1999年8月12日(木曜日)

Q&A? -2-



 ということで、前回から引き続き。 

Q8・大友克洋氏がパーフェクトブルーのスペシャルアドバイザーになられた経緯は? また、氏のアドバイスにどのように助けられましたか? 直接アドバイスを受けたシーンはありますか?
 
 A・企画協力として大友氏の名前がクレジットされておりますが、私はこの「パーフェクトブルー」という作品制作において、氏とは一度も会っておりませんし、話のプロットやシナリオに大友氏は全く関わっていません。ですからアドバイスということもありませんでした。
  制作中に飲み屋で大友氏と偶然会った折りに、「クールな脚本だね」と、ほんのちょっと皮肉混じりな感想をもらったくらいでしょうか(笑)
 私は経緯をよく知らないのですが、原作者がアニメ化の企画を持って回っていた頃に、大友氏がアニメーションの業界事情などを原作者に教えたりした、ということだそうです。ただその段階で大友氏が私について、良い評価を下さったと聞いておりますので、私が監督を出来たのも氏のお陰による部分も多いのではないか、と勝手に想像しております。

◆    ◆    ◆

 スペシャルアドバイザーって……そうだったのか。まぁ国内にしろ海外にしろ宣伝する上でビッグネームを押し立てたいのは分かるけど、何回も答えていると甚だ面倒くさくなる。
 大友氏が総監修をした某作品が、世間的には「大友克洋の新作」という受け止め方をされていたし、「平成狸合戦ポンポコ」も宮崎駿の新作という扱いであったし、パーブルも同じ様なものかもしれない。「大友・江口の放つアニメ界初のサイコホラー」(笑)とかね。笑い事じゃないけど、新参者としては致し方ありませんな。
  まぁ宣伝展開においては製作したレックスの方が気を使ってくれたせいか、思ったよりは嫌な思いをせずに済んだのは幸いだったかもしれない。
  それでも「大友克洋らしいシーンが……」だとか「江口寿史らしいキャラで……」などと言い出す目の極端に不自由な人もいるわけですよ。いいけどさ。
 
 Q9・英語版をまだ見ていないので分からないのですが、パーフェクトブルーという言葉が映画の中に使われていますか? またその意味するところは何ですか?
 
 A・私は英語版の監修をしていませんが、“パーフェクトブルー”という言葉が出てくることはないはずです。
 このタイトルが意味を聞かれる度に少々私も困るのです。ありのままを申せば、原作小説のタイトルが「パーフェクトブルー」だったから、ということにしかなりません。原作段階ではこのタイトルが何らかの意味を有していたのかもしれませんが、ストーリーや、おそらくはテーマすら、かなり変えてしまったのでタイトルの意味も失われているかと思います。
  タイトルに関しては、制作途中でも「内容的にそぐわない」という理由で、別なタイトルに変更するという話もあったくらいで、私自身「おかしなタイトル」だと思っていますが、意味ありげで、なおかつミステリアスなムードで気に入っています。

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 海外の配給が決まった頃は「英語版の監修をぜひ」などと調子のよいことをいわれたりしたものだが、案の定以後音沙汰はない。勝手にやるが良いさ。
  それにしてもなぁ、一体何なんだろう?「パーフェクトブルー」って。
  いまだに謎だ(笑)

 Q11・パーフェクトブルーは「彼女の思いで」の中で描かれたテーマのいくつかの延長でしょうか? また、パーフェクトブルーは“アニメーション初のサイコホラー”ということですが、パーフェクトブルーはアニメに新しい境地を開いたとお考えですか? このストーリーの中で、緊迫感、感情、バイオレンスなどをどこまで追求しようと思われましたか?
 

 A・「彼女の思いで」の延長という部分はあるでしょうね。現実という確からしいとされるものと、思い出、幻想といった主観的で不確実とされるものが混然とした世界観を描きたいというのは、「彼女の思いで」の時に明確になったようです。
  その点に関していえば「パーフェクトブルー」はその境界線が、より曖昧になった世界観ということになるかと思います。
  “アニメーション初のサイコホラー”という惹句は、宣伝する人間が勝手に付けたものですし、制作スタッフにそのような意識は希薄だったと思います。
 通常サイコホラーというと、連続殺人犯やストーカーといった加害者がどれほど狂っているかと言うことに焦点を当て、その怖さを描くものだと思います。本作もそうした部分を持っているのですが、私が考えていたのは主人公の内面の混乱を、お客さんにも味わってもらいたいという部分でした。
  シナリオの段階からそうした“酩酊感”を表現できればよいと思っておりましたし、フィルムでもその部分は上手く表現できたのではないかと思っております。
  緊迫感という点で言えば、作品の尺が長くないこともあり、最後のカットまで全体に圧迫されたムードを出して行きたいと思って演出していました。その圧迫と緊張が主人公の混乱をより助長し、観客にも十分影響すると思っていました。
  シーンの背景となる舞台も閉鎖空間が多いのですが、これもそうした狙いを表現する一環です。
 バイオレンス、というのはことさらに意識はしてませんでしたし、暴力描写を目的とする作品でもありませんでしたが、出来上がったフィルムを見て自分でも驚いてしまいましたね。随分と暴力的な描写が多くなってしまいました。しかしそれが失敗だったとは思いませんし、登場人物たちの感情を表現し、象徴する意味でも必要だったかと思います。

◆    ◆    ◆

 こういう質問に対して「パーフェクトブルーはまったく新しいタイプのアニメーションであり、アニメーションのジャンルを広げるという意味で大きな役割を果たしえたと思う」などと胸を張って言えると私も商売人になれると思うのだが、いかんせん私は現実主義者で正直者だ。
 欧米の映画の役者やスタッフが、自作の宣伝でそうしたことを自信ありげに語っているのをよく見かけるが、大したものだと思う反面「あんな映画でよく胸を張れるな」などとも思う。自信なさげに語られても困るが、言葉が過ぎるのもいかがなものかと思う。いくら宣伝のためとはいってもやった以上のこと、せめてやったことの2割増以上は言わないの方が宜しい気がする。微妙なところだな、2割。
 
 Q12・この映画のビジュアルコンセプトは何ですか?
 

 A・ビジュアルコンセプト、という言葉の正確な意味合いを図りかねますが、色々な点で狙いはありました。
  その一つは画面で頑なにその存在を主張する、赤い色面でしょうか。ストーリー的には特に大きな意味はないのですが、主人公・未麻の性や血の象徴のつもりでした。抗えないもの、という意味です。
 「レイプシーン」のような暴力的な性描写はありましたが、主人公そのものの性描写は本作にはありません。本当は主人公・未麻自身の性的な描写、出来ればセックスシーンそのものを描いてみたいと思っていたのですが、残念ながら話に取り込むことが出来ませんでした。ですからそのイメージの残滓として画面に残っている、という感じでしょうか。
 主人公・未麻の部屋の描写というのも、作品の重要なムードを作っていると思います。生活感を出したかったわけです。他のアニメ作品に比べて煩雑な小物類の描写は多かったかと思います。その細かさはアニメーターには嫌がられましたが、確固としているはずの日常の象徴として、そうした“物”の描写は非常に重要でした。

◆    ◆    ◆

 ビジュアルコンセプトという言葉は一般的に認知されているのであろうか。単に字義通りに捕らえればよいのであろうか。よく分からないな。
 質問がいい加減なんだよ、まったく。もう少し具体的に聞いてくれると答えるのも楽なのだがなぁ。まぁそれでも国内のインタビューに比べれば遙かに具体的だし、面白い質問があったりするかしら。国内のインタビューがすべて印象が悪いわけでは勿論ないし、同じ日本語を介するだけにつっこんだ話になる場合もあったが、大体が大味な質問が多かったような気がする。「初めて監督して、どうでした?」的な質問が一番困るのだ。「どうでした?」って何が? 少しは考えて来いよ、能なしどもめ。
 ろくに質問を考えもしないでインタビューに来ているのだろうが、もう少し努力せんかい、と言いたくなることが多かったな。
 
 Q13・未麻や他のキャラクターの設定(絵柄)はどのようにして出来上がったのでしょうか?
 

 私が監督をオファーされた時点で、既にキャラクターデザイナーが決まっておりました。江口寿史という漫画家です。可愛らしい女の子を描くといわれる人ですが、普通の人々を描くとあまりに漫画的な絵柄になるので、バランスを取る必要がありました。作品の世界観を統一するためです。
 本作は最初からリアリティのある作品世界を目指していましたので、それを表現しうるキャラクターデザインでなければなりません。ただし本作品の営業的側面も考えまして、主人公とアイドルグループ“チャム”のメンバーの顔は、江口氏の絵に即してアニメーション用にデザインしました。氏の描く女の子のキャラクターは、日本では人気があるようです。
 もっとも主人公・未麻については“アイドルとしての顔”と“日常の顔”は、意識的に描き分けようとしました。前者は江口氏の絵により近い形で、可愛らしいお人形さん的なイメージです。もう一人の私として登場する未麻(私たちスタッフは、これをバーチャル未麻と呼んでいました)もそれに属します。つまり未麻がかぶっている“仮面”という意味合いでしょうか。
  一方“日常の顔”の方は、“仮面”を脱いでいる顔です。表情の作り方などを押さえ気味にして、少し地味な作りにしましたが、観客が特に意識するほどの違いではないかもしれません。
  その他のキャラクターのデザインは、基本的には作画監督の濱洲英喜氏と私の手によるものです。主人公に比べると地味な作りを心がけています。どこかにいそうな人の顔、というのが基本的なコンセプトです。
  しかしストーカー・内田は随分極端なデザインでした。何を考えているか分からないようなキャラクターにしたかったので、極力無表情にしました。特に表情を読みとれない、あの内田の目は、濱洲氏のアイディアで「羊のような目」をイメージしました。

◆    ◆    ◆

 ベースキャラクタークリエイトでも何でも良いが仕事しない人は迷惑なものだな。描かないなら全く描かないでくれると助かったのだが。
  さてキャラクターに限ったことではないのだが、最近よく思うのは初歩のリアリズム、といったことであろうか。漫画にしろアニメにしろ抽象化されてはいるが、元々は現実を元にして長い年月を掛けて構築されてきた「型」が大半を占めた世界である。
 「型」はものを見るときのある種のフィルターであり、例えば「可愛い女の子」を描く場合には「目が大きい」といった記号みたいなものである。しかし現実のいくら可愛いとされる女の子であっても、頭蓋骨の半分近くを占める眼窩を持っている人間はいない。それが可愛いと思えるセンスもいかがなものかと思うが、ともかくそんな人間は実際にいなくとも、そう描くことに誰も抵抗は感じない。「それはそういうものである」という頑強な思い込みというか刷り込みというか、それらの「型」を少しは疑った方がよいのではないのだろうか。
 リアリズムの初歩は自分の目でよくものを見、そして見たように描くということであろうか。まず対象物をよく見なくてはならない。ことアニメや漫画の絵に関してはそうした態度は失われていると言っても良いかもしれない。「型」から「型」を学び、更にはそれが劣化した「型」を生み出して行くサイクルはあまりに不毛に思われる。絵の技術の話ではない。技術を労する以前に、最低限自分の身の回りにあるものに対して向ける目を持っていないことが問題ではないかと思われる。
 形成されてきた「型」という記号を否定するわけではないし、商売である以上「型」に則らなければたち行かない側面もあるのだが、それでも少しは描き手自身を取り巻く環境に目を向けることが必要ではないか、と思うのである。まぁ一遍にすべてを覆すと商売にならなくなるので徐々にやるしかないとは思うけど。
  それとも巨大な目玉のオタク絵もすでに伝統芸能の域に入っているということなのかしら。
 
 Q14・未麻のメンタルな崩壊をビジュアルでどのように表現なさりたかったのでしょうか?(鏡に映った姿など
 
 A・映像作品において、鏡というモチーフはよく使われますね。非常に便利であります。様々な意味合いで使われる鏡ですが、本作では見てお分かりのように「二面性」という意味が一番多いかと思います。テレビやパソコンのモニターも同じ意味で使っております。
  “バーチャル未麻”は未麻の迷いが具現化したものといえます。未麻の鏡像です。鏡に映っていたはずの姿が、勝手に動き出したら怖いな、という私自身の思いがありましたので、それを効果的に使いたいと思っておりました。
  最初は小さなズレだった正像と鏡像が、次第にその差異を大きくしていく。本作はそのプロセスと、両者の対決という言い方もできると思います。そのずれていくプロセスが、そのまま未麻の内面での精神的葛藤ということです。

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 見りゃ分かるだろ、見りゃ。
  元々が漫画絵のキャラクターが登場する世界で、いかに描写を細かくし、写実的に描いたところで絵は絵である。そこにリアリティを構築する一つの手段として、ものとものとの関係を描写することが有効な方法ではなかろうか。
  「パーフェクトブルー」を例にすれば、未麻単体ではリアリティは薄弱だが、それが鏡に映った場合、実像と胸像の関係自体にはリアリティが発生する。人物が落とす影というのも同じように、物と物との関係にリアリティを発生させうる。実在感といっても良い。
 何も絵だけに限った話ではないし、作品に登場するキャラクター同士の関係にもそれは適用されるであろう。性格がデフォルメされていようとも、他者との関係にリアリティを求めることが出来るはずである。もっとも、元気が良くておっちょこちょい、頭の良いメガネッ子、気の強いショートヘア、みたいな定型化されたキャラではリアリティという言葉を使うこと自体が空しいし、その関係すら「型」として定着しているのかもしれない。それはそれで良いのであろうし、年輩の方が「水戸黄門」を安心して見られるのと同じで、そうしたプログラムピクチャーがもっとも需要が多いのかもしれない。年寄りも若者も「いつものやつ」が何より好きなのであろう。
  いずれにしろ商売をするには一般的に認知された「型」に則るのが無難な選択なのであろうが、そんなものなら作らない方がましだとも思える。
 
 Q15・未麻の可愛い、少女のようなステージ衣装で表現したかったことは何ですか?
 

 A・一言でいえば生活感の無さ。日常感覚、あるいは現実感の欠落ということかと思います。重さのない、ふわふわとした痛みのないイメージでしょうか。
  それを着る側は、着ることによって日常を切り捨てた存在として、ファンの前に立つわけです。やはりこれも“仮面”としての効果でしょう。またファンの側はそうした存在に対して、現実感覚の欠落した好意や憧れを持つのかと思われます。
  本来この「衣装を着る」という約束の上に成り立っていた、着る側と見る側の関係が曖昧になってきているという現状もあり、またそうした土壌を背景に先鋭化することでストーカー的なファンも出現してくるのではないかと思います。
 これはファンの側の一方的な問題ではなく、イメージを提供する側の商売という側面もあるわけです。つまりはプライベートを売り物にすることです。しかしこのプライベートはもちろん提供する側の意図に即した作り物であるわけです。ファンにとってプライベートに見えるように仕組まれたイメージ、ということです。
  さらに難しいのは、こうした作為すらも踏まえた上でファンは楽しんでいるわけで、そこには外部の人間が、にわかに理解できない関係があるような気がします。

◆    ◆    ◆

 変わった質問だな。分かったように答える方も答える方だ(笑)
  取りたててあの衣装で何かを表現するなどという気はなかったし、時代錯誤ではあるがアイドルいえばあんな物であろう、というまぁ一種の「型」だったのであるが、その「型」そのものがアメリカにはないのだろうから、不思議に映っても仕方がないのかもしれない。
  少数民族の中で定型化された「型」も、先進国に持って行けば「新しい文化」と認知されるパターンは幾たびも目にしておりますな。
 
 Q16・サイコホラー映画をどうして実写で作らなかったのですか? サイコホラー映画で、アニメーションでしか表現できない何かがあったのでしょうか?
 

 A・これもよく聞かれる質問ですね。なぜアニメーションで作ったのかといえば、私の元に企画が舞い込んだ時点で、既にアニメーションの企画であったからです。ほかに選択の余地はないのです。
 しかし、だからといってこの作品を実写で作っても上手くいかないと思います。生身の人間を使って映画を撮った時点で、この作品は普遍性を持てなくなるような気がします。特殊な人の身の上に起こった、変な出来事、といういたってチープな作品になりかねません。アイドルという浮ついたイメージを、セルを使ったアニメ的表現で描いていることが中和しているのではないかと思います。ですから本作で幾ばくか勝ち得たリアリティを、実写では手放すことになりかねません。
  もし同じテーマで実写を作るにしても、それはシナリオの段階から意識しないと良い物にはならないでしょうね。私にとっては最初から本作品はアニメーション作品だったわけです。
  それと単純に私が絵描きであるという理由もあります。私にとっての主な表現手段は「絵」でありますし、私が日本語を使うのと同じように、意図を伝える上で絵による表現に慣れているのです。絵が私の言葉なんですね。

◆    ◆    ◆

 絵の方が実写よりも「エッセンス」を伝えやすいと言えるかもしれない。というより、むしろ受け手側の方が提示されたエッセンスを拾いやすい、といった方が正確かも。
 見る側の質をとやかくいうのは問題があるかもしれないが、ネット上で交わされる多くの作品に対する議論や感想ともつかない批評などを目にするが、「いくらなんでもそういう見方は成り立たないのではないか」と思えるケースが多い。文部省的な表現でいえば「読解力」が著しく欠落しているのではないかという感想が多過ぎるのではないか。感想ならばまだ良いのだが、怖ろしく幼稚で浅薄な読解力でもって批評を展開している人の意見を目にする度に、観客の質という問題を考えてしまう。
  阿呆が高く評価する作品はやはり阿呆である場合も多い。ま、それも民主主義による多数派の正当性ということになるのであろうが。
 最近は大学生の著しい学力低下が問題にされている。偏差値至上主義は困りものだし、学力と教養、あるいは人間性はイコールではないにしても、知性や教養、倫理の基礎を築くには学校のお勉強の中での思考の訓練が重要かと思われる。例えそのお勉強が社会に出てから不要なものであったとしても。
 偏差値至上の詰め込み教育も、その反動としての最近のゆとり教育とやらも、結局は多面的な思考の出来ない歪な知性を大量生産しているのであろうか。教育を当てに出来ないことは教育されている時点でもおよそ想像がつくことかと思える。自助努力が何より大事かもしれない。
 
 Q17・声優さんはどのように緊密に関わられましたか? 特に未麻を演じた岩男潤子さんに関して。彼女は日本でとても人気があるとお聞きしましたが、岩男さんの個人的な体験が未麻を演じるのにプラスになったのでしょうか?
 

 A・声優さんは基本的にオーディションで選びました。音響監督に録ってもらったそのテープを聞いて、決めていきました。
  マネージャーのルミ役、松本梨香さんはすぐに決めたのですが、やはり未麻の声は色々と迷いました。
 20人くらいのオーディションテープを何度も繰り返して聞いたのですが、そのうち耳に残った岩男さんを選びました。彼女が元アイドルで、未麻とよく似た境遇だったことは、決めたあとで知りました。随分驚いたものです。彼女が人気のある声優だというのも私は知りませんでしたし、私が彼女を未麻役に選んだ理由は、オーディションテープを聞いた印象だけでした。
  彼女の過去の体験が未麻の境遇に相通じる部分があったことは、少なからぬ貢献をしたと思います。彼女自身この役を大事にしてくれたみたいですし、その思いが未麻というキャラクターに深みを持たせることになったと思います。

◆    ◆    ◆

 声優については本当に知識がない。音響監督の三間さんによるところが大きかった。
  声優さんの演技に質について云々する気はないが、これもまた従来までに定着してしまった「型」が強すぎることだけは言える。どの声を聞いてもさほどに差異は感じられないし、芝居はどれも同じような型であろうか。
  脱定型のアニメーションを目指すには声優にもそれが求められて行くことになるはずだ。誰も求めてないだろうけど。
 資金のある作品が声優に実写の役者を配したりするのは、単なる話題づくりだけではないことは間違いない。声優、特に売れている声優さんを起用すると、既存のアニメーションで形成されたイメージが強すぎて、先入観が強くなりすぎるのであろう。実写は実写でコマーシャルやバラエティに露出し定着されたイメージを持った役者が、いくら懸命に芝居をしたところで役のイメージよりは普段見慣れたイメージに拘束されるのと同じことであろうか。
  意地悪な見方とも言えるのだが、しかし、例えば佐藤浩市という役者が映画の中で苦悩しているシーンなんかを見ていると、つい思ってしまうのだ。「早く飲めよリゲイン」とか。
  これを見る側の質の低下というわけにも行くまい。ドラマや映画だけでは仕事が足りないという事情もあろうし、仕方のない側面は十分承知しているが、もう少し何とかならないのかしら。
 
 Q18・映画の最初の頃の未麻とその後の未麻の変化をどのように説明されますか?
 

 A・一言でいえば、本作は未麻の成長過程の、ある一部分を描いています。成長に伴う迷いと混沌が主なテーマです。
  成長のプロセスは、随分乱暴ないい方ですが次のようにいえると思います。破壊〜混沌〜建設。
  未麻は本作においてこの3段階の変化をしていると思います。
 最初の未麻は自分の意志で物事を決めることが出来ない、いわゆる子供じみた存在です。他人に褒められた部分にしか自身も責任も持つことが出来ないわけです。しかしこれはその時期なりに安定した気持ちでいられるわけです。それがアイドルから女優という転身によって「破壊」されることになります。「破壊される」と書きましたが、転身には未麻の意志も含まれています。
  第2段階は、本作の一番重要な部分である混沌の部分です。かつての安定していた場所から、未知の場所に分け入っていくときには、多かれ少なかれ不安がつきまといます。学生から社会人になるのと同じです。
  未麻の迷いはファンの反応などにより助長され、また身の回りで起こる犯罪によって大きく捻れ、混沌の度合いが深まっていきます。
  その混沌の底で出会うのは、かつての自分であります。これは居心地が良かった場所への回帰願望です。彼女はそれと対峙しなくてはなりません。それと対決するのが、先に述べた「建設」の入り口に当たる部分でしょうか。
  一番最後に出てくる未麻は、再びなにがしかの安定を得た未麻です。しかしその彼女にもこの先幾多の試練が訪れるであろうと思います。
 未麻が最後に口にするセリフ、「私は本物だよ」を、ルームミラーに映った姿で言わせたのは、彼女にとっての終着点がこの物語の終わりではないことを暗示したかったわけです。「本物の私」というのは、一生見つかるかどうかも分からないものですからね。いや、そんなものはあるわけないんです。それは他者との関係性においてのみ語られるべきものであると思っています。

◆    ◆    ◆

 未麻本人に対する感情移入は特にないし、決して魅力があるキャラクターとは思えない。そうしたことを目指したわけでもないし、私としては未麻が置かれた状況に感情移入していたという方が正確であろう。
  魅力のあるキャラクターを作れたら良いなぁ、という希望はあるが、キャラクター性の強さに依存しない作劇があっても良いのではないかとも思っている。まぁストーリー、キャラクターの双方の魅力を兼ね備えた作品を目指したいとは当然思っているわけだが。

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