2009年4月15日(水曜日)

先月の雑食



アニソン話が途中だが、別の話題。
新年度に入って世間は浮ついている様子。電車や街中におよそスーツに着られているようにしか見えない新人たちの姿が目立ち、終電には新人歓迎会などでメートルが上がった人たちに溢れている。いまどき言わないのか、メートルが上がるなんて。要は酔客だ。
車内にはふわふわと浮かれた空気が漂っている。
来月はきっと揺れ返しが来るのであろう。5月病という名の。
ま、浮かれられるときには浮かれておくのも悪くないかもしれない。

昨日から武蔵野美術大学・映像学科でのゼミも始まった。
学内の空気もやはりふわふわしている様子。
うちのゼミ生は8人。
事前に名簿をもらっていなかったので、学生の顔を見渡してびっくりした。
「え?男子は一人なの!?」
可愛い娘さんたちばかりである。
こちらまでふわふわしそうじゃないか。

マッドハウスでも新人たちの姿を見かけるようになった。先月の暮れ、会社の花見で新人の顔見せがあったが、毎年思うのはこんなこと。
「この人たちは来年の花見の時にも会社にいるのだろうか」
意地悪でそう思ったり口にしたりするのではない。せっかく顔と名前を覚えたり、多少仕事にまつわる何かを教えとしても、こんな事態になるのである。
「監督……あのぉ……私、今月いっぱいで……」
これまで幾たびもあった光景だ。
もっとも、近頃は不況のせいもあってなのか、辞める率は下がっているようだ。
せいぜいがんばって欲しい。
あ、この「せいぜい」は政権を投げ出した前首相がオリンピック選手に向かって放って問題になったとされる意味での「せいぜい」と一緒にしないでもらいたい。
「精々」には、高をくくったような意味もあるが、「力の及ぶ限り。精一杯。」(広辞苑)という意味もある。私も最近知ったばかりなのだが。

「頑張って」「頑張ってください」とよく言われるし、つい自分でも口にしてしまうが、言われるまでもなく当人は頑張るものではあろう。
新人にも「頑張ってね」と言いたいが、しかし本当に問題なのはその「頑張り方」なのであって、右も左も分からない新人には「何をどう頑張ればいいのか」もよく分からないはずである。闇雲に頑張るというのは古くさい青春ドラマのようで、勢いはいいかもしれないが息が切れるのも早いものだ。
せっかく頑張るのだから、頑張るべき要点を考えた方いい。義務教育はみんな受けているんだからね。
ま、ニュースを見ていると日本の義務教育なんてちっとも当てにならないみたいだけれど。
振り込め詐欺に騙され、マスコミのインチキに踊らされ、さらには国のデタラメに尻尾を振って喜ぶ人が溢れいている。
そりゃあ、賑やかになるだろうさ、エコ踊りも。

枕ばかりが長くなりそうなのでこの辺で切り上げて。
先月3月中に「摂取」した脳のための食物を記録しておく。要するに読んだ本や見た映画などである。
先月、映画はDVDで2本見たきりである。

『デルス・ウザーラ』黒澤 明
『座頭市と用心棒』岡本喜八

2月に読んだ『黒澤 明−封印された十年』で、『デルス・ウザーラ』撮影当時のエピソードが多数紹介されていて、すぐに見たくなった。いつ見るか分からなくても、いつか見たくなりそうな、見返したくなりそうな映画はストックしておくと、こういうときに役立ってくれる。
何より風景が素晴らしい。静かで力強い。ドラマ性は抑えられその分風景が雄弁に語っている。
Wikipediaを見たら、こんな記述があった。
「2008年東京国際映画祭エコ部門受賞」
ひどい冗談だ。

『座頭市と用心棒』はいかにも当時の「企画物」という感じだが、勝新太郎と三船敏郎の共演、監督は岡本喜八ということで以前から見たかった。店頭で見かけたことがなかったので、アマゾンで注文。
見たら、タイトルの「まんま」だった。
黒澤監督の『用心棒』に『座頭市』を混ぜてみた、というシナリオである。
シナリオとして考えると三船か勝新のどちらかが不要でしかないのは残念だが、まあ、そういう映画なんだから(笑)
ただ「スター」の存在感というのは改めて考えさせられる映画であった。
というのもこの映画、主演の二人をスター性のない役者が演じていたら、見るべきところはほぼなくなるのではないかと思われる。
ヒッチコックの『トパーズ』、DVDの特典映像で「もしこの映画の主役がケーリー・グラントなどスターが演じていたら……」というような発言があった。『トパーズ』は何の映画なのか、さっぱり分からない出来だったが、確かに主役を「いわば主役たるべき」役者が演じていたら随分違った印象になるだろうにな、と思った。
『座頭市と用心棒』はその逆で、これまでスター性ということに一切興味がなかったが、少しばかり考えさせられた。
「三船−用心棒」といえば最近、たまたまザッピングしていて、近年リメイクされた『椿三十郎』、それと『隠し砦の三悪人』を見かけた。びっくりもしなかったがこう思った。
ひどい冗談だ。

映画ではないが『モンティパイソン フライングサーカス』を引き続き見ていた。
近頃テレビに映る「お笑い」には興味が湧かないが、先月は個人的にはちょっとしたお笑いブーム。
講談社DVD・BOOK『志ん生復活!』全13巻が揃ったので仕事中に聞いていた。DVDとはいえ、志ん生の映像はごくわずかなので音源に静止画がオーバーラップするのがほとんど。それでも「巌流島」や「おかめ団子」、「鰍沢」など貴重な高座が見られるのは嬉しい。ま、わざわざ買わなくてもYouTubeで見られるけど。
中崎タツヤの持っていない単行本もネットで注文して入手した。

『問題サラリーMAN』4巻
中崎タツヤ作品集3『お勉強』

いずれも15、6年前のものだが、いいものはいつ読んでも面白い。
中崎タツヤ先生の漫画は我が家のバイブルである。

本も相変わらず志ん生関係が健在。

『志ん生の噺3 志ん生人情ばなし』古今亭志ん生(ちくま文庫)
『志ん生の噺4 志ん生長屋ばなし』古今亭志ん生(ちくま文庫)
文藝別冊「古今亭志ん生 落語の神様」(河出書房新社)

日本語は音で聞くだけでは判然としない点が少なくない「テレビ型言語」だという説を聞いたことがある。対して英語などは音声だけで十分に伝えられる「ラジオ型」。
日本語には同音異義語が多く、漢字を見たほうが認識が早いことが多々ある。たとえば英語でも同音異義語はあるが、混同しやすい文脈で使用されることは少ないのだとか。
日本語の場合、「水星」と「彗星」など混同しやすい文脈で使用されるケースが多い。
たとえば「偏在」と「遍在」なんて、まったく逆の意味なのに音が同じである。
昔から日本では「読み・書き・そろばん」というように、文章での伝達に重きが置かれているようで、目で見る言語という側面が大きい。だから日本において、絵と文のハイブリッドによる漫画というジャンルがこれだけ親しまれ広がったのであろう。
落語も本来は落語家の動作という視覚込みで味わう芸術だが、あいにく仕事中の相方としては音声のみが望ましい。志ん生の場合は映像がそもそもほとんど残っていない。
音声だけでは把握しかねる部分を、口演録を読んで補っている。
志ん生の落語で用いられる古い言葉などはそもそも知らないことも多いが、漢字を見れば想像もつくし調べようもある。
何より、口演録は寝る前に一、二本読むのにちょうどよい。

『著作権とは何か−文化と創造のゆくえ』福井健策(集英社新書)

仕事柄もあって、たまにはこういう「お勉強」もしてみる。
盗作にならないための条件としては大雑把にかいつまむとこういうことらしい。
「アイディアは借りてもいいが表現を借りてはいけない」
なるほど。
『ライオンキング』でも?

『がんばらない生き方』池田清彦(中経出版)
『池田清彦の「生物学」ハテナ講座』池田清彦(三五館)

池田先生のものの考え方にはたいへん勉強させられる。
巷に溢れるインチキを避けて歩くためのガイドブックにもなる。

『USAスポーツ狂騒曲 アメリカは今日もステロイドを打つ』町山智浩(集英社)
『続・世界の日本人ジョーク集』早坂 隆(中公新書ラクレ)

息抜きの笑いにうってつけだが、内容的には笑うに笑えないネタも多い。

『だから、一流。』菅原亜樹子(学研)

今 敏も取り上げられているのでそこだけは飛ばして読んだが、面白い内容だった。
F1ドライバー佐藤琢磨の話が印象的。不屈の人なのだなぁ。
現在残念ながらF1には出ていないが、再びドライバーシートが確保できることに期待したい。スポンサーがつかないと無理なのかしら。
そうそう。先日、通勤途中の電車内で見知らぬ女性から話しかけられた。
「今 敏監督ですか?」
この書籍の編集者だった。どうもこれは偶然。
彼女はこの本の営業活動の最中とのことだった。荻窪の駅で彼女が持っていたこの本にサインをしつつ、しばし立ち話。
今 敏のインタビューのテープ起こしたのは彼女だったそうで、こう仰る。
「ああ、テープと同じ声」
そりゃそうです。

『ヴォネガット、大いに語る』カート・ヴォネガット 飛田茂雄・訳(ハヤカワ文庫)

以前読みかけていたのに、中座していた本。
これで、ヴォネガットで読んでいないのは後1冊くらいか。ちょっと寂しい。

『学力と階層』苅谷剛彦(朝日新聞出版)

学生に教える仕事をしているせいというわけではなく、以前から教育の問題には興味がある。
年の離れた新人や仕事仲間の、仕事に対する関わり方を見ていると彼らになされてきた教育の在り方や育ってきた環境、刷り込まれてきた価値観が垣間見える。
その視点をぐっと引いて見ると、自分にどのような「加工」がなされてきたかが分かっても来る。
近年話題の格差社会とやらも勿論だが、格差が固定され「遺伝」するのもいいことじゃないわな。
そういうもんだ、と片方では思うものの、機会の平等なんて白々しい言葉を聞くとさすがに気分が悪くもなる。

『連塾 方法日本? 神仏たちの秘密 日本の面影の源流を解く』松岡正剛(春秋社)

これは実に面白かった。
松岡正剛先生の本は一昨年『17歳のための世界と日本の見方』で初めて知って以来、まだ数冊しか読んでいないが、これは特に興味深い内容だった。
こんな講義なら是非生で聞いてみたいものだ。続刊が楽しみなシリーズである。
「方法日本」という言葉が示すとおり、日本人の歴史的に培われた生理に合ったものの考え方を再発見できる……ような気がする。
知らぬうちにこれまで自分に刷り込まれてきた中にもたくさんの「方法日本」があるはずで、それを意識して仕事で実践してみたいものである。

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