2010年2月15日(月曜日)

奇妙な偏り・その1



昨日、たまたまWOWOWでオンエアしていた『地球の静止する日』を見てしまった。
ロバート・ワイズ監督のではなく、リメイクの方。
どうせ巨費を使ってリメイクするなら、ちょっとでいいから頭も使えばいいのに。
笑えもしやしない。

ここ何年も映画館にもレンタルビデオ屋にも行ってないので、何が話題で何が新作なのかもさっぱり分からないが、大仰な空振り映画に接してしまうと益々新作に興味が無くなる。
観ている映画といえば相変わらず古いものばかり。
去年から続いているクリント・イーストウッド監督シリーズは『ホワイトハンター・ブラックハート』『アウトロー』『ルーキー』『ペイルライダー』『ガントレット』と段々ネタが古くなってきているが、それだけ傾向の変化が分かって面白い。
「’77に『ガントレット』を撮ってた人が、31年後には『グラン・トリノ』を撮るようになるのかぁ……へぇぇぇぇ」
元気もらいました。
『ホワイトハンター〜』つながりでジョン・ヒューストンの『アフリカの女王』を観ていたら、「川と船」という組み合わせからヴェルナー・ヘルツォークの『フィツカラルド』と『アギーレ神の怒り』を連想したので、ヘルツォークの比較的新しい『戦場からの脱出(Rescue Dawn)』を観てみた。
若い頃の活力は多少失われているのだろうが、やっぱりヘルツォークである。
『戦場からの脱出』というタイトルから連想されるような「痛快アクション映画!!」では全然ないのだが、DVDのパッケージには派手な映画のような粉飾が施されていた。
「『バットマン』『ターミネーター4』のクリスチャン・ベイル主演の戦争アクション!」みたいな。
ええ、ええ、そうでしょうとも。
売る方として困った内容だったことは容易に想像できるが、やっぱりこう思った。
「映画を殺す気なんだろうか?」
いい映画なのに。
近頃のCG合成ばかりが目立つ大作に比べて、遙かに「ちゃんとした」映画である。
ヘルツォークは密林を舞台にした映画が多く、それだけ得意としている題材だけに密林の映像がとても魅力的。主演のクリスチャン・ベイルも悪くないが、脇役たちがその顔も含めて存在感がとてもいい。
映画もいいが、付属の特典映像がまたいいのである。
誰よりも率先して自らの映画世界に分け入っていくヘルツォークの姿勢がすごい。まるでヘルツォーク映画の主人公そのまま。
元気もらいました。
俄然、ヘルツォークの映画が観たくなってきた。
が。アマゾンで検索したら、どれも¥4000〜5000でやんの。
デフレとはいえ、欲しいものはいつだって高いのね。

さて、本題。
以前から感じることが多かった経験則の一つはこういうもの。
「仕事が来ないときは全然来ない。なのに来るときはまとまってやってくる」
ご経験のお有りの方も多いのではないか。
仕事に限らず、「何か」が来るときはどうも同じ時期に固まるらしい。
どうしてばらけてやって来てくれないのか、実に不思議だ。
単なる思い込みという側面もあるのかもしれないが、仕事の依頼などの数には時期によって明らかに偏差がある。もちろん世間の好不況といった波とは別の波である。
演出に携わる者として、そうした「いつもと少し違う」状況から自分と自分を取り巻く「物語」をつい読み出そうとすることは、いわば職業病なのかもしれないが、その方が面白いと私は思う。
人間には「物語」が必要なものだろうし、現在進行中の「物語」から「先の展開」を想像することもまた楽しからず哉。
もっとも私の現状からは何だかとりとめのない話しか思いつかない。
そんなことを読まされても困るだろうが、私もとりとめの付かないことをとりとめもなく書き出しているので、とりとめのない話にしかなりそうにない。

ここ最近、当ウェブサイトの「お問い合わせ」を始め、仕事やプライベート、色々なルートで仕事の依頼やら接触がたてつづけに届けられていた。
それまでに比べて急に頻度が跳ね上がったようだ。
映画完成後の宣伝期間などにおいてはこうしたことも納得が行くのだが、現在「今 敏」は世間的にはたいへん無口な状態である。
何もしてないのにリアクションだけがあるような錯覚。
もちろん、どれをとっても過去の仕事や繋がりからのエコーやリターンではあるのだが、どうも実感と結びつかないので、脳内では疑問符が連打する。
「???何でこの時期に???」
この不況の折りに仕事の依頼が舞い込むのであれば嬉しい金切り声の一つも上げたいところだが、仕事というほどでもないような協力とかイベント出演やメッセージ、インタビューなどの依頼がほとんどである。その他、新しい知り合いが出来るとかご無沙汰していた人との接触であるとか。
大きな変化ではないけれど、微妙な変化が連鎖しているとでも言おうか。
いや、大きな変化は別にしっかりとあるのだが、それはここでは措いておく。

以下、その微妙な変化の奇妙な偏りについて列記することになるのだが、一つ一つが長くなりそうなので、簡単にまとめておく。
要するに、この奇妙な偏りにはどういう意味があるのか(あるいは全然意味がないのか)、そこからどんなことが考えられるのか、という私の覚え書きみたいなものでお付き合いいただいても、読まれる方にはあまり実りはないと思われる。
というお断りをした上でとりとめのない話をしてみる。

最初にちょっと妙な気がしたのは、去年の暮れに台湾からいただいたインタビューである。原稿を書いたのは今年になってからだが、いま読み返してみると質問もその答えも何か「示唆的」な気がしてくる。
長くなるが引用しておく。ま、相変わらずの内容だが。
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●Konさんは新しい作品を完成させるたびに、いつも観衆を驚かせています。製作中の最新作 “夢みる機械”についてお話ししていただけませんか?どのような物語ですか?いちばん独特な、或いは革新的な部分はどこでしょうか?

『夢みる機械』は、ロボットたちが冒険の旅をするお話です。
舞台は遙か遠くの未来、地球上からは人間も動物も植物さえも失われており、人間が残した壮大な廃墟だけが広がっている。そこにわずかに残されたロボットたちが、乏しい電気を分け合ったり奪い合ったりしている。そんな世界を、主人公たちが仲間と出会い敵と遭遇しながら、ロボットたちの理想郷を探して冒険をする物語です。
ピクサーが製作した『WALL・E』と設定が似てしまっていて驚いたのですが(もちろん『夢みる機械』を企画したときにはこの映画のことは知りませんでした)、お話は全然違っていて安心しました。それに『夢みる機械』に登場するのはロボットだけで、人間は出てきません。
主人公はいわば少年のロボット。彼は、女の子のロボットと出会うことで、旅に出ます。旅の途中で多くのロボットと出会いながら内面も外見も成長していく。とてもオーソドックスな少年の「成長と冒険のお話」で、もしこの話を普通に人間のキャラクターで作ったらあまり目新しくないかもしれませんが、すべてロボットというところが新鮮味を与えてくれると思います。
見かけはオモチャみたいな可愛いロボットたちの、しかしハードな旅をご期待ください。

●Konさんの芸術世界の哲学(芸術観)についてお話ししていただけませんか?
また、どのようなきっかけでアニメーション産業の世界に没頭するようになったのでしょうか?初めてアニメ産業で働いたときの体験について教えていただけませんか?

一言で言えるような、分かりやすい芸術や創作に対する哲学や価値観を持っているわけではありません。持っていたらさぞや苦労が少なくなることでしょう。
日々、仕事をしながら「ああでもない、こうでもない」と脳の中をウロウロと歩き回って、何か一つでもさっきまでは気がつかなかった領域を発見したり、そこに踏み入ったり出来るようにしたいと思っています。
映画や小説、漫画、音楽など創作物というのは作り手の考えが形になったものですから、作り手の考え方が広がったり深くなればそれだけ創作物にも豊かな陰影が与えられるでしょう。また同時に創作物そのものが作り手に大きく影響を与え、それによって作者の考えも磨かれるものだと思っています。
ただ、作り手と創作物の関係だけで考えてしまうのは「創作の窒息」を意味します。そこには必ず、それを鑑賞する人間が想定されなければなりませんし、さらには自分にもよく分からない「何か」が必要です。もし、自分が作っている映画や物語、登場人物やその世界など、それらの隅から隅まですべてを分かっているという作り手がいるとしたら、その人はさぞやつまらないものを作っていることでしょう。
私は、芸術的な価値というのは創作物そのものにすべてが宿っているわけではないと思っています。芸術的な面を含むあらゆるものは、それが鑑賞されることによって初めてその価値が成り立つものでしょうし、感動というものは創作物と鑑賞者の間に生まれるものです。それこそが創作物の真価ではないかと思います。
だから、創作物に対する感動というのはそれを鑑賞する人間の数だけ種類がある。
映画でたとえれば、感動はスクリーン上にあるのではなく、スクリーンとその観客の間に生まれる。作り手がどういうつもりで作っても、それが意図の通りに伝わるわけではありません。作り手が鑑賞者をコントロールしようとしては、きっと肝心な「何か」が損なわれていくことでしょう。
だから私は、映画そのものに多くの意図や狙いや願望をこめて作りますが、一番肝心なことはそれらそのものを観客に伝えることよりも、それらによって観客それぞれの記憶や想像力、考え方や価値観に働きかけることだと考えています。
私にとって、映画はある種の「鍵」なのです。
もちろん、娯楽として作っているのでそうしたややこしいことは抜きにして、表面上の物語やシーンを楽しめるようにも意図してはいますが、同時に物語やシーン、台詞や映像によって観客それぞれの体験や記憶や想像の一部を「解錠」出来ることを期待して制作に取り組んでいます。

最初にアニメーションに関わったのは、単に「(業界人に)誘われたから」に過ぎません。美術設定という、劇中の舞台となる場所をデザインする仕事でしたが、その仕事の前後左右にも当然、アニメーションを構築する多くの仕事が接しています。
美術設定の仕事をよく知るためには、それら前後の文脈を知る必要がありましたし、その領域を知るとまたそれが面白くなる。
そうやって美術設定を振り出しに、そこからつながるレイアウトや原画、美術や背景、絵コンテやシナリオ、編集や音響と、制作プロセスを一つずつたどって来た結果、つまりはすべてのプロセスに興味を持ち、携わることになってしまった。それで監督というポジションに至りました。
しかし、アニメーションの仕事に関わるようになった当初、現在の今 敏の在り方は想像もしていませんでした。私は元々は漫画の仕事をしており、また漫画を続けるつもりでした。だからアニメーションの監督になる、あるいはなりたいとも思っていませんでしたし、これほど深くこの仕事に関わることになろうとは予測も出来ませんでした。

特に劇的なきっかけがあって、過去から現在につながってきたわけではありません。つまらない話かもしれませんが、日々の積み重ねが現状に至ったとしか言いようがありません。敢えて一言で言えばこういうことです。
「やってみたら面白かった」
どの制作プロセスも「やってみたら面白かった」し、知れば知るほど奥深く面白くなってくる。あらかじめ誰にとっても面白いことが用意されているわけではなくて、自分で興味や面白さを発見しない限り、目の前の仕事は微笑んではくれません。どんな仕事であれそういうものではないかと思っています。
自分が「どうしたいのか?」よりも、私は目の前の仕事が「どうなりたいのだろう?」と考えるように仕事をしてきましたし、現在もそれは変わりません。

問いかければ仕事が私を育ててくれる。
アニメーションの仕事を通じて私が得た一番大きな実感はそういうことかもしれません。

●Konさんがアニメを製作して以来、もっとも難しいと感じたところは何でしょうか?いちばん苦労した経験について教えていただけませんか?そして、そのときKonさんはどのように解決されましたか?

やはり、能力のあるスタッフを集めることでしょうか。
原作やシナリオ、絵コンテといった映画の根幹に関わる部分ももちろん難しいのですが、それらは語弊を承知しつつも敢えていえば個人的な努力で補い得るものです。
アイディアを考えて(原作)、それを面白く育て(脚本)、さらに面白くなるように語ること(絵コンテ)は、実際には他のスタッフとの共同作業にはなりますが、極論すれば個人の守備範囲といってもいい。
しかし、多くの労力を必要とするアニメーションの実作業は、個人の努力で補えるものではありません。とにかく多くの専門スタッフが必要です。作画監督や美術監督、音響監督など各分野の中心となるスタッフは、これまで一緒に仕事をしてきて、私が実力を把握している人に引き受けてもらっています。
アニメーターや背景マンといった、特にスタッフの数を要する部門が常に問題になります。
各分野の監督同様、一部には信頼できるスタッフを集めますが、それだけでは全然足りません。日本のアニメーション業界には優秀な専門スタッフが少なからずおられますが、そうしたスタッフはどこの制作現場でも必要とされていますから、なかなか仕事を引き受けてもらえない。
そうすると、能力が分からない人や我々の望む仕事を期待できないような人も当然混じってきます。もちろん、そのスタッフの適正を出来るだけ有効に配置したいとは思っていますが、演出意図に足りない仕事しかできない人も一定数生まれてくる。
こうした事態は、どうしようもないことだと思っています。
仮に演出意図がうまく伝わってもそれを再現できない出来ない人はいますし、あるいは何らかに秀でた能力を有したスタッフであっても、意図の伝達における不具合でその能力がうまく発揮されないこともあります。
それに、もしも有能で希望する人材ばかりを集めて制作できたとしても、それでも結局、「ではもっとすごいもの」「もっと凝ったもの」「もっと難しいもの」を求めてしまうでしょうから、きっといつだって「足りない」と感じるのではないかと思います。
自分の能力に対しても、いつだって「足りない」と感じているのですから。
しかし、それは贅沢なことではなくて、ものを作るというのは常にそういうことだと思っています。より高く、より遠くへ。
意図と違うものや、レベルに達していない仕事は直す以外にありません。
直すのは、作画監督や美術監督といった立場のメインスタッフです。監督もその一人です。
直すだけですべてが解決するわけではありませんが、直すほかにしようがない。そして少数の人間だけで直すにはその量はあまりに膨大で、どうしても時間がかかる。
商業映画において、制作のための時間というのはイコール予算です。予算ですべてが解決できるわけではありませんが、予算で解決できることはたくさんあります。予算獲得には映画がヒットしてDVDが売れることが一番の近道だとは思いますし、そう願ってはいるのですが、思うようにはいかないのが現実の厳しさですね。

●映画やアニメに関する新しい技術が急激に新しくなっているので、なぜかアニメも多元的な美学を発現しています。“アニメ”について、Konさんはどのようにお考えでしょうか?また、Konさんの映像では、どのような素材を使うことを好みますか?

アニメーションでも実写でも、その他あらゆる表現方法においても、新しい技術が取り入れられるのは必然でしょう。新しい技術を取り入れることは、その分それまでになかった表現が可能になります。
それまで表現しようとしても出来なかったことが可能になるだけでなく、新しい技術に想像力が刺激されることはそれ以上に多い。つまり、その技術でどんなことが出来るのか、を考えることで新たなイメージが生まれ、広がります。
もちろん、どんなことにも弊害は付き物です。たとえば、実写映画などではCGのあまりの普及によって、逆に画面の作りが安っぽくなっているケールも多い。もしも黒澤明の『七人の侍(Seven Samurai)』やフランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)の『地獄の黙示録(Apocalypse Now)』、デヴィッド・リーン(David Lean)の『アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia)』などがCGを交えて作られたら、あの迫力には遠く及ばないことでしょう。どうもCGというのは映画の画面を狭くしてしまう傾向にあるようですからね。
同様に、アニメーションにCG技術が導入されたことによってたいへん便利になった反面、一番重要なはずの手作業によるアニメーションの技術が低下しているようにも思えます。便利なCGに頼ることでアナログな工夫を考え出す機会が損なわれるのかもしれません。
とはいえ、そうした反面を割り引いてもCGなどの新しい技術の導入は、映画やアニメーションに大きなプラスを与えてくれているとは思います。

現在の日本の商業アニメーションは基本的に、線画で描かれた階調をほとんど持たないセル、無段階の階調を持った背景、それと3DなどCGの素材で構成されています。これら異なる手法が同じ画面の中で共存している、そのこと自体を私は好ましいと考えています。飛躍していえば、それは異なる人種、文化、宗教が同じ地域に混在する姿にも通じるものだと思うからです。
いまでは誰も違和感を唱えないとは思いますが、セルと背景というアナログ時代から続く組み合わせも、同じ絵とはいえ両者の表現方法は大きく異なっており、本来は相容れないはずの性格のものです。単純に、背景もセルのような線画で表現された方が、画面の統一性は遙かに高い。一部にはそうした画面のアニメーションもあるでしょうし、開発されるだけの可能性は十分にあるはずの手法なのに、一般的にはなってきませんでした。
そこには、すべて線画にすると情報が均質化してむしろ見づらいとか、見ていて疲れる画面になるといった理由もあると思いますが、それよりもむしろ異なる手法の「間」に生まれる効果や表現、ニュアンスを好ましいと考えるからかもしれません。
社会や文化も同じで、何か一つの主義や価値観に覆われると、息苦しい世の中になります。「禁煙原理主義」「健康原理主義」「経済至上主義」とか何とか。私は大嫌いです。
だから、私が作る画面においては、セルも背景も2Dも3DCGも特に分け隔てはしませんし、それらが調和して共存することを常に目指しています。
もっとも、それらが穏やかかつ自然に調和してくれることが、技術的に一番難しいところでもあるのですが。

● “Perfect Blue”や “Millennium Actress” 、或いは“Paprica”では、登場人物の日常生活のなかで、ファンタジーの世界のエピソードも同時に描き出します。ときどき、主役はとつぜん夢や記憶、或いは妄想の世界に陥ります。Konさんは、なぜこのような世界を用意したのでしょうか?また、このような仕掛けに潜ませているKonさんのメッセージやメタファーは何でしょうか?

現代社会が滑らかに運営されるためには、いわゆる現実と、夢や幻想は区別されなければなりません。現実とされるものは他人と共有する部分であり、夢や幻想は個人内部のものです。そこに区別がなければ混乱の元になります。
しかし、個人の側から見れば、現実とその人にとっての夢や幻想には同じくらいの重みがあると言えますし、時には現実よりも主観の比重の方が重いことだってあります。
私がこれまで監督してきた映画において「夢と現実の混交」というモチーフを好んで描いてきたのは、「世界の中の個人」という見方よりも「個人から見た世界」にフォーカスしてきたからです。というのも、客観と主観、これは意識と無意識と言い換えてもいいと思いますが、現代社会はあまりに意識だけを偏重しており、無意識が過度に抑圧されているように感じているからです。その抑圧の結果が精神疾患の増加であったり、自殺大国とまでいわれる日本の原因につながっているようにも思われる。
もちろん、意識より無意識の方が大事だと言いたいわけではありません。
大切なのはバランスです。
意識と無意識、客観と主観、現実と夢、陰と陽、全体と部分、太陽と月、男と女……そうした対となるものは、両者のバランスと調和が重要なのであり、どちらか一方の比重が極端になっては両者共に壊れてしまう関係にあると考えます。
私が監督してきた映画はどれも、そうした「対」のバランスが崩れた状態から、その調和を回復するプロセスを描いていると言えるでしょう。『パプリカ』やTVシリーズ『妄想代理人(Paranoia Agent)』はその顕著な例です。
『パーフェクトブルー』や『千年女優』も同じ視点で共通点を見い出すことは可能ですが、これらの映画は、もっと個人の主観を強調したものでした。敢えてそれらの主題をまとめれば、ある個人にとっての「真実」というのは、他人と共有する現実だけでなく、夢や幻想も込みで成り立っており、我々はそれぞれの真実という時間を生きているということを描いたつもりです。

●Konさん自身の(性格的・思想的)特徴について述べていただけませんか?(個人的な)性格は芸術作品に影響を及ぼしますか?また、これまでのKonさんの全作品のなかで、どの登場人物がいちばんお気に入りでしょうか?Konさん自身のリアルな生活、或いはKonさん自身の思想や精神を反映させた登場人物はありますか?

自分の性格や考え方、価値観は監督した映画を御覧いただいた通りではないかと思います。アニメーションという多くの人手を要する表現方法にもかかわらず、どうも私の監督した映像は個人的な傾向が強いようです。私がそう思うわけではなく、そのように指摘されることが多いので、「そんなものなのかな」と思っているだけです。
もちろん、私一人で作っているわけではないので、関わったスタッフの個性も十分に反映されているのですが、それでも全体としては今 敏のカラーが強く見えるのかもしれません。
というのも、先にも記したように私は「対」という概念がとても好きなので、対となる両者のバランスを最も重視しています。だから画面内に多くの個性が混じっていても、それらをバランスさせることに監督個人の特徴が出やすいのかもしれません。

監督としては問題のある発言かもしれませんが、実は私の場合、判断や決断が難しい局面において、たいていは「どっちでもいい」と思うことが多いのです。仕事上においても私生活においても、「どうしてもこっちでなければならない」というケースは多くありません。
というのも判断に困るということは、どちらも五分五分に近い状態だから判断に困るわけで、だったらどっちにも長所短所があるわけです。つまりはどっちをとってもそう大差はない。
だったら、どっちでも選んでからその最善を考えてもいいのではないかと思うわけです。
選んだ方を最善に育てるしかない。私はそう考えます。
理想と現実のギャップに苦しむよりは、とりあえず現実を受け入れて、その枠組みの中でどういう最善を実現できるのかを考えることが健全だと思いますし、その方がアイディアも湧いてくる。

そういう意味でこれまで創作、演出した登場人物の中で、比較的自分の価値観が反映しているのは『妄想代理人』の中年刑事、猪狩かもしれません。
現実と大きな齟齬を来していく猪狩が、最終話で現実を受け入れる台詞を口にするシーンは自分でも気に入っています。
「居場所がないって現実こそが俺の居場所なんだ」といった台詞です。
現実の今 敏は「自分の居場所がない」と思うほど寂しい状況にはありませんが、日々メディアが垂れ流す世間の価値観から離れていく感覚は私にも十分あります。
でも、その現実を受け入れてどうコミットしていくかが、重要だと思っています。

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ふーん……つい先月書いたテキストなのだが、読み返していてなかなか面白く、自分に対する「忠告」のようにも思えてきた(笑)
ありがとう、先月の俺。
元気もらいました。
さて、何の話なのかすっかり忘れてしまいそうだが、「奇妙な偏り」についてとりとめのない文章を書いていたのであった。
「新作について」「芸術観」「制作上の難点とその解決」「新しい技術との折り合い」「夢と現実の混交という仕掛け」「監督の性格が作品に与える影響」「自身が反映された登場人物」等々。
質問を整理してみると、これといって目新しいわけではないし、むしろごくごくベーシックな質問に思える(答えにいたってはまるで他のインタビューテキストからのコピーペーストみたいだが、この質問のために新たに書いたものである)。
だから、この時期に上記のような基本的なことを再確認する機会が与えられたことそのものが、私には何か「示唆的」に受け取れるだけなのかもしれない。
確かに、これだけのことだったら「奇妙な偏り」でも何でもないのだが、その後のあれやこれやを考えると、改めて基本的なことを問われたことに少なからぬ「示唆」が感じられる。

この示唆にはもちろん名付けられるような主体はない。
示唆を受ける客体があるだけ。
客体が状況から勝手に読み出すという意味での「示唆」なのだが、人によってはそれを「宗教的」「超自然的」あるいは「精神の変調」というあまりに大雑把な仕分けをされるかもしれない。だが、世間に流通する粗雑なカテゴリーをうっかり借り入れると、脳そのものが雑なものになるので要注意だと私は思う。

奇妙な偏りと名付けた割にはインタビュー一件を紹介しただけだが、長くなってきたので次回に譲る。

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