1999年9月26日(日曜日)

一からげ



 サビオ、という名前をご存知であろうか。商品名である。
 子供の頃よくお世話になった代物で、いわゆるカットバンやバンドエイドのような傷口を保護する救急絆創膏であった。近頃はサビオという名前を見かけないし、サーチエンジンでもそれらしいヒットがなかったので消え去ってしまったのかもしれない。
 いつの頃から日本に登場した商品かは分からないが、私がまだごく子供の頃にはこの「サビオ」の類の商品は存在していなかったように思われる。傷の保護にはオロナインと包帯を用いるのが伝来の方法であった。
 それ以前に欧米などですでに存在していたのかどうかは分からないが、救急絆創膏の日本でのデビューは画期的であったろう。テレビのコマーシャルにも煽られ、それは急速に日本に広がっていったと思われる。こうした急激な普及には当然追随する製品が出てくるもので、実際次々とそうした商品が陳列棚に並んだように思われる。もちろんそれぞれに商品名は異なるのだが、しかし人々は最初に馴染んだ商品名をして一般名詞にすることが多い。
 つまり救急絆創膏の例でいえば、「救急絆創膏=サビオ」ということになり、薬局の店員に対して「サビオはどこですか?」ということになる。だからといってその客が必ずしもサビオを買うわけではなく、その近くに陳列してある「特価」などと赤札のついたサビオよりも安価なばったもんを買ったりするのである。同じ様なものなら安いに限る、ということだ。

 こうしたケースは数多く存在するのではなかろうか。
 その代表的な例といえば「セロテープ」であろう。
 「セロテープ」は立派な商品名であるにもかかわらず、粘着性のテープの総称になり得ている。商品名であるがゆえに、国営放送などにおいては使用が禁じられている名称であるのだが、おそらくはそうした製品の最初に登場したのがセロテープだったのではあるまいか。
 私が生業の一部とするアニメーション制作においては、セロテープもメンディングテープも使用するケースが多いので比較的区別して使われるが、ごく一般的な事務屋さん、それも高年齢であるほどそうした区別は皆無ではないかと思われる。
 「カップヌードル」は画期的な商品であった。
 「3分」という即席性と、およそ身体に好影響などあり得なさそうな含有物に彩られていたであろうその商品は現代社会を反映するかのようであった。当然追随する商品が雨後の竹の子のように顔を見せ始めたが、やはりそれらは「カップスター」であろうが何であろうが一括りにされ、「カップヌードル」という名で総称されたようである。今では「カップ麺」という総称が一般的であろうが、まったく同じ意味で「カップヌードル」という言葉が使用されていたわけだ。
 「キムコ」などもその代表的な例であろうか。冷蔵庫の脱臭剤はすべて「キムコ」であった。「ママレモン」、「ブルーレット」、「バスクリン」などもやはりそうした商品名が類似商品の代名詞になった時期もあろう。こうした事例は家庭用品に多く見られるのではなかろうか。家事向きを司るのは奥様の役目。
 家庭内に収まり家事向きに専念する奥様は、年齢を問わず「オバサン化」が進行する。オバサンは固有名詞を覚えるのが苦手である。「オバサンシンドローム」というべきか。オジサンも無論のことであるが、かつて少年だったオジサンはいくらか軽度であるといえる。かつての少年は多分に分類が好きで、固有名詞を覚えることにマニアックな美学を感じた時期があるはずだ。オジサンの恥ずかしい誤謬などが得てしてやり玉に挙げられるのは単に若い娘の文化を知らない、という点で目立ってしまうからに他ならない。

 「オバサンシンドローム」、長いので「オバシン」と略すことにする。このオバシンに罹患すると、宇宙戦艦などはどれも「ヤマト」ということになり、ロボットは「鉄人」であり「マジンガー」であり、年が下れば「ガンダム」というあたりになろうか。
 かくいう私が遙か高校生だった昔、母に言わせると電子音楽の類は一まとめにして「YMO」ということになり、例え私がどんなテクノを聞いていようがそうした音楽はすべて「YMOかい?」、ということになり、紅顔ニキビの若者は少しばかり力を込めて答えるのであった。
 「違うって、これは……」
 歳を食うと、門外漢のそうしたコメントに対しても、笑って「その通り。よく知ってるね」などと平気で答えられるようになるが、精神が尖っている若い時分にはそうした些細な間違いを許せなかったりするものであろうか。

 今ではすっかりオジサン世界に片足以上突っ込んだ私としては、いつの間にかオバシンに侵されつつある我が身を自嘲することしきりである。固有名詞が貧困になってきている。
 特に、続々とモニターに現れてくる芸能人だの歌手の類はからきし苦手になってくるし、名前を覚える間もなく消えて行くことも多く、世間を一時にぎわせた人をまったく知らないなど日常茶飯である。無論そうしたことに対する興味が著しく、というよりほとんど失われてきたということもあるが、だいたい何と読むのか分からないバンド名なども多いではないか。
 最近もまだ一線にいるのかどうか知らないが、「THE虎舞竜」とかいうバンドがいたように思う。街角のポスターか何かに書かれたその文字の配列を見かけたことはあった。その名を人前で口にすることはなかったが、何かの話の折りに「最近、“とらぶりゅう”って流行っているじゃない?」とか言われて一体何の事やらと思い、「へえそう。知らないなぁ、オジサンは」などと自嘲気味な会話を続けていたのだが、しばらくしてそれが「THE虎舞竜」であることが判明しちょっと驚いた。私は何の迷いもなく「こぶら」と読んでいたのである。口にしなくて良かった。普通に考えても「竜」を「ら」と読むあたりに、メガな無理があるが、最初にその文字の配列を一瞥してすぐにそう思ってしまったのである。勝手な思い込みもまたオバシンの一つであろうか。自分の都合だけで物事を認識し始めるのは重度のオバシンである。

 名前を認識してこそ浮き世の存在は定着されるものであるが、いかんせん固有名詞の貧困なオバシン罹患者にとっては大雑把な括りでしか対象物を見ないせいか、その対象が漠然と存在するものでしかなくなってくる。いても、いないのと同じなのである。要はどうでもいい。どうでもいいことに対して有限の大脳活動や記憶容量を無駄には出来ず、世間を賑わす景物に一々分類のための固有名詞は不要ということになるのであろう。自然、オバシン罹患者の口から発する言葉に増えてくるのが「みたい」という助詞である。無論これは昨今の若者のだらしない言葉の代表格、「……っていうか、みたいなぁ」の「みたい」とはニュアンスを異にする。どちらかといえば「〜系」に近い。
 「“SMAPみたい”なの」
 テレビに映る「若い男子のグループ」は固有名詞を知らない以上こうした括りになる。私なども「コムロ」みたいな音楽で「グループ」は全部「“TRFみたい”なの」という認識である。それで困った覚えもないが、かつての母の「電子音楽はすべてYMO」となんの違いもないことに気が付き失笑してしまう。歳を取るとはそういうことか。

 ごく一般的に我々は「虹」というのは7色として認識している。しかしたとえばアフリカの、西欧的な意味での未開のある民族にとっては5色であったりするらしい。
 岩波国語辞典によれば「七色」とは「赤・だいだい・黄・緑・青・あい・紫」とされるが、それが5色になるということは個々の色を感知できないといった肉体的な差異が無論あるわけではなく、それに対応する言葉を持っていないということであろう。詳しくは知らないが、例えば「だいだい」という名詞を持たなければ「黄色に近い赤」といった認識になる。我々の目には「だいだい」であってもそうした認識の下では黄色に近くても赤は赤、ということになり、同様に「あい」が「濃い青」ということになればすでに5色になるわけだ。さらに言葉が未分化であれば虹は「赤、黄、青」の3色ということにもなろう。
 逆にいえば対応する言葉を多く持っていれば虹は16色にでも256色にもなるわけで、何事も細分化を好む現代ではややこしい識別やジャンル分けが進み、記憶力が低下して行く一方の年寄りには気の毒である。私も他人事ではない。

 先日当掲示板で話題になった「あなたの大人度チェック」によると、何度かのトライアルの結果、最終的に私は「精神年齢は50歳」ということに落ち着いた。
 「精神年齢は完全に『中年』」であり、「それどころか『初老』の兆しが見え始めて」いるのだそうな。然り。思い当たる節が多い。「幼稚度12%」「大人度79%」「ご老人度64%」だそうで、挙げ句に「70歳のご老人なみにおじいちゃんっぽさがあります。こうなったからにはのんびり人生を楽しみましょう」とまで言われる始末である。
 そんな私が激流のようなスピードで変転する世の中を見回せば、七色のはずも虹も5色、いや3色ほどになるのもやむを得ない。

 歌って踊りまくるような若くて黒い娘はすべて「アムロ」。白ければ「トモチャン」だったが、それも今は昔。今なら差詰め「浜崎あゆみ」あたりだろうか。これが複数のグループなるとすべからく「スピード」。「スピード」を覚える前は「グループのアムロ」。言葉は便利である。
 だるい声の若い娘の歌い手さんはみな「ウタダヒカル」に統一されるし、赤だの青だの髪の毛のキャラが出てくるアニメは「A.I.C.みたいなの」といった具合に編入され統合されている。興味の対象外の領域においては甚だしい解像度の低下である。立派な視野狭窄である。
 一時、コマーシャルに出てくる「ショートヘアの若い娘」はすべて「ヒロスエ」という認識であったが、さすがにその名の通り末広のレンズの効果みたいな顔の「ヒロスエ」は今では「広末涼子」と識別するに至っている。至ったからどうだという問題もあるがそれはさておき。
 今でこそ「なっちゃん」も「田中麗奈」として好ましく識別しているが、出てきた当初においては「ヒロスエ2号」とか「ブラックヒロスエ」といった大変失礼な認識であった。
 コマーシャルで「いい女ぶりを振りまいている気になっている」のは「フジワラノリカ」あたりなのだろうが、私はいまだにフジワラノリカの識別に難儀している。私がこの名を口にするときは常に「?」が付帯する。「フジワラノリカ?」

 そんな私である。無論若い娘さんのファッション事情などろくに知るわけもなく、最近は「厚底サンダル」が流行っているな、くらいの認識である。しかしこの呼び名は正しいのであろうか。「厚底サンダル」という総称はニュース番組で取り上げられたときにそう呼ばれていたのだが、本当はもっとお洒落な正式名称があるかもしれないなどと疑いを感じている。何というか、もっと「おフレンチ」な名称とかあるのではないかとも思うのだが、私は勝手に「ガンダムサンダル」と命名している。
 この新兵器「ガンダムサンダル」は、見た目にも怖ろしく危なげに見えるし、実際ニュースでも指摘されていたが「ガンダムサンダル」の流行に伴い、捻挫、骨折で都内の外科を訪ねる若い娘さんも増えているのだそうな。先日のニュースでは「ガンダムサンダル」が原因とみられる死者まで出たとか。殺人事件ではないか、と不審死を調べていた警察が調べた結果、「ガンダムサンダル」によってバランスを失い、転倒し頭部を強打したとかで「単独の事故死」であったらしい。親が気の毒である。
 「ガンダムサンダル」に乗ることによって「足が長く見えてかっこいい」という利点が、99年制式採用を決定した娘さん達の言い分らしいが、しかし「ガンダムサンダル」を装着した上での歩行の姿はおよそ「かっこいい」からはほど遠い様であるように思える。歩きのフォームが怖ろしくみっともないことになっている。最近のHONDAのコマーシャルに二足歩行するロボットが登場しているが、あの歩行よりも無様にすら思える。「ガンダムサンダル」による無様な歩行の様は、低下する若い方の常識や倫理と、日本語能力の稚拙さをも顕著に象徴しているようにすら思えてくる。
 こんなことを書くこと自体がオッサンくさいのだろうが、世間では「オジサン臭を消す香水」の類も出回っているということなので、前途は明るい。そんなわけあるか。
 別にオバシンに罹患しようが、オッサン化しようが悪いことがあるもんか。
 
 さてさて曖昧な認識の話の続き。
 冗談ではなく前述した程度の「十把一からげ」的認識の人も多いのではなかろうか。もしかして私だけか。否、そんなはずはない。
 しかしこうした大括りに使われる固有名詞に対しても、知っているというだけで正確な認識があるというわけでは勿論なく、「スピード」も4人構成であることは薄々知っていても、その個々の名前や顔の認識までは当然できるはずもなく、単品で提示されると途端に「若い娘さん」という非常に大雑把な認識になってしまうであろう。少なくとも私はその程度である。
 ともかく「サビオ」や「バスクリン」などと同じく、先駆けになったものは当然人の口の端に上る機会も多くなり、自然知名度は飛躍的に増大するのであろう。昨今のブームの傾向といわれる「一人勝ち現象」も案外こうした事情が背景にあるのではなかろうか。人々の認識が現在の細分化に到底追いつかなくなってきていることの現れではないのか。下らないこの駄文で何を偉そうな考察をしているのか。

 先程の「THE虎舞竜」同様、微かに知っていると、知らないよりまだひどいことになることも多々ある。先日テレビのコマーシャルに、最近ではとんと見かけなくなった若い娘さんが出ていた。ふと頭に浮かんだ名前が「ともかさりえ」。「ともかさりえ」……?反問すること1+0秒を要した。
 さすがに口にはしなかったが、言葉にするときはちょっと冷や冷やした。
 「ともさかりえ、だっけ」
 「モーニング娘」なるものも、私はどこでどう間違ったものか「モーニング隊」と思い込んでいたこともある。無論、人前で口にはしなかった。セーフ。
 私はその「モーニング娘」とやらの出自をほとんど知らなかったため、「テレビ番組」「素人の若い娘さんたち」「企画もの」「モーニング」という断片的なイメージから、勝手な思い込みをしたらしい。
 「きっと、キャピキャピしたギャルたちが、素人の視聴者の若い男の家に朝早くに、無断を装って突撃して目を覚まさせるのであろう。起こされた男も若いギャルのお色気にウハウハ」
 よって、「モーニング隊」。
 思い込みにも程がある。

 そうした曖昧な、あるいは勝手きままな記憶の反面、子供の頃に刷り込まれた固有名詞は不要になったにもかかわらず覚えているのがちょっと悲しい。これから先の人生において、一体どういう局面において「バビル2世」の三つのしもべの名前が必要になるというのであろうか。
 「なんじゃ、最近の若い者はそんなことも知らんのか。情けないのう。三つのしもべといえばロデム、ロプロス、ポセイドンじゃ」
 「わぁ、さすがぁ」
 「ロプロスは最初皮に覆われておったが、後にそれが剥がれ金属の表面がむき出しになったのじゃゾ。試験に出やすいところじゃ、注意するがいい」
 「博識ですねぇ」
 どこがだ。
 「W3」の三匹の動物が実は宇宙人だということや、さらにはそれがボッコ、ブッコ、ノッコなどという暢気な名前であることがいつ必要になるのだろうか。「ドメル艦隊」だの「反射衛星砲」だのや「イセリナ・エッシェンバッハ」も「アッザムリーダー」もすべて不要な単語だというのに、私の辞書からなかなか消えてなくならない。いかん。こうして羅列なんかしていると記憶がより確かになって行くではないか。
 有限の脳味噌の不要物を簡単に捨てられることが出来ればどんなにか便利であろうに。

 またしてもとりとめのない文章になっている。
 いつものことだが何事かを語ろうとして書き始めたわけでもないので、さしたる結論などは導き出しようもないが、ここまでの記述に多少なりとも首肯する部分のあった貴方ならば、近頃話題の訴訟事件に対する見解も私と似たようなものではなかろうか。
 「ほうらヨシオ、お前が前から欲しがっていたアイマックが届いたよ」
 「うわぁ!!やったぁ!!ありがとうお母さん!!」
 勇んで玄関に宅配便を迎えた子供の驚喜の顔は固まり、一瞬にして怒りに変わる。
 「e-oneじゃんか、これ! 何でパチもん買って来るんだよ!!」
 オバサンの目から見れば「ツートンカラーのコンピュータ」はどれもが「アイマック」という認識になるのは間違いない。
 よってオバサンの判断ではソーテックの負けである。

 「iMacとe-oneじゃ全然違うじゃんか!」
 ヨシオは口をとんがらせて猛烈な抗議を続けるであろう。
 「バカじゃネェの!!すぐ返してきてよ!!」
 「だって……お母さんには同じに見えたんだもの……」
 想像するだに胸が痛くなる。可哀想なお母さん。
 悲劇が起こらないことを祈る。

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