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東京ゴッドファーザーズ雑考
-決算2002より-
03
決算2002-61
「東京ゴッド〜」そのものの話に戻る。
さて、賢者のレイアウト対策としてはもう一つ、コンテの「絵」の描き方を改めた。これまでのコンテも他の作品と比べれば遙かに丁寧に描かれていると言え
るし、「千年」ではコンテの拡大コピーをレイアウトの下書きとすることも多かったのだが、それをさらに精度を上げてコンテの絵を描き、コンテ拡大をレイア
ウトの下書きとする、という方法をシステム化した。作打ちをするともれなく拡大コピーがついてくる、と。
これはこれで問題も多々あるのだが、現状では最も懸命な策に思えた。私のレイアウト能力がどの程度のものかはともかく、現状ではかなり優秀……それは謙
遜しすぎだな、超一流といってもいい。冗談はともかく最大の武器になる能力に間違いはないし、その能力を薄く広く展開することで作品の質を底上げすること
にした。無論、私がコンテ用紙の小さなフレームに描いた絵など穴だらけだし、拡大すれば尚のことである。それでも十人並みのレイアウトに比べれば百倍以上
ましなレベルではある。現状のアニメーション業界のレイアウトの平均的なレベルは大変低いのである。どのくらい低いかというと、「どうすれば良いものにな
るか」ということすら分かっていない人がほとんどである、というくらい低い。描くだけの技術があっても、良し悪しの判断が出来なければ結局は描けないのと
イコールになってしまう。
レイアウト底上げのためにコンテの絵をいつもよりは丁寧に描いたのだが、しかし長い目で見ると大きな弊害もある。アニメーターの巨匠、井上俊之氏に指摘
されたのだが、コンテでレディメイドにするということは、原画マンが一からレイアウトを取ること、レイアウト能力を磨く機会を奪うことになる。結果、やは
りレイアウトの出来る人がいなくなる。確かに悪循環ではある。どうしたものだろうか(笑)
私自身1カット1カットをもっと丹念に描きたい気持ちもあるし、一つ一つのカットをより良くするのは実は簡単なのだが、それだけの時間はない。
とにかくレイアウト作業の負担軽減を優先しなければならない。実際、場合によっては、コンテ拡大をそのまま手を加えずBG原図としているし、そうした
カットは1割以上はあると思われる。そんな荒技でも成立しているのは足りない部分は各セクションで補ってもらっているからであり、これは蓄積に裏打ちされ
た自信の顕れといえる。伊達に長編2本を作ってきたわけではない。と思いたい。
03.4.25
決算2002-62
コンテも後半になるに従ってさらにシステム化が進み、コンテ上でBG原図とキャラを分けて描いておき、PC上で合成したりもしている。とにかくレイアウト
の負担を軽減し、原画マンには芝居に専念して欲しいという考えであった。また、コンテでそこまでの負担を負ったのは、美術設定を作る労力を削りたかったと
いう思惑もある。
今回、美術設定がない。
場所をどんどん移動して行く話なので、作り出したら切りがないのである。私は「設定がないとコンテが描けない」などというわがままは言わない監督であ
る。どころか、なければ作りながらでも描き進める。どうせ自分で描くのなら、コンテに美術設定も含むことにした。
実際には何点か美監にラフを描いてもらったり、資料写真等を用意してもらったりしたが、ディテール等を最終的に決め込むのはコンテにおける作業である。
コンテ作業の負担が増大するとはいえ、コンテで設定を兼ねることにも利点はある。画面に出てこない部分は設定しなくても良いのである。
設定を専門の人間に頼む場合、実際の画面上どこまで必要になるのか分からないため、見えない部分、必要ではない部分まで描かれてくることが多い。私は設
定業もこなしてきたので、そのあたりの機微はよく知っているつもりである。無駄な部分まで考えて、必要な部分のみを使うというのは、ある意味作品的な豊か
さと言えるが、なにしろ所帯は貧乏である。もっとも、ふんだんに金があってもそんな無駄はしたくないが。
とにかく無駄な労力は極力避け、効率化を図らねばならない。
コンテに設定を含むとはいえ、コンテ用紙の小さなフレームに描かれた絵では、実際のレイアウト・背景作業にはディテールなどが足りない。そのあたりは資料写真で補うことになる。
ここでデジタルカメラが大変に力を発揮してくれている。
監督、演出、作監、美監とメインスタッフはすべて自前のデジタルカメラを持っている。ロケハン、作画参考を撮るなど実に重宝で、いまや必携のアイテムである。
「東京ゴッド〜」はそのタイトル通り、東京都内が舞台となっている。メインスタッフはデジタルカメラを携えて、何度かに分けて都内あちこちをロケハンして回った。
舞台となる場所を具体的に特定するのは好みではないので、「漠然と東京」という扱いである。もちろん、都庁のビル、新宿中央公園、東京タワー、勝ち鬨橋
など、それとはっきり分かるものがが出てきたりはするが、舞台となるほとんどは漠然と「都内にありそうな感じがする場所」という基準で設定している。ロケ
ハンで得た画像はあくまで素材であり、複数のイメージを合成することで「ありそうな場所」を生成している。
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冒頭でミユキがいるビル屋上の設定。ディテールの説明のために私が作成したもの。こういう設定を作ればスタッフに分かりやすかろう、と思ったし、発想としては悪くないと思うのだが、これ一枚きりしか作れなかった。面倒だったからである。
上の写真はほとんどが吉祥寺で撮影したものだが、某デパート店内から外に見える風景を夢中になって撮影していたら「不審人物」と見とがめられて怒られてしまった。すいません。
結局は注意されただけで済んだが、撮影したデータを取り上げられるかもしれないと思って、私は謝罪しながらもすかさず後ろ手にカメラからメモリを抜き取っていた(笑) |
写真そのままを使用しているケースは皆無の筈だが、「東京ゴッド〜」の美術や背景を見た多くの人が「写真みたい」という言葉を口にする。確かに描画はた
いへん写実的にしてもらっているし、それが作品の意図でもある。しかし、写真風に見えるのは結果的にそうなっているというだけで、写真のようにしたいと
思っているわけではない。写真と実際に描かれた背景との間には深くて広い溝があるのだが、素人さんには分からなくて良いことだ。まぁ、同業者でも分からな
い人がほとんどだろうが。
人物の写真画像をいくら簡単な線でトレスしたところでキャラクターにはなり得ないのと同じように、写真を相手にいくら格闘しても演出や物語に必要な「こなれた」舞台にはならないのである。
ついでに触れておくと、逆に、漫画絵をいくら細かく描写したところで写実的にはならない。ならないのに無理に描写だけを加えて歪さだけが浮き上がってくる絵が世間に溢れている。
よしゃあいいのに、まったく。
03.4.26
決算2002-63
「写真」と「リアリティを求めた写実性」との違い、これについて説明し出すと長くなるが簡単に触れてみる。私の場合、まず絵として構成した画面を考え、そこに写真的な見栄えを施している。あくまで「絵」ありきである。写真の側から発想することは無い。
絵の上手でない人が、闇雲に写実的にしようとして写真を参考に絵を描いた場合、対象物の肝心な構成や構造を把握しないまま、細部の迷宮に陥るケースが多
いようだが、こうした頭の悪い失敗例が「写真からの発想」、というよりは「写真に頼った発想」といってよく、写真に呑まれた不幸な例である。
写真は絵を描くための参考、補強材料であり、要するに絵の対象ではないのである。ここが分かりやすい大きな違いである。
当たり前の話だが「絵ありき」、正しくは「イメージありき」が私のレイアウト感覚の根本であり、美術背景もそれに準じてくれた上で、素晴らしい写実性を
加え、結果、さながら「写真みたい」という背景画が出来上がる。結果的には同じように見えるかもしれないが、写真とはまったく異なる発想による。別に分
かってもらわなくてもけっこうなのだが(笑)
デジタルカメラの最大の利点は、何と言っても現像を待たずにすぐに見られることで、作業中、資料が足りなくなった場合などは、随時デジタルカメラで必要
なディテールなどをハンティングしてきた。絵として説得力が足りない部分に、ディテールをペッタンペッタンと貼り付けるように描き加えてゆくわけだ。場合
によっては、本当にデジタルカメラの画像を直接背景画に貼り付けているケースもある。面積が大きく単調になりがちな面などはあれこれテクスチャも貼り付け
る。
先の、絵と写真の差異をもう少し説明するとこんな言い方が出来る。
「必要となる最も単純な構造を考え、そこにディテールを貼り付ける」というのが私の方法論の一つである。
まずストーリーや演出の都合で必要となる舞台の構造を考える。
たとえば「狭い路地」。
狭い路地を簡単に表現すると、2本の線で事足りる。キャラがいてその両脇に線を描いて「路地である」とすれば、どの程度の狭さなのかは分かる。
続けて具体化すれば、さらに、その2本の線の奥に垂直方向の線をそれぞれ加えると、どの程度の奥行きがある路地かが表現され、両脇の壁となる建物がどの
くらいの高さかが設定される。奥に路地の切れ目があるなら、ではその奥には何が見えるか。たとえばそれを大通りとするなら、どの程度の大きさに建物が見え
ているかを設定する。
おおむねこれで「ストーリーや演出の都合で必要となる舞台の構造」は出来上がる。このシーンをどうまとめるか、トータルなイメージが必要である。これを次のように考えるとする。
「狭く汚い路地で傷ついて倒れる主人公。路地の奥には明るい大通りが見え、多くの人が横切って行くが誰も主人公には気が付かない。大通りのビルの上に顔を覗かせた東京タワーだけが見ているようだ」
唐突に東京タワーが出てきたが、申し訳ない。これは「東京ゴッド〜」本篇中にあるカットを想定しているため。本篇を見る楽しみの一つとでもしていただきたい。
さて、これで出来上がっていた「ストーリーや演出の都合で必要となる舞台の構造」に、上記の「イメージ」に従ってハンティングしてきたディテールを貼り
付ければ良い。発想としては3D空間にテクスチャなどを貼り込む方法と似たようなものといえば分かりやすいであろうか。よけい分かりにくいか(笑)
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先の文中で想定されていたのが、上のコンテにあるC.464。狭い路地でギンちゃんが倒れるカットである。
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決算2002-64
路地を例に描く話の続き。
路地の左の面に窓やパイプやダクトを、下の方にビールケースやゴミ袋が積まれたディテールを貼り付け、右の面にはエアコンの室外機などを配すれば「狭く汚い路地」が生まれてくる。この段になってハンティングしてきた写真画像が役に立ってくれる。
C.464の舞台を設定するに当たって参考にしたデジタルカメラ画像。すべて私が撮影したもので、上の2枚は同じ場所を切り返して撮影していると思われる。
坂の向こうには大きな通りがあるが、その向こうに東京タワーは見えない。見えないが、「見えるといいな」と思ったのであろう。
舞台の基本的なイメージは、上の2枚を参考にさらに狭い路地にして、ゴミを多めに配して汚い裏路地のイメージを強調している。室外機や壁を這うダクトやパイプは下の一枚(確か三鷹で撮影)を参考にしていると思われる。 |
この時、留意しなくてはならないことが一つ。「もっとも単純な構造」からリアリティや写実性を加えて行く場合、重要なことは、最初に設定した「もっとも単
純な構造」が露骨にならないようにすることである。狭い路地を簡単に表現するために引いた最初の2本の線、これが最終的にはっきりと目に残るようではちゃ
ちなことこの上ない。どういうわけか建物と地面の接地する線が露わになるとスケール感に欠けることが多い。なので、この線をゴミやら凹凸やらその他色々な
もので分断して、目に残らないようにしてやる。
画面上、目に残るような直線、特に画面を横断縦断するような線は避けなくてはならない。実景には意外とそうした直線も多いのだが、絵としてのリアリティ
には障害となりやすいので、意図的に避ける。いわば絵を演出する。逆に、演出として画面を分断する線ということも考えられる。
こうして直線を分断するように適宜ものを置いたり、角を作って曲げたりして行く。こうした繰り返しによって、「もっとも単純な構造」から「複雑そうに見
える」空間を削りだして行く。この「複雑そうに見える」というのが大切で、本当に複雑な空間にしようとすると、手間は何倍にも膨れ上がる。出来上がりとし
て同じような効果が得られるなら時間がかからない方が得策である。
複雑に見える実景から単純な構造を抜き出して把握し、そこから少し複雑な空間を削りだしてディテールを加える。ディテールはいわば「らしさ」であり、ディテールに目を奪われず構造を把握することがまず肝要である。
この例では説明の都合上、トータルな「イメージ」を後に記したが、発想としては無論先にイメージがある。先に記した「狭く汚い路地で傷ついて倒れる主人
公。路地の奥には明るい大通りが見え……」というイメージがあり、ロケハンではそれに近いような場所を一応探すのだが、イメージ通りの場所などそうそうあ
るわけもなく、完全に一致するなどあるわけもない。そこで実景をねじ曲げ、イメージに沿って画像を合成して行くのである。
私なりの方法論を簡単に記してみたが、しかしこれは何も特別でも何でもなく、多くの人がそうしているのではないだろうか。ただ、絵が上手くない人、参考
写真を見ることに慣れないうちは、どうしても写真に呑まれがちになる。写真を参考にするにも慣れが必要であろう。
こ
れが完成したC.464の本篇画像。ゴミはすべてハーモニーで処理されている。奥の通りを歩くモブは他カットからの兼用モブで、横切る車も使い回しであ
る。またギンちゃんの奥に見える蒸気も別カットからの流用。いずれもデジタルでサイズを縮小したり変形してこのカットに合わせている。 |
決算2002-65
写真というものが文字通り「真」を「写」しているかどうかはともかく、たとえば何気なく写された街の風景に含まれる情報量は膨大である。それをまるごと紙
の上に手作業で再現するなど、可能不可能という以前に馬鹿げている。だったらそれこそ写真でいいではないか、ということになる。
自然物であろうが人造物であろうが、写真が切り取る一瞬を成立させている理屈は人知を越えている。街の成立に要した長い時間の堆積、一瞬の風や光線、その他色々。
人間はついつい論理性に沿ってものを見る以上、一見意味不明の論理も交えて構築された図像を意識的に再現することは不可能と思われる。「なぜそこにそれ
があるのか分からない」くらいのことならともかく、写真画像には「それが何だか分からないもの」が溢れていたりする。分からないものを分からないものとし
て絵を描くのは非常に難しい。
「おちくまの裏に顔を出したたけそもが、アッという間になしじのようにこそげ落ちた」
訳の分からないことを正気で言葉に出し続けられないように、訳の分からないものを絵にし続けることは大変難しい。難しいというより人間の生理に反するのではないか。
よって、わけの分からないものには目をつぶり、わけの分かるものを選択的に取り上げて絵として再現することになるのだが、この時点で情報量はグッと落ち
る。写真から何をどう取捨選択するか、そこに「らしさ」が求められるが、いかに「らしさ」を留めたところで、写真から取りこぼした情報を補う努力をしない
限り、再現される絵が「写真のよう」になるはずもない。つまり写真みたいに見えるような絵は、それだけ絵としてのウソや方便や冗談などの演出がなされてい
る。この演出が見えない人には写真と写実性の違いは見えてくるまい。見るには自らの絵の体験と訓練が必要であろう。もっとも、自らの絵の体験といっても、
低い写実性しか持たない絵しか描いていない人間には分からないかもしれないが。自分の中にないものは眼前にあっても見えないものであろう。
絵を描いていて、眼前にリアリティを持った空間が現出してくる様には何ともいえぬ快感がある。元はただの紙なのにな、といまだに思うことがある。まるで
突然紙に穴が空いて、空間が広がるような感触とでもいうのだろうか。飛躍してロマンティシズムを多分に加えて言えば、その時どこにでも行けるような気さえ
する。書いててこっ恥ずかしいけど(笑)
レイアウトに関してはそのうち画像を交えつつ言語化してみたいと思っているが、書き始めると量も時間も膨大にかかりそうなので手控えている。そんなことをしたところで何になるという気もする(笑)
ともかく写実的な絵を目指されている方は、くれぐれも細部の迷宮に陥らないようご注意召され。
03.4.30
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東京ゴッドファーザーズ雑考●04
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