1999年10月14日(木曜日)

番外編 – その2



 思惑通りだ。期待通りに物事が進むとキーボードを打つ指も高らかにリズムを刻むというもの。
 リアクションである。
 第一回目の「ホームページを作ろう(笑)番外編」で取り上げた、まだ海のものとも山のものとも分からないような「オランウータン」のネタを振ったが、早速リアクションがあったので、すかさず紹介させてもらおう。世はインタラクティブである。
 差出人は誰あろう、元ネタとなったメールをくれたA君である。
 前回A君の人格について「HPを開設したにもかかわらず私にその所在を明かさないという不義理」と書いたところ、不肖私の誕生日のお祝いの言葉と共に、すぐさまその所在を知らせてくれた。
 「金もなければアイデアもない、ないないづくしの僕からささやかではありますが監督に誕生日プレゼント」がそのURLなんだそうで、実に嬉しいプレゼントである。
 早速見に行ったが、なかなかテキストが充実したHPで、読んでいて楽しい内容である。興味のある方は是非行かれたい。面白いぞ。

 「極寒の朝風呂派万国博」 http://www.jttk.zaq.ne.jp/staytune/

 ……しかし、どういうタイトルなんだ、「極寒の朝風呂派」……。
 極寒という厳しい現実に直面した時は心地の良い朝風呂に逃げ込んでどっぷりと浸かる、という現代若者気質を表現しているのであろうか?
 しかもそれが「万国博」というんだから、現代のナイーブな若者達が集う楽天地なのだろうか。
 冗談だ。

>アドレスにある「staytune」とは監督に以前頂いたメールの題名で、「やりたい
>ことをとにかくやり続けてみろ」という内容だったのがひどく印象に残っていた
>ので使わせていただきました。

 ほぉ、感心感心。心がけ非常に宜しい。けど……そんなこと書いたかな、俺。ま、いいけど。
 彼のHPを見る限り、特にハンドルネームや変名を使うこともなく、堂々と本名を名乗っているようなので、当ページにおいて特に匿名にする必要もないのかもしれないが、やはり漠然とした匿名性の方が本稿には適切に思えるので「A君」として続ける。

 さて、本題である。

>紅茶の席での与太話にもならなかった話題を拾い上げていただいてびっくりする
>やらうれしいやらです。ちょっとした発想の転換なのに、そこが素人には難しい
>んですね。まず形から入ろうとするので尾ひればかりが広がり、肝心なところが
>カラッポになってしまう。

>>禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解するオラン
>ウータンであった

>あの場では密輸品そのものばかりを取り上げ、そのディテールは型にはまったも
>のしか思い浮かべられませんでした。もしあの時の僕がこの発想を得ていたら、
>そのオランウータンが逃げだし東京中を逃げ回り一時は八王子を騒然とさせる事
>件に発展させるか、または自己啓発セミナーに入れて自分探しの旅をさせるか、
>はたまたウォークマンのCMに起用し人気の出たところで警察署の一日所長にさ
>せるか・・・・・、あぁ、ダメだ、想像力の限界を感じる・・・・・・。

 「想像力の限界を感じる」以前に本気でアイディアを考えているのだろうか(笑)。何はなくともまず笑いを取ろうとするあたりは正統な関西人の遺伝子のなせる技なのか。
 上記それぞれのアイディアの中身はひとまずおくとして、具体的な形を取るだけであれこれと思い付きが出てくるわけだ。良い良い。アイディアを出しやすい形にすることも大事なのである。高邁なテーマを掲げようが、アイディアが生まれてこないのでは看板倒れである。
 思い付きは冗談でも良いのだ。というより冗談の方が面白い。冗談を重ねてネタに対する距離を縮め、自分を乗せることで発想は楽になり、ネタの間口も広がるというもの。冗談も絡ませられないような元ネタでは、ネタの成長は期待できない。

>そもそも、人語を解するだけでオランウータンはオランウータンなのだというと
>こがポイントですよね。オランウータンと言えば「手が長い」ですよね。ならば
>こういうのはいかがでしょうか。

 う〜ん、もっとも肝心な「人語を解する」という唯一手掛かりになりそうなファクターを置き去りにして「手が長い」ことだけに目を向けるとは、人の気を知らない男だなA君は(笑)

>「輸入禁止のはずのオランウータン(名前を仮に『オータム』とします)が脱走
>し、首相官邸に閉じこもる。人語を解するオランウータンは首相を人質に取っ
>た。要求はただ一つ。『西暦2000年に発行される2000円札の透かしにオ
>ランウータンを採用せよ』。混乱するマスコミ、金で解決しようとする官僚達。
>すべてが混乱に包まれ、オランウータンの透かしが避けられない事態になろうと
>した時、オランウータンから一つの妥協案が出された。『オータムにかるた取り
>で勝負し、もし負ければあきらめよう』。「かっ、かるた取り!?」ざわめく国
>民。即刻非常事態宣言が発令され、日本中からかるた取りの名人が集められ、精
>鋭中の精鋭達がオランウータンに勝負を挑んだ。しかしオランウータンは手が長
>い。同じ判断力をもってしても、そのリーチの差によりいつもすんでのところで
>かるたは一枚、また一枚と奪われていく。もはや2000円札に未来はないのか
>と思われたその時、一筋の光がさしこんだ・・・。「次号、『人類最後の切り
>札、マジックハンドという凶器』乞うご期待!!」だめかなぁ・・・。

 ギャハハハハ。
 時事ネタを絡めればよいというものではないだろう(笑)
 いかに冗談とはいっても、作品化することを前提にした冗談を考えた方が面白かろう。現在の旬は完成した先の時代遅れに間違いない。あまたの映画、特に大味な日本映画においてそうした「寒い」失敗も多いように思われる。
 それにしても「かるた」じゃなぁ。何ともなぁ……。「だめかなぁ・・・」って、だめだろう、やっぱり(笑)
 ただし、例えばここでは「オランウータンは手が長い」ということになるが、登場する者や物の特質をよく検討するのは常套手段である。そうしたことを利用したエピソードや演出は気が利いている。
 「人語を解するオランウータンは首相を人質に取っ」て、無謀な要求をするか。育ちそうにもないアイディアだが、ふとあの映画を思い出した。何だっけ…… あ、まずい記憶が欠落……あ、思い出した。「太陽を盗んだ男」だ。知っている若者はいようか。沢田ジュリー研二主演、監督は長谷川和彦であったか。シナリオがレナード・シュレイダーじゃなかったかな。レンタルビデオで見かけたことがないのだが、ビデオ化されてないのであろうか。
 高校生の頃に見たのだが、学校の教師がプルトニウムだかウランだかを盗んで手製の原子爆弾を作り、政府に無茶な要求をしたりするのであったか。「巨人阪神線を最後まで放送しろ」とか「麻薬所持で入国できなかったロックバンドを来日させろ」、そんなんだったかな。記憶はいいかげんだが、面白い映画だったと思う。犯人が沢田研二で、それを追う刑事が菅原文太だったか。
 ご存知の方はお有りか。
 毎度のことながら話が横滑りしっぱなしである。
 折角このオランウータンに名付けがされたので、以後は「オータム」としよう。A君がゴッドファーザーである。
 しかし何か意味があるのだろうか、「オータム」。オータム、autumn、秋…………飽き?
 「飽き」が来るという暗喩か。失敬な。私はまだ飽きてはいないので、こざかしい抗議は無視して続ける。「春夏冬」だ。何か飲み屋の張り紙みたいだな。「春夏冬」と書いて、「秋無い」転じて「商い」とか「飽きない」と読ませるのがよくある。「二合五合」で「マス、マス、半升」で「益々繁盛」、「一升五合」で「一生繁盛」とか読ませるのであったか。何か飲み屋のオッサンだな。ま、いい。

>「NOTEBOOK」に取り上げていただいたのがあんまりびっくり嬉しかったので、思
>わず思いつきを書いてしまいました。

 うん。私もリアクションをもらったのが嬉しかったので、思い付きで取り上げさせてもらった。
 インタラクティブである。
 それはいいのだが、こうして話題をあちらこちらと転じているうちに「ホームページを作ろう(笑)番外編」の本来の航路は遙か彼岸に遠のいてしまった感すらある。いつになったら辿り着けるのであろうか。海流渦巻くテキストの海で漂流しそうである。
 さて、「ホームページを作ろう(笑)番外編」の本筋、いや、本筋にまだ辿り着く前の前哨戦、件のヨタ話の続きである。

【禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解するオランウータンであった】

 この一文から賢明な読者諸氏においてはいかなる話を想起されるであろうか。よもや「かるた合戦」などが想起される愉快なセンスをお持ちの方ばかりではあるまい。
 「人語を解する」というあたりに動物と人間の交流がまず想起される。月並みだが、そうである。暗いムードの作品が好みならばオランウータンの視点で人間が以下に自然に対してひどい真似をしているか、という警鐘と絶望を描くこともできようか。
 そうしたことを踏まえつつも、ここは明るく考えて行きたい。
 「動物と人間の交流」というパターンである。このパターンは過去の映画にも多くその例を求められようか。「イルカの日」などはその代表か。これも人語を解するイルカが登場する映画であったな。「ベン」はネズミであったか。人間と意思を疎通できるような動物、特に犬が出てくる作品などは特に多かろう。
 映画化された作品は観ていないが、デーン・R・クーンツの小説「ウォッチャーズ」には非常に賢しいゴールデンレトリーバーが登場した。やはり映画は観ていないがマイケル・クライトンの「失われた黄金都市」(映画のタイトルは原題通りの“CONGO”)には、手話で人間とコミュニケーションを結ぶゴリラが冒険の水先案内のような役を果たしたように記憶している。映画版の方がどうやってゴリラに演技させていたのだろうか。
 ともかく動物との交流は楽しく嬉しい、というのが常らしい。動物なんざ何考えているか分かったものじゃないってのに、人間様は自己中心的かつ呑気なものである。餌をくれるからなついているように見えるだけではないのか。ま、それはいい。私も動物は好きな方だ。
 ともかく動物との交流は「善きもの」という認識にする。「心温まる」などというとびきりこそばゆい形容が似合いの筈だ。「心温まる交流」ということになると、それはもうオランウータンは「子供」に相違ない。というより密輸される対象は幼体と相場が決まっている、らしい。
 「人間と動物の心温まる交流」が中核をなすモチーフであるとすれば、お話の前半では、まず「それが無い」という状態にしておくのがパターンであろうか。お話作りの簡単な構造論だ。無かったものが生まれれば大きな変化である。
 「交流が生まれる」と考えるわけだ。無かったものが発生することで少しばかり話めいてこようか。と、いうことは密輸を頼まれた業者はまず「悪徳」でなければなるまい。
 動物との交流など思いもよらないような、動物を単なる金儲けの材料としか考えていない人間を設定する。そんなやつが後に「人間と動物の心温まる交流」をすれば、俗っぽいがドラマチックではあろう。イメージは伸張されなければならない。
 エンターテインメント、というよりお話に不可欠なのはこうした「反転」である。先に上げた「変化」といっても良いわけだが、その変化の中でも特に強いのが反転といえる。お話というのは、ある状態のものが別な状態に変化するその過程、あるいはいかに変化しないかという過程を表すものである。その過程が多くの人間を納得させたり、感じ入らせたりすれば「面白い」ということになるわけだ。
 もちろんそうしたオーソドックスなパターンを踏まえた上でそれを外して行くのもまた一つのパターンであり、「色々なことがあってなにがしか変わりそうであったにもかかわらず、結局何も変わらなかった」という描き方も出来よう。現実的には人間はそう都合良く変われるものではないのだから、リアルな考え方ともいえる。

 さて密輸業者とオランウータン。何故両者に交流が生まれるかといえば、そこは何といっても「人語を解するオランウータン」である。
 しかしそれだけでは弱い。金儲け主義の密輸業者はその珍しい個体という、願ってもない幸運を見せ物にするか破格な値段で売りつけるに違いない。どうしようか。これもパターンをはめてみる。主人公の密輸業者がオランウータンとのコミュニケーションを深めざるをえない人物的背景を設定しよう。
 男は、そう、悪徳業者の主人公は「男」という設定にしよう、彼は今でこそ悪徳密輸業に手を染めているが、かつては善良な男であり、善き家庭人であり善き父親であった、としよう。根っからの悪人では話が陰惨である。悪人なんだが善い人、というグッドバッドガイである。単に「グッドバッドガイと子供」というパターンを考えるなら、古くはジョン・フォードの「三人の名付け親」も確かそうであったと思うが、多くの映画にもその手本は求められようか。いい年をこいたオッサン、それも悪党と無邪気な子供の取り合わせは、まぁいい素材ではある。オッサンではなくオバサンが、無理矢理子供を押しつけられ辟易した後交流が生まれるというケースではジョン・カサヴェテスの傑作「グロリア」も想起される。近頃この映画がリメイクされたようだが、主演がシャロン・ストーンというのは如何なものか。だったらオリジナルの作品を作るが良かろうに。台無しにしないでもらいたい。

 男は過去に何かの事件か事故か病気か何かで、最愛の子供を失ってしまい、それ以後人間がすさんでしまった、とする。幼い一人息子を失った、としようか。この時点で密輸するオランウータンは「オス」に決まる。見え見えの魂胆である。
 そして一足早いが、A君によって「オータム」と名付けられた。以後とする。
 人語を解するオランウータンの子供「オータム」に、彼が自分の子供を投影するようなシチュエーションを拵えておくわけだ。……ああ、何か汚い「大人の技術」だなぁ。自戒。

【悪徳で名高い密輸業の男が禁制動物オランウータンの密輸を頼まれるのだが、それは人語を解する子供のオランウータンであった。動物に対して一片の愛着も見せなかった男と「オータム」という名のオランウータンの間に次第に交流が生まれる】

 どんなものであろうか。
 これじゃあ、まだ話の態をなしていない。「交流が生まれる」というのは一見話しめいているが、どちらかといえば演出に近い部分であり、「交流が生まれた結果、彼らが何をするのか」が話の流れになる。設定を積み重ねても話は出来ない。
 無論、「交流」そのものに眼目をおいて、そのディテールにエンターテインメントを求めることもできるが、ここはもう少しバカな方向に船を進める。よーそろ。
 さて、何をすることにしようか。

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