SHOP KON'STONE
東京ゴッドファーザーズ雑考
-決算2002より−
02
決算2002-56
さて絵コンテのこと。
絵コンテの設計は前2作とは随分変化したように思える。というより変えようという意図が大きかった。
まず見かけからして大きく変わっている。
キャプションは私の下手な手書き文字ではなく、パソコンを使用している!……って、そんな些末なことはどうでもいいのだが。
私は手で文字を書くのが苦痛で仕方ない質(たち)なので、絵を描いた後、スキャンしてフォトショップ上で絵の合成や陰影を加え、キャプション等も打っている。なのでこれまでのコンテより見た目に大変見やすくなっている。
ボリュームもこれまでの作品で一番大きい。総カット数は欠番を除くと確か923カット、これまででもっとも少ないが、コンテの枚数はトータル532枚と
「千年」の一割以上は増大したろうか。ワンカットに対する絵のコマ数が増えているためであろう。読み応え十分、描くのに時間を要するわけだ。
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コンテナンバー179〜181。C.342は20秒に渡ってハナちゃんが喋りまくるという非常に作画の手間がかかるカット。このシーンの原画は安藤雅司氏が担当しれくれた。非常に気に入っているシーンの一つ。 |
肝心の内容では、まず1カットあたりの尺が伸びている。
単純に長尺のカットが多く、1カット20秒30秒といったボリュームのあるカットがかなり多い。これまでは恐ろしくてこういうカットの作り方は避けてきた。
なぜ恐ろしいか。止めのようなカットなら長尺でもどうということもないが、私が作る場合そうしたカットはほとんどあり得ないし、当然カット内での起伏が
重要になる。必然的にカット内でこなすべき芝居が多くなり、そのテンポやバランスがさらに重要になる。なおかつ人物の芝居も通り一遍では困る。となると、
もしもこうしたカットを上手でない人が作画を担当した場合、演出や作監が根本的に直すことになるが、こなすことやるべきことが多いカットは「底上げ」程度
の修正の仕方で済むはずがなく、大変な時間と労力がかかり、数が積み重なると、結果スケジュールの崩壊を招く。惨状である。
誰が担当することになるか先の読めない制作体制では無難なカット設計、もしくは修正するメインスタッフのキャパシティと相談しつつ設計せざるを得ない。たいていがキャパシティオーバーになる(笑)
いつだって待っているのは惨状である。
なるべく惨状を見ないために、これまではせいぜい1カット内に1アクション2アクション、を基本にして、カット内でこなすべき情報量を減らしてきた。短
いカットを積むことで、作画上面倒になる「運動」をカットの繋ぎ目に追い出し、芝居のテンポそのものをカット割りで負うように設計してきた。つもり。
無論今回も大筋での芝居のテンポはコンテで決まってはいるが、カット内で生み出さなければならない芝居やテンポが飛躍的に増大している。当然、担当する
原画マンの負担が大変大きくなり、同時に力量が問われることになる。ことになる、って問うているのは私が描いたコンテなのだが。
なぜそんな無謀なコンテを描くのか、我ながらかなり危険な冒険だとは思っていたが、何の当てもなく暴挙に出たわけではない。参加してくれる原画マンの顔
ぶれを考えながら、労力と難易度を調整してきたつもりである。原画マンの素晴らしい仕事については後で触れようと思うが、当てになる上手な人の参加の確約
が取れ、担当できそうなカット数を想定して、大変なシーンとそうでもないシーンを意図的に作り分けてきた。筈。そのつもり。しかしけれどもなのにやっぱり
大変なことになってしまうのはアニメーション制作の性であろうか。単に私の読みが甘いのか。しかし誰が担当するか分からないシーンを大変にすることは極力
避けてきたことに間違いはない。
現実的に実現出来そうにもない、それこそ砂上の楼閣を夢みて、作り手の欲求だの理想だのといったたわけたことを口にするのはただの馬鹿者だと私は思う。
アニメーション制作は過酷なまでに現実的なものである。淀んで混沌とした現実に首まで浸かるからこそ見られるのが理想であり夢である。
現実に片足を入れもせずに夢だの理想だのを語る人たちにアニメーションはおろかどんな作品制作だって出来る筈もない、と私は思う。
03.4.17
決算2002-57
シーンやカット内容が大変かそうでないかは、単純にカット内でこなすべき情報量の多寡ということもあるが、これは先に述べた「運動」と「芝居」に関わるこ
とが多い。単純な「運動」や「段取り芝居」だけで成立するカットと、人物表現の「芝居」が主になるカットでは後者の方が遙かに難易度が高い。
無論、単純にモブシーンやスペクタクルシーンなど、こなすべき情報量が多いものは、いかに個々の運動が平易であっても作画の労力は大変である。物量を吸収するには単純に予算と時間が必要であり、それらはうちの所帯にはあまり縁がない(笑)
ただ、いかに物量が多くても、それが単純な運動の積み重ねであれば、カット内でやるべき内容や情報をスタッフ間で共有するのは容易である。しかし「芝居」はそうは行かない。
「芝居」はカット内容はもちろん、作品全体を理解したり、その世界観を把握していないとこなせるものではない。作品における価値観の共有が必要なのであ
る。飛び入りで参加してこなせる代物ではない(無論、飛び入りでもそれだけのことが出来る能力を持った人もごくわずかにはいる)。
ともかく、通り一遍の原画を積み重ねただけではどうにもならないカットが多くなっている。長尺が多いのはそれだけ人物を表現するために用意されたという
ことであり、そのカットを成立させるには単なる作画の技術だけでなく、作品を理解する知能とセンスも必要である。
芝居をじっくり見せたいが故に、今回はレイアウトもひどく「フツー」にしている。気を衒ったり、これみよがしな構図は元々嫌いだが今回はいつにも増して何でもないカメラ位置、構図にしている。
アクションシーンを除けばカメラワークもごくごく少なく、フィックスがほとんどである。足りない芝居をカメラの芝居で補うようなことは一切していない。
T.U.やT.B.(トラックアップとトラックバックの略で、要するにカメラが寄ったり引いたりすること)もほとんど使っていないのではなかろうか。ホー
ムレス3人が歩き回る、という話の割りには、歩きのフォローなどはそれほど多くはないと思われる。
その分これまでに比べて引き気味の絵が非常に多くなっている。ロングショットを多用しているわけではないが、アップはこれまでより比較的少なめ、バスト
ショットもこれまでよりも一回りくらい引き気味にしている。カット内での色々な動きが必要になるので、寄り気味にすると当然人物の動きにつけてカメラワー
クが必要になる。それを避けるため、諸々の芝居や動きを捉えきれるだけのマージンを加えた分、カメラは引き気味になる。
いいことずくめのようだがことはそう単純なわけもなく、これまで何故そうした設計にしてこなかったかというと、カメラを引き気味にすれば当然見える背景
の面積も大きくなり、背景の負担が大きくなるからである。空間やレイアウトのボロも出やすくなるため、レイアウト作業の負担も飛躍的に増大する。
何より長編アニメーション制作は物量が相手である。1カット単位で考えればさほど手間がかからないものも、積み重なれば膨大な作業量となるし、それを吸
収できる時間も予算も体制も自信もなかったので避けてきた。どう頑張ったところで私には親からもらった手が二本しかない。作監は一人しかいない。同じ体制
で制作に臨めば惨状を招くのは必至である。
今回は物量と質を吸収するためにあれこれと対策を講じた。
まず、手を増やすことにした。
03.4.20
決算2002-58
予測に成り立つ賢者の対処としては、第一に体制としてチェック側に描き手を増やした。増やしたといってもレイアウトチェック専門の人間を立てたわけではな
く、メインスタッフの人数は以前と変わりない。メインスタッフの総数を増やせれば、ことは幾分単純なのだが、いかんせん金がない(笑)
足りない予算は「知恵」で補おうというのが私の態度である。「根性」や「情熱」といった当てにならない精神力にはなるべく依存しない。自分を過度に信用して痛い目を見た経験は多いことだよ。
「千年」に比べれば「東京ゴッド〜」の予算は倍増といえるが、苦しい台所事情に変わりはない。大雑把にいえば、「千年女優」を普通に劇場作品として作ろう
とすれば最低限このくらいはかかる、という数字を算出したのが「東京ゴッド〜」の予算だといっていい。裏を返せば「千年」の作り方があまりに無謀だったと
もいえるのだが。予算以上の内容を求めるのは作り手の善なる態度だとしても、行き過ぎは褒められたものではない。創作意欲と経済や商業を秤に掛けることも
大変重要である。
「千年」にしろ「東京ゴッド〜」にしろ、与えられた予算は無論ありがたい予算だと身に滲みて思っているし、私ごときのオリジナル作品には過分な数字だとも思っている。だからといって予算が足りているということにもならないあたりが難しい。
今回、「演出」というポジションをアニメーターである古屋勝悟氏にお願いしたことがもっとも大きな制作体制の変化であり、作画面で劇的とさえいえる効果をもたらしている。
これまで2作は「演出」は絵を描かないポジションだったが、ここに絵を描く手を導入することで絵のチェック体制を強化したわけである。古屋君は「千年女優」で、老千代子の山荘のシーンを原画・作監で担当してくれた有能なアニメーターである。
古屋君はレイアウトや原画の技術も、演出的な作品の理解力も非常に高い。スタッフワークを円滑に行う人間性も大きな資質である。「千年」ボックス版
DVDのインタビューで彼自身語っているように、地味な芝居を確実に重ねていくことを好むという資質も、業界では大変珍しい。
演出というポジションは監督の仕事内容と同じく、本人の能力や制作体制の在り方によって守備範囲も多様に変化するので、説明し出すと切りがないが、これ
まで2作に限っていえば、「絵は人一倍描くがアニメに拙い監督」の仕事を、絵以外の部分で全般に渡って補っていたのが演出である。急場においてはセリフや
芝居の直しなどもお任せしたりもしたが、中心となる守備範囲はやはり撮影処理などのテクニカルな面である。アナログの撮影台には色々な制約があるのだが、
私はそうしたことはとんと知らない。知らないで済ませてこれたのは演出のポジションがしっかりしてくれていたからである。
今回「東京ゴッド〜」はデジタル撮影である。アナログ撮影に比べれば、制約は飛躍的に減っており、テクニカルな面での処理等については撮影監督に相談す
る形にして、演出・古屋君にはレイアウト・原画チェックはもちろん、大幅な原画直しなどもお願いしており、いわば「作画的な演出」という傾向である。
これまでは、作監にはキャラの直しに集中してもらうようにして、構図や原図などのレイアウトの根本的な直しに関しては、ほとんど私一人で負担してきた。
それを古屋君とワークシェアリングしたことで、作業プロセスは飛躍的に効率が上昇したといえる。原画チェックに対しても同様、というよりむしろ監督より演
出の比重が大きくなり、具体的な原画の直しなどは古屋君にすくってもらっている。
03.4.21
決算2002-59
デジタル撮影に変わることで、アナログ撮影台の制約からは解放されたが、別な面での問題が多数生まれてもいる。
業界全体がデジタルに切り替わってから年月を経ていないというせいもあろうが、アナログ撮影に比べて、撮影の方法論が多種多様でこれといった方法論が統
一されていない。大量生産的なテレビシリーズなどは体制も確立されているのかもしれないが、極端な話、作品ごとに方法論を探って行くというのが現状ではな
かろうか。
よそのスタジオの内情は分からないが、マッドハウスの他の作品を見ていてもそうした感じを受ける。もっとも、マッドハウスの場合アナログからデジタルへ
の移行は業界の中でももっとも遅いほうだったので、単にノウハウが蓄積されていないだけなのかもしれないが。
ただ、アナログの撮影台に比べて、コンピュータは正に日進月歩なので、ハードやソフトの登場やバージョンアップに左右されることが多く、これから先も統
一された方法論は生まれないのではないかと思われる。撮影の根幹をなすアニメーションソフト、レタスやアニモ、トゥーンズなどが混在している、というだけ
でも方法論が多様になるのは必然であろうし、そこに2Dエフェクトや3Dが混じってくればさらに多様性は膨らむ。
ある意味、コンピュータ撮影は何でも出来る。何でも出来るという自由度は半面大きな弊害も生んでいる。その最たるものは「リテークが増える」(笑)
要するにデジタルだと「簡単に直せる」という認識があるため、「ちょっと違う」「もう少しこう」「出来ればあと少しこう」といった、ある意味「クリエーターとしての善なるこだわり」を追求しやすい。
「ある意味」と断ったのは、それは必ずしも「善なる」ものでも何でもなく、「(撮影した結果を)見てから考えれば済む」「見てダメなら直してもらえば良い
や」という安直な考えに立脚していることが多いためであろう。撮影に入れる前までの各素材のチェックの目が、アナログの当時に比べ粗くなっているように見
受けられる。トライアンドエラーを繰り返せるのは大きな利点に間違いないが、程度を考えないとエライことになる。
さらには元々の設計がダメなカットをデジタルで何とかしよう、という低劣な演出までが混じりやすいため、デジタルに変わってからは特に撮影部門に大きなしわ寄せが行くようで、結果、スケジュールが遅れて惨状を招く。
アナログがデジタルに変わろうが、結局最後はいつも惨状なのである(笑)
今回、「東京ゴッドファーザーズ」の撮影はスタジオ・イプセにお願いしている。元々はサンライズにいたデジタル関係のスタッフが独立したと聞いている
が、大きくない会社なので、撮影のキャパシティが小さい反面フットワークが軽い。初めて一緒に仕事をするスタジオだが、デジタルに絡む処理等に対して「何
でもやる」という在り方は「東京ゴッド〜」の編成には向いていると思える。本当に「何でもやる」という態度のスタジオなのか、当作品が「何でもさせてし
まっている」のかはよく分からないが。
これまでのいわゆるテクニカルな面でのフォローも演出から撮影監督に移行している。私も全編デジタルによるアニメーション制作は初めてなので、試したいことがたくさんあると同時に学ぶことはそれ以上に多く、分からないことはさらに多い。
03.4.22
決算2002-60
世間的にはデジタルというと「3D」が脚光を浴びやすいようだが、「東京ゴッド〜」における3DCGの占める割合は少ない。「東京ゴッド〜」が要求する
3Dのカットは、やれ「カップ麺の器で作られた風車をモデリングして回転させる」だの「出生届を作画に合わせて貼り込む」といった実に華のないものが多
い。
一番多用しているのは、カメラの縦移動に伴い背景が動く場合であるが、3DCGが強く印象に残るようなカット設計はしていないはずである。
3Dをあまり使わないのは、私自身にノウハウもなければ、予算的に難しいという問題も大きいが、現在の私の興味がどちらかというと2D的な試みの方に向
いているせいであろう。巷に溢れる3Dを使用したアニメーションを見ても、手法的に興味を持てず、実際上手く行っているケースをほとんど見たことがないの
で、積極的に手を出す気にならない。
乱暴な話になるが、日本人の物の捉え方と3DCGという方法の相性が悪いのではないかとすら思っている。これはまったくの私見である。
洋画が輸入されて以後、日本の絵画教育も欧米風の物の捉え方、陰影による立体感、量的な塊などで捉えるデッサンを良しとされるようになったと思うのだ
が、やはり日本人は浮世絵などに見られる線によって輪郭で対象を捉える、という2D的な見方が基礎になっているように思える。
私自身がどうもそういう体質らしいので、ついこうした見方になるのかもしれないが、しかし日本のアニメーションや漫画の絵はやはり立体的な捉え方、量感
を捉えるような見方を基本に置いてはいないと思えるし、だからこそ得られた魅力が日本の漫画絵の美点ではないかとも思える。
ここでアメリカンコミックスを引き合いに出すのもどうかと思うが、アメコミの絵などを見ると顕著なとおり、あちらの絵描きは「骨格・筋肉」といった人体
の構造的な成り立ちを捉えることが最低限の基礎になっている。絵の基礎にもコンストラクションが重視されているのであろう。こうした構造や量感で捉える物
の見方は、3D空間との相性も良いのではないかと思える。
日本でも人体デッサンの基礎として骨格やら筋肉などが一応は大事とされているが、それが大きく反映された絵が巷間あまり見られないのは、やはり物の捉え
方が構造的な方向に向かないせいではあるまいか。そうした見方を持っている人材もいるのかもしれないが、見る側が何を快しとするのか、平たく言えばどうい
うものに人気があるかと言えば、やはり平面的な漫画絵なのだから、多くの日本人の好みがそうなのであろう。
これは絵だけではなく、映画のシナリオなどにも顕著に見られる傾向で、構成・構造という点で言えば日本の映画は甚だ弱いと思われる。恐らく欧米の小説と日本の小説を比べても同じような傾向が見られるのではないだろうか。
こうした違いはおそらく言語の差によると思われる。構成といういわば基礎的な構造に目が向かないのは日本語自体がコンストラクションの弱い言語だからなのではないだろうか。
言語が物の考え方の基礎をなすわけだから、同じ問題は、日本人の特性としてやり玉に挙げられる「曖昧さ」という観点からも論じられようか。英語表現は日
本語に比べて明解といわれるし、英語やその親戚関係にある言語を母語とする西欧圏では、意思表明、態度は明解であると言われる。一応断っておくと、私は
「曖昧さ」を長所と思いこそすれ短所などとは決して考えていない。
大雑把にいってしまえば、2Dは曖昧さを大きく許容でき、3Dはその許容量が小さく空間の把握は明解といえる。仮想的とはいえ3D空間は絶対的なものである。
もちろん3D空間表現においても実際には見かけ上「それらしく見えること」という基準も導入されて多くのウソが使われているであろうが、概念としては座
標によって決定される絶対的な空間である。逆に2Dの方は、見かけ上「それらしく見えること」という相対的な考え方が前提にあり、絶対的な空間を想定する
遠近法などは、らしく見せるための支援として運用されているように思える。絶対的な方法論と相対的な方法論、その主従関係が逆になっている、という言い方
が出来るのではないか。
もっともらしいことを書いているつもりだが、当てずっぽうに過ぎない。
素人が聞きかじった言葉を重ねてもまるで説得力がないので、私的文化論(笑)はこのくらいにしておくが、そう外れた見方でもないと思っている。もちろん
構造や構成に弱さがあったとしても、だから劣っているということではなく、別の良さがある。その良さをもっと考えて行かねばならないと思っているし、弱さ
は弱さとして補って行くことも考える必要がある。
03.4.24 |
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