、当初美術設定の仕事だけの予定でしたが、人的資源の不足から、本編のレイアウトも担当しました。レイアウトとは、個々のカットの具体的な設計で、構図や芝居のプランを決定する重要なプロセスです。
 美術設定は、その仕事の性格上作品のムードやテーマにも関わりますので、必然的に作品全体に関わることになり、またレイアウトはある一連のシーンを具体的に絵に起こし、さらにディテールを掘り起こしていく必要があります。この段階で芝居やテクニカルな処理を決定する必要もあり、アニメーションの技術やノウハウを学ぶ良い機会となりました。
 こうして統合的なポジションと、局所的なポジションともいえる二つの仕事に携わったことが、その後のアニメーションに深く関わるきっかけになったと思います。

◆          ◆          ◆

 「老人Z」ねぇ。
 時間と人的資源を投じた割りには……あまりにも……ちょっと、ね。個人的には仕事自体は楽しいものであったし、その後付き合いの多くなる人たちと出会えたことは貴重な体験であった。
 現在では「人狼」監督の沖浦君が隣の席だったし、監督の北久保、パートでコンテ・演出も担当していた本谷、作監のSUEZENこと飯田ちゃん、美監のマッチョ佐々木洋氏などメインスタッフとも楽しく遊んだ記憶がある。大トラ鈴木美千代さん、川名さん、森田君、中沢一登君といったその後パーフェクトブルーやジョジョでもお世話になる原画マンともこの作品で知り合ったことになる。
 今から9年前のことになるのだな。思えば私のアニメ歴も同じ時間ということか。業界の清濁両方の水にもすっかり慣れてしまったかもしれない。
 
 Q2・パーフェクトブルーの前に、今さんのお仕事として注目を浴びたのはどんな作品ですか?
 

 「注目された」ことを自分で語るのは難しいですね。あまり注目を浴びた覚えはありません。私の銀行の残高がそれを物語っています。
 世間的な注目は皆無に等しかったかと思いますが、ありがたいことに業界内では私の仕事に注目してくれた方もいらしたようです。
 前述した「老人Z」に関わるきっかけとなったのは、それまでに描いていた漫画作品でした。アニメーション業界と漫画業界は、絵でもってお話を語るということでは実に近しい間柄であります。お隣さんです。特にアニメーション業界のスタッフは漫画をよく見ているようで、お陰で私もその網に引っかかったわけです。
 漫画の単行本には「海帰線(かいきせん)」、「ワールドアパートメントホラー」の2冊があります。アニメーション、漫画の両業界で、これらの作品を覚えてくれている方が多数いらっしゃるようです。作者の意に反するかのように、素人の読者よりは同業者に注目されているようです。
 このことはアニメーションに携わるようになっても変わらないようです。最初に参加した作品「老人Z」での仕事が、業界内で多少は注目されたようで、その後も美術設定やレイアウトの依頼が来るようになりました。その種の仕事では、劇場アニメ「走れメロス」「機動警察パトレイバー2」などがあります。
 脚本・美術設定を担当した「MEMORIES/彼女の思いで」も、ありがたい評価をいただきました。また、脚本・演出を担当した、ビデオシリーズの一本「ジョジョの奇妙な冒険/第5話」も、業界内では多少の注目があったらしく、そのお陰で「パーフェクトブルー」の初監督という肩書きが舞い込んできたようです。
 私は仕事においてはなるべく無駄をしたくない性格なので、一本の仕事を次の仕事に繋げているようです。
 もっとも、願わくばもう少し一般のオーディエンスにも注目されたいものです。

◆          ◆          ◆

 世間的には注目されたことがないなぁ。質問も質問だよな。「注目を浴びたのはどんな作品」って聞かれても、ね。
 まぁパーフェクトブルーの前に限らず、仕事は色々やったけど。私はアルバイトという経験がない。学生時代から小遣いを稼ぐといえば、イラストとかカットの仕事であり、マンガのアシスタントであった。絵と酒以外に時間を使う暇が惜しかったということもある。
 学生当時の仕事で印象深いのは「ホットドッグプレス」の「業界くん物語」であろうか。今ではすっかり文化人となってしまったいとうせいこう氏が講談社に在籍中で、氏の企画・担当による妙な連載ものであった。絵を描いていたのはメインになんきん氏、ナンシー関さんも参加しておられた。色々なタイプの絵描きがカットを提供し、それをつなぎ合わせて一本の業界紹介マンガを作っていたのだ。
 他にも色々な雑誌でカットの類は随分な数を描いた気がする。阪神タイガース優勝の年、だから1985年には「週刊プレイボーイ」で選手を化け物になぞらえてカットを描いたり、「STUDIOVOICE」とか今は無き「平凡パンチ」なんかにもカットを描いたこともあったかしら。変なゲームの解説本かなんかにもカラーで数ページ漫画を描いて、バカな編集者に無惨な姿にされた覚えがある。オッサンのための健康雑誌にも十数ページ描いた覚えがあるなぁ。人前で広言できない仕事も多い。
 そういえば「週刊少年マガジン」にカットを描いていたこともあった。菊池秀行氏のSF小説の連載に挿し絵風なものを描かせてもらったのだが、タイトルだの絵の内容はすっかり忘れてしまっている。あ、「何とかかんとかカケル」だったかな。ま、いいや。
 漫画家のアシスタントは随分と日銭を稼がせてもらったが、それほど色々なところには行ってないだろうか。大学2年の頃に大友さんの「AKIRA」の臨時の手伝いに行ったのが、初めてのアシスタント経験であったか。高寺彰彦さんのところも随分と手伝った覚えがある。「サルタン防衛隊」が最初に手伝った作品かしら。知り合いの作品しか手伝いに行かなかった気がするなぁ。単発では、内田美奈子さんだったかな、それとさべあのまさんとかのところにも行った覚えがあるなぁ。遠い記憶だな。
 
 初めての単行本「海帰線」を出したのが今から9年前。私が26歳のときである。それ以前、5年通った大学を出てからの3年間はおおよそこうした雑多な仕事をして口を糊していたのだろうが、それにしてもよく生活が出来ていたものだと自分でも不思議に思う。下世話な話であるが、この頃はヤングマガジンから年間の「専属料」みたいな形で「50万円」を支給されていた。「専属」ということはよその出版社では仕事が出来ないということになるのだが、どうせよそに持って行くほど多くの原稿を描くわけでもなかったし、カットやイラストの仕事は自由に出来た。何もしないでもいただけるこのお金なのでありがたかったな。
 年間に一体何枚漫画を描いていたのだろうか。100枚も描いてない。下世話なついでに原稿料の話をすれば新人の時は¥5000だったか。2回目で¥7000になっていただろうか。その次はすぐに¥9000になったかと思われる。今の新人はもっともらっているのだろうか。
 ともかく当時はざっと勘定しても年収にして200万にも満たない年もあったろうし、月々十数万で暮らしていたことになろうか。確かに死なない程度に生活はできる金額かもしれないが、余裕というものにはからっきし縁のない暮らしであった。
 単行本を出して一息ついてからは、それほどひどい貧乏という経験はないが、暮らすのでいっぱいであったろうか。アニメ業界に入ってからは、どの作品でも額の多少はあっても月々の拘束で仕事をしていたので、それほど浮き沈みなく暮らせている。
 前述した「老人Z」が初めて関わったアニメーションで、その翌年1991年に漫画で「ワールドアパートメントホラー」を短期連載して単行本化、同じ年に劇場アニメ「走れメロス」にレイアウトして参加したのであったか。この仕事は「老人Z」の時に隣の席だった沖浦君が作監をするということだったので、手伝わせてもらったのである。その仕事の最中から動き出したのが、「MEMORIES」でその一本「彼女の思いで」に色々な形で関わることになる。結果的にはシナリオ、設定というクレジットになっているが、美術設定を全部担当したわけではない。私がやった設定は主にロココ風な悪趣味な部屋だの廊下、それと乗組員の二人が「物体」の中へ降りて行くエレベーターのデザインなどであったろうか。これらのシーンに関してはレイアウトのチェックも担当したかしら。作画陣は豪華で頑固者ばかりが揃って、大変胃の痛い仕事であったと記憶している。最終的な仕上がりは大変素晴らしいものであったが、作っている最中はとにかくしんどかったな。
 この仕事で設定の巨匠、渡部さんと知り合うことになる。その渡部さんが「彼女の思いで」のスタジオ開きの時、こっそり私に耳打ちするのである。
 「今さん、ロボット描ける?」
 何であろうか、唐突に。ロボットを描いたことはないが、描けなさそうな気もしないので「描ける……と思うけど」と答えたところ、しばらく後に私は国分寺のスタジオで打ち合わせの席にあったのである。目の前に小さなオッチャンが座っていた(笑)。劇場版「機動警察パトレイバー2」という作品であった。
 この仕事は「彼女の思いで」と並行してやった仕事であった。前述したように「彼女の思いで」で胃の痛い思いをしていたこともあり、息抜きとして自宅でこそこそ仕事をしていた。いかにも「お仕事」といった感じだったが、別にそれほど手を抜いたというほどでもない……と思う。
 この仕事が縁で受けた仕事で、後に結果大変嫌な思いをするのだがそれはおくとする。「パトレイバー2」、「彼女の思いで」の受け持ちが終わって、そろそろ漫画の企画でも出そうと思って落書きを重ねていたのだが、それだけでは日々の暮らしが心許ないので、半拘束という形でガイナクスに入る。周囲の人間に私には「最も似合わない」といわれた仕事先であったが、意外と楽しく仕事をしていた。この作品は途中でとん挫して完成を見なかったが、この時隣の席に座っていたのが大橋誉志光さんで、最近では「十兵衛ちゃん」等の演出で知られている上手な人であった。そして私の背中側に座っていたのが本田師匠であったか。温泉番長もこの時同じスタジオにいて、以来よく遊ぶようになったのであろう。
 結局この「蒼きウル」という作品は、残念ながら制作ストップということになってしまったが、その頃に北久保から「ジョジョの奇妙な冒険」の一本の演出を頼まれたのだったか。作品名を忘れてしまったが(確か何とかかんとかガードレスだったかな)IGから「コンテ・演出」という話もいただいていたのだが、作品内容があまりに私の趣味とはかけ離れていたので、どうせかけ離れているなら派手な方がよいか、ということで「ジョジョ」を選んだ気がする。
 これは実に楽しい仕事であった。およそ今後もこれほどバカな仕事場にはお目にかかれない気がする。フィルムの出来だの作品への思い入れなど二の次で、仕事場への思い入れの方がいまだに大きいなぁ。
 スタッフが自炊するというだけならさして珍しくもないだろうが、作監と演出が毎日スーパーに買い物行って本格的に飯を作る仕事場というのも珍しかろう。作打ちをこたつで行う、作打ちに酒を持参してきてさらには飲んで泊まる、巨大なタラバガニを食う、ゲームに夢中になる、漫画を連載する……あ、それは私だけか。
 この仕事の最中に前述した私の一生の不覚となる嫌な仕事が始まる。受難、というには自分の責任を棚に上げている気もするが、実際過言ではない。自慢ではないが、よほどのことでもない限り私は他人のせいにはしない方だ。
 だいたいが連載開始を編集部が勝手に一月繰り上げるという、およそ非常識な事態で幕を切ったこの受難の日々は、何とも実りの少ない仕事となった。もちろんお客に対しての責任がある以上、当方の努力によって何らかの形に結実させ得たのでは、という忸怩たる思いはあるが、いかんせん自分の中にない物は描きようもなく、「や〜めた、っと」という投げやりな気持ちで途中で終わらせることになった。
 あれこれと仕事にまつわる記憶の断片を列挙してみたが、何のことはないただの愚痴になったかもしれない。
 
 Q3・業界で、今監督が師と思われる方、もしくは強く影響を受けた人がいますか?
 

 A・多くの人々に、沢山の影響を受けていると思いますが、中でも特に影響を受けたのは、やはり漫画家の手塚治虫氏と大友克洋氏でしょうか。
 手塚治虫氏の漫画は子供の頃から愛読しておりました。漫画やアニメーションに興味を持つきっかけとなったのは間違いなく手塚氏のお陰であると思います。手塚治虫氏はやはり日本の漫画の祖であると思います。
 漫画に興味を持つきっかけとなったのが手塚治虫氏の作品だとすれば、自分でも描いてみたいと思ったのは大友克洋氏の作品の影響といえると思います。
 私がまだ高校生の時から大友氏の一ファンでありましたし、その絵の描写力に大変憧れました。従来の記号的な漫画の絵とは一線を画すものであったと思います。リアリズムですね。他の漫画の絵から模倣するのではなく、現実に存在するものを自分の目で見て描写する。表象的なものは勿論のこと、対象物の内部に切り込む氏の視点は大変に鋭い。
 私は氏の作品によって、もっとも基本的なリアリズムの手ほどきを受けた、といえると思います。ですから「絵」そのものの影響はもちろんですが、対象物への関わり方、というか見る態度が大事である、ということを学ばせてもらいました。それは氏の態度を模倣するということではありません。氏の作品とご本人との交流のお陰で、自分なりの態度を形成することを学ばせてもらったわけです。

◆          ◆          ◆

 まったく、どこまで本気で答えてるんだか(笑)
 「師」という言葉の響きに抵抗を感じるのだな。どうにも大仰な気がして素直に答えられない気がする。勉強をさせてもらったという意味では、実に多くの人々に教えを乞うた。それらの方々すべてが「師」という気もするので、特に名前を挙げるのは気が引けるのである。それにまたこうした取材に対して、知名度のない人を上げるというのもまた面倒くさい。一々「名はあまり知られていないがこれこれの人である」などと説明を付するのが億劫なのだ。だからこのインタビューでも知名度の高いお二方に登場願ったのだが、それ以外で師と仰ぐ方がいないわけではない。
 例えば宮崎駿さんの「カリオストロの城」は色々な意味で勉強させてもらった覚えがある。コンテ集も買って読んだりもしたが、当時はアニメーションの仕事にかかわっているわけでもなかったので、アニメの参考ではなく、漫画のコマ割りをするうえで参考にしたのだと思う。親切な視点誘導とか絵を出す順番であるとか、イメージの対比だとか映像の基本的な文法をこの作品で気付かされたのかもしれない。ここ何年か見返したことがないので確かなことはいえないが、私の印象としてはそうしたごく基本的なことを宮崎さんもか特に大切にして作られていたように思える。
 
 Q4・背景デザインと脚本の仕事から監督に転身しようと決められたのはいつですか?
 

 A・明確に「転身」を意識したことはありません。一応、設問に対する純粋な答えをしておきますと、「パーフェクトブルーの監督をやらないかと誘われたときから」ということになるかもしれません。
 先にも申しましたように、元々は漫画家の端くれでしたので、最初から「監督・演出」を意識しておりました。肩書きを大切に思うのは他人であり、私自身としては、どのような肩書きであろうともなすべきことに変わりはありません。
 とはいえ、「作品を作りたい」と意思表明したところですぐさま監督の肩書きをくれるものでもありませんし、アニメーションの技術的なノウハウも必要になります。背景デザイン(我々は美術設定と呼びますが)やレイアウトを担当しながらそうした技術を学ばせてもらい、漫画ともっとも違う「スタッフワーク」という点でも多いに勉強をさせてもらいました。
 この点が一番重要だったかもしれません。日本のアニメーション業界は、純粋にプロフェッショナルの集団とは言えない側面があります。友人、知人といった横の連帯が非常に重要で、人脈を持たない人間は作品を大成させにくいと思います。元々が賃金の安い業界ですので、仕事を選ぶときの基準はどうしても友人関係や慣れている会社の作品が中心になることが多いようです。作品の魅力でスタッフを連れてくるのは、なかなか難しいようです。
 日本のアニメーションの監督業には、「スタッフを連れて来られる」という能力が大いに問われます。その能力によって、少ない予算を有効に役立てることが出来るわけです。その点でいえば私は脆弱ですが、「パーフェクトブルー」では幸運なことに、多くの才能あるスタッフにも恵まれました。

◆          ◆          ◆

 背景デザインとか脚本の仕事から別に「転身」したわけではないんだがなぁ。これまた本当のところを伝えるには、アニメーション業界の人的資源不足の現状から何から説明せねばならないし、私の仕事の成り立ちも詳しく語らねばならないので実に面倒くさい。
 マンガにしろ、イラストレーションにしろ、あるいはアニメーションの背景デザインやレイアウト、コンテでも脚本にしろ、どれをとってもやるべきことはそう変わらないと思うのだ。どれでもよいから一点をもって自分の突破口とすると、他のことでもおよそ本質が変わらないことが分かるような気がする。一芸万事に通ず、というと大袈裟かもしれないがつまりはそうしたことだ。もちろん絵を描くとか楽器を演奏すると言った肉体的訓練を要する分野は、本質を理解できたからといっておいそれと身に付くわけではないが。
 扱う素材の種類や数が変わっても、自分で設定した要求に対して答えを出して行く過程というのはそれほど変わるわけではないだろう。もし大きく違うことがあるとすれば、一枚絵を描くといった個人のフィールドで済むことと、アニメーションの作業のように他人の価値観が大きく介在してくる分野での、対人関係における把握や予測や対処といったことであろうか。例えて言えば、自分でいい絵を描くことと他人にいい絵を描いてもらうのでは、頭の使い方を少々シフトせねばならないということか。
 ただいずれの場合でも目指すべき山の頂点に変わりがあるわけではない。そこへ至るルートの差に他ならない。肝心なのはその到達点を設定する能力と達成する意志の力いうことになるのかもしれない。
 何を偉そうに言ってんだか。
 
 Q5・パーフェクトブルーにはどのようなきっかけで関わられたのですか?
 

 A・ある日、この作品の企画書が送られてきたわけです。「監督をやらないか?」という誘いでした。日本のアニメーション業界は、慢性的かつ極度の人材不足です。
 経緯をざっと申します。原作“パーフェクトブルー”の小説家・竹内氏が映像化を思い立ち、その企画が巡り巡って私のところに舞い込んできたわけです。原作の小説は読んでいないのですが、原作に近い形だというラフプロット読んだところ、私には向かない内容の話でした。
 「アイドルの女の子が、彼女のイメージチェンジを許せない変態ファンに襲われる」という比較的単純なストーリーで、出血の描写も大変多く、映画“パーフェクトブルー”よりも、もっとストレートなアクションホラーと言ったストーリーでした。
 この依頼があった当時、私は漫画の連載を抱えて大変忙しかったのですが、プロデューサー及び原作者にお会いして話を聞きましたところ、映像化に当たっての内容の改変は構わないという約束も頂き、また「初監督」という魅力に負けて無謀にも引き受けることにしたわけです。

◆          ◆          ◆

 聞いてくる相手は初めてなのだからいたし方がないが、聞き飽きた質問ではある。
 言ってしまえば頼まれたから引き受けた、という身も蓋もないことになるのだ。
 まぁはっきり言って「原作をいじって良い」という条件が一番の魅力であったろうか。どんな企画であっても工夫とアイディアの盛り込みようで鑑賞に堪えうる作品になると信じている私としては、ネタの好き嫌いはともかくいかようにも出来るという思い上がりがあったのだな。
 
 Q6・アニメ映画のパーフェクトブルーは竹内義和氏の原作の忠実な復元ですか? もしそうでないなら、どのような変更を加えられましたか? また、その変更はどうして必要だったのでしょうか? 村井さだゆき氏の脚本にはどのくらい監督が関われらましたか?
 

 A・前述したとおり、原作小説と映画とは随分違った内容であります。
 映像化に当たっては「アイドルが主人公であること」「彼女の熱狂的なファン“オタク”が登場する」「ホラー作品であること」という大枠をはずさなければ、監督のやりたい方向で構わないということでした。
 そこで、まず「映画・パーフェクトブルー」の中核となるモチーフを見つける必要があったのですが、その部分は脚本家に依頼するわけにはまいりませんし、やはり監督が見つけなければならず、いたく苦労いたしました。
 原作のモチーフを使って、全く新しいストーリーを作るような気持ちでアイディアを出して形作っていきました。
 そうする内に「周りの人間にとって“私”よりも“私”らしい存在」が、主人公本人も知らないうちにネット上で生み出されている、というアイディアが出てきました。その存在は主人公にとって「過去の私」である。そしてネット上にしか存在しなかったはずのその「もう一人の私」が、外的な因子(それを望むファンの意識)や、また主人公自身の内的な因子(過去の方が居心地の良かったかもしれないと思う後悔の念)によって実体化する、というアイディアに育って行きました。そこに、「もう一人の私」と主人公自身が対決するという構図が生まれ、初めてこの作品が「映像作品」として成立するという確信を得ました。
 先程原作小説のストーリーを「アイドルの女の子が、彼女のイメージチェンジを許せない変態ファンに襲われる」と要約しましたが、「アイドルの女の子が、急激な環境の変化やストーカーに狙われるうち、彼女自身が壊れていく」という風に考えることにしたのです。
 脚本のプロセスは、まず村井氏が第一稿を上げて、それに私がアイディアを付加あるいは削除する形でした。もちろん多くの話し合いの時間を持ちました。その話し合いの中から生まれてきたアイディアも多数ありました。最終的にシナリオは第三稿まで作ったかと思います。
 さらにアニメーション制作においては「絵コンテ」という重要なプロセスがあります。絵コンテは私が全カット描いたのですが、ここでシーンやセリフの変更も行ったかと思います。この段階で変更した一番大きな点は、犯人を変えたことでしょうか。
 シナリオでは、すべての犯行はエージェントであるルミが行っており、内田というストーカーはただの怪しい人物に過ぎなかったのですが、それを「メールを通じてそそのかされた内田が、犯行に手を染めていた」という風に変更したと思います。もっとも、そうした変更もなるべく脚本の村井氏に相談していたと思いますし、その変更に対して氏からの有用な提言もありました。

◆          ◆          ◆

 読めよ、原作をよ。私は読んだことがないけど。

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