2001年10月18日(木曜日)

19-71



  先日の12日をもって私は確か……3……8歳……になった。立派な大人だ。
 その筈なのだが、どうにもそうは思えない。相も変わらず、つくづく落ち着きのない人間であることよ、ほっほっほ、と自戒してばかりの日々である。
 20年前、あるいは30年前の自分が想像する38歳は少なくともこんな姿ではなかったはずだ。もっとこう……何というか、もっとちゃんとした大人のイメージだった筈だ。

 かっこいい人になりたかった。
 決して「格好良い」でも「格好いい」でもない。どちらかといえば「カッコイイ」いや「カックイイ」かもしれない。しかしカタカナでは軽薄なイメージが付帯する。
 やはり「かっこいい」である。否定形は「かっこいくない」。
 北海道弁のせいである。
 北海道では「良くない」ではなく「いくない」が鉄則であり、上級者は「いぐない」と使いこなす。
 昔高校時代の先輩が大学生の折りに乗っていたトヨタ・カリーナのナンバーが
 「19-71」
 であった。よりにもよって何故道産子にそのナンバーを与えるのか。
 かっこ、いくない。
 駄洒落や方言一口メモはともかく。
 
 かっこいい。
 子供の頃のみならずいい年をした大人になっていたって誰でも憧れるはずである。これを読んでいるあなただってかっこいくなりたいと幾度も思ったはずだ。
 憧れれば自分もそうなろうとしてみるのが人情である。
 何しろかっこいい人は何をしてもかっこいいのだ。仕事をしているときは勿論のこと、異性にもてるとか服装がおしゃれだとかそんなことだけではない。日常動作のどれ一つ取ってもかっこいいのだ。
 普通の人なら間抜けに見える歯ブラシを銜えた様だろうが、顔を洗った後タオルで水を拭う姿だってかっこいいし、服を着替える姿だって様になるのだ。ボタンの掛け違いなんかしないし、パンツの裏表だって絶対に間違わない。急いでズボンをはこうとして、中で足が引っかかってバランスを崩して痛い目を見たりもしないのだ。よしんばそうなったところで対処の仕方がかっこいいに決まっているのだ。
 駅の自動券売機で皺になった千円札が何度戻されてしまうときだって、その対処の仕方は凡人とは違ってかっこいいのだ。
 「ンだよ!?こいつは」なんて悪態を付いたりしないし、ましてやムキになって何度も突っ込んだりした挙げ句に、結局「……ウィ〜ン」なんてベロみたいに垂れ下がっちゃうお札を前に呆然としたりしないのだ。
 じゃあそんなときどうすればかっこいいのか。
 そのことすら私なんかには分からない。きっとかっこいい人なら駅のホームで牛乳を飲む姿だって……いや、かっこいい人はホームで牛乳を飲んだりしない。十中八九、しない。
 お風呂掃除をしていて不意に熱いシャワーをかぶるなんてかっこいくないことはきっとないだろうし、うっかりくしゃみをして手のひらに異様な物体を見ることだってないのだ。万が一そんな事態に陥ってもその異様な、クラゲの一部みたいな物体の処置に困って手を握り続けるなんてかっこいくないことはないのだ。
 野球解説などで「本当のファインプレーというのは先を予測して危なげないプレーをすることだ」と言われるが、きっとかっこいい人はそういうものなんだろう。 
 かっこいい人は基本がかっこいいから何をしてもかっこいいのだ。
 随分以前のことだがミュージシャンがたくさん集って酒を飲んでいる場所に居合わせたことがある。松任谷由美や井上陽水もいたのだ。何故私がそんな場所に居合わせたのかはともかく、私が然るべき場所で用便に及んでいるとノックが聞こえる。
 「まだですかぁ」
 随分酔っぱらってような声である。待たせてはいけないと思って速やかに用を済ませて出てみると、黒眼鏡の井上陽水氏が口元に緩い笑みを浮かべて立っていた。
 何かかっこいいのである。
 酔っぱらっていたように思えた声は陽水氏のあの口調なのであった。しかもトイレに入れ替わりに入りしな陽水氏は言うのである。
 「すいませェん」
 やっぱりかっこいいのだ。
 ちょっとノックされたくらいで用便を急いでしまう私はかっこいくないのであった。

 私はすでにあきらめている。かっこいい人になることを。
 なりたくないわけでは無論なく、そうはなれないことを身に滲みに知ってしまったのだ。だからといってかっこわるいままに生きて行くつもりはないのだが、己のあり方は変えられないし、無駄にあがくこともないというだけだ。
 「しゃあない」というやつである。
 例えばそれは私が小学校にもまだ上がる前。
 当時の私にとってかっこいいのはキィハンターの千葉真一だった。あくまで「キィハンター」の、である。野際陽子にカレーを作ってもらって喜んでいる千葉真一でもなければ、ましてやラビット関根……もとい、関根勤の物真似による千葉真一でもない。
 とにかく当時はかっこいく見えたのだ。ある日学校から帰ってきた兄が驚くべきことを口にした。
 「今日わいやよ。(※わいや。方言である。「大変」の意)学校のグラウンドにヘリコプターから千葉真一が降りてきたさ!」
 「ホント!?ホント!?なしてさ(※「何で」の意)!?」
 「キィハンターのロケよ」
 私は本気で大はしゃぎである。そばにいた母が見かねて言うのである。
 「ウソだぁ」
 ああ、なんてかっこわるいのだ。
 こんな他愛もないウソに手もなくかつがれるのは、いかに年端の行かぬ子供といえどかっこわるすぎる。ダメだ。全然ダメだ。ましてやかっこいくなりたいと心がけているはずなのに。
 かっこいい人はウソなんかすぐに見抜くからこそかっこいいのだ。
 それにしても、何とも心ない兄である。

 やはりそれも幼稚園のころであったか。
 幼稚園児がバッグを斜めにかけるのはかっこいくない。ショルダーバッグのように片方の肩にかけるのがかっこいいのだ。たとえ先生に引率されてカルガモのように歩く集団の中にいたってかっこいさを主張したかったのだ。だが、優しい熊谷先生はそんなこととは露知らず私のバッグを斜めにかけ直してしまうのだ。
 「落としちゃうよ」
 ああ、かっこいくない。
 
 例えばそれは小学生の頃。
 かっこいい人は声が低い。真似を試みるべくまず声を低くしてみる。かっこいい人は決してかん高い声で喋らないのだ。異論はあろうが断じてそうだ。早口もダメだ。おしゃべりなんてもっとダメだ。迂闊にも声が裏返るなんて言語道断だ。低く良く通る声で落ち着いて話してこそかっこいいのだ。多分。
 3分が関の山である。意識的に声を低くして発声してもそれはわずか3分でその目論見は霧散してしまうのである。つまらない友達のギャグによって引き起こされてしまう笑い、それも迂闊にも思い切り裏返った笑いによって。変声期も迎えない子供には土台無謀な挑戦である。
 ああ、かっこわるい。
 しかも何がかっこわるいといってこの試みは成人を迎えた後まで何度か挑戦を試みてしまったあたりがなおさらかっこわるい。確かにその持続が、3分間が1時間に伸びることがあったのは成長の跡かもしれないが、しかし結果は全敗である。
 ついでに無口というのも何度か挑戦したが、何をか況わんやである。
 
 例えばそれは中学や高校の授業中だ。
 遅刻などで遅れて教室に入ってくる者がガラリと戸を開けたとき、つい振り返ってしまうようではてんでかっこいくない。そんな瑣事は意に介さない態度こそがかっこいいのだ。
 私はダメだ。ガラリのガでもう気になって振り返って見てしまうのだ。ガといったらパッ、てなもんである。
 身の回りの状況や危機に対して敏感だといえば聞こえは悪くないが、よもや授業中にパンツ一丁で刃物を持った男が乱入してくるなど普通ありえまい。気の触れた人間があふれ出した現在では必ずしもそうでもあるまいし、実際に関西の小学校でそうした悲惨な事件があったのは記憶に新しい。
 しかし私がつい振り返ってしまうのはそうした危険性の回避を目的としたものではないのだ。気になる。ただそれだけなのである。
 授業中戸が開くくらいで一々気にするような落ち着きの無さなんてかっこいくないどころではなく、かっこわるいの範疇に含まれて然るべき行為である。
 幾度自制しようとしたことだろうか。
 「振り返ってはいけない」
 こう書くと「若い頃を」とか「過ぎたことを」という別なニュアンスが含まれる気がするが、そうではない。ただの肉体的動作のことである。
 しかし頑なに「振り返ってはいけない、いけないのだ」と思っているときには一向に戸が開く気配はなく、しかもそんな状態が続くと授業に身が入らないばかりか「今なら戸が開いても絶対に振り返らないぞ」とそのことだけに意識が集中した「ただの力んだ人」というすこぶるかっこわるい人になってしまうのである。本末転倒である。
 振り返ってはいけない、と力んではいけない、と気持ちをニュートラルに戻す、そんな時である。
 ガラリ。
 しまった、と思ったときはもう遅いのである。しっかりと、下手をすると半身を後ろに回してまで教室に入ってきたその馬鹿者を確認してしまっているのである。
 ああ、かっこわるい。
 思えば30年近くそんな繰り返しだったのではなかろうか。ちっともかっこいくなんかなれはしなかった。
 例えば現在。
 私はアニメーション現場での立場上、何かと質問等されることが多い。そんなときにヘッドフォンがいけない。ヘッドフォンがかっこいくないのではなくそれによってかっこいくない事態が発生するのだ。
 ヘッドフォンをかけて仕事をする際、集中力を高めるため私は音量を上げる。大変上げる。仕事がのってくるとどんどん上げる。そうすると声をかけられても聞こえるわけもなく、私に用事のある人は致し方なくポンポンなどと肩を叩かなくてはならない。これがいけない。不意に肩を叩かれたりなんかすると私は過度にビクッとなってしまうのだ。
 ポン、ビクッってなもんである。あまつさえ「わ!?」なんて頓狂な声を上げた日には取り返しがつかないほどかっこわるい。
 ああ、かっこわるい。
 きっとこんな不意の変化に弱い人間だから、ガラリという音に敏感だったりして対応しようとしているのだろう。もう根がかっこいくないのだ。かっこいい人の土台は多分すでにかっこいく出来ているのだろう。かっこいい土台に乗せられたものはそれがいかにかっこわるいことでも「かっこいい」という包装紙にくるまれるのだ。逆にかっこいくない土台には何を乗せてもかっこいくないのだ。
 ああ、かっこいくなりたかった。

 しかし大体何がかっこいくないといって、こんなことを世界に向けて発信して喜んでいること自体がかっこいくないのであった。

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