Interview 10
2001年11月アメリカからと2002年4月イタリアからの
二つのインタビューの合成 (未発表)

 ここに掲載するテキストは二つのメールによるインタビューテキストを合成したものです。そしてこの二つのテキストは、実はどこにも送信されず誰の目にも触れなかったものでもあります。私が途中で放り出したからです。
 いずれも海外からのメールインタビューで、それぞれ2001年11月と2002年4月に受け取っています。片方はニューヨークにいるネット上で知り合った知人から受けたもので、片方は確かイタリアのライターさんからのものです。
 お二人には大変申し訳ないことをしてしまいましたが、多分私も忙しいとか色々な事情があって放りだしてしまったのでしょう。どうもすいません。
 書きかけのテキストを合わせるとけっこうな量になっていたので、二つをミックスして掲載することにしました。



 最初に簡単な自己紹介とこれまでの作品についてお話していただけますか?

 私は1963年生まれで今年(2001年)38歳、日本のアニメーション監督としては若い部類に入ると思います。またアニメーション業界でのキャリアが11年と短い分、年齢のわりには監督作品数も参加作品数も非常に少ない方です。
 私は武蔵野美術大学でグラフィックデザインを専攻していましたが、趣味で描いていた漫画が講談社ヤングマガジン主催の「ちばてつや賞」優秀新人賞に入り、在学中に漫画家としての活動を開始しました。
 20代の半ばまで漫画を専門にして創作活動をしていましたが、漫画家としてはあまり成果を上げられませんでした。7年の間に単行本を2冊、「海帰線」と「ワールドアパートメントホラー」しか出していません。
 27歳で初めてアニメーション制作に参加しました。
 大友克洋氏脚本の「老人Z」というビデオアニメーション(後に劇場用アニメーションとして公開されますが)で、監督の北久保弘之氏にオファーを受け、美 術設定を担当しました。美術設定とは実写映画でいうといわゆるプロダクションデザインにあたるもので、シーンの舞台設定ということです。
 また、ただ美術設定をするだけでなく、本編のレイアウトも10分の1ほど担当しました。
 日本のアニメーションでいうレイアウトとは、1カットごとの具体的な設計をするプロセスで、絵コンテに沿って構図を決め、その空間の中でキャラクターを どう動かすかの基本的な段取りを絵にする作業です。このレイアウトを元にアニメーターが実際のアニメート作業を行うわけです。通常はアニメーター自身がレ イアウトも担当しますが、私は原画は描けなかったので当時はレイアウトだけを担当していました。
 この「老人Z」以後、レイアウト担当として劇場用アニメーション「走れメロス」「機動警察パトレイバー2」に参加、「MEMORIES/彼女の思いで」では美術設定・レイアウトの他、脚本も担当しました。
 その後「ジョジョの奇妙な冒険」という30分もののビデオシリーズの1本を演出しました。脚本・絵コンテ・演出というクレジットになっていますが、実際 はさらに美術設定や大半のレイアウトも自分で描きました。この仕事は非常に楽しかったですし、私個人にとってもたいへん良いアニメーション修行になりまし た。
 その後、漫画の仕事に戻るのですが、当時抱えていた2本の連載が両方とも不幸な形で中途で終了しました。片方は原作者が無責任に逃げ出し、もう一方はその雑誌が廃刊の憂き目に遭いました。どうも私の場合漫画の仕事では運が少ないようです。
 その頃知り合いのプロデューサーから「パーフェクトブルー」の監督についてオファーがあり、アニメーションの世界に戻ることになります。
「パーフェクトブルー」完成後は他の方の監督作品を手伝ったりしながら自分の企画を考え、1999年に「千年女優」に着手し、今年2001年初頭にその 「千年女優」は完成し、現在公開待機中です。またすでにその次の「東京ゴッドファーザーズ」制作がスタートしており、2002年いっぱいで完成の予定で す。(※「東京ゴッド〜」は実際には2003年の8月完成)

監督は絵というイメージを基本にした“静”と“動”両方を使われていますが、どちらが媒体としてより強いとお考えですか?

 紙媒体のいわゆる「漫画」と、「アニメーション」という映像媒体の違いということですね。
 確かにどちらも「絵」を使ったメディアですが、その性格は大きく異なります。
 ただどちらが「媒体として強いか」というと、単純に比較は出来ないように思います。
 例えばアニメーション制作には時間がかかります。今すぐ表現したいと思うアイディアも、アニメーション映画の場合実際に発表できるまでには少なくとも2 年はかかるのです。その点、漫画は即応性があります。思い付きを比較的短時間で形に出来る。これは大変な利点だと思いますし、漫画が現在の日本文化を代表 するメディアになっている要因の一つだと思います。
 単純に日本国内だけを考えるならば漫画というメディアの浸透率も高いですし、影響力も高いメディアだと思いますが、国外も考えるとアニメーションの方が国際的な舞台に出て行きやすいように思えます。
 もっともこれは私個人の経験と実感に過ぎません。日本のアニメーションの大多数は海外に大きく紹介されることもないでしょうし、日本の漫画でも大きく海外で紹介されている物もありますからね。

 アニメの方が国際的な舞台に出て行きやすいというのは、海外の人が内容的に理解しやすい、価値を共有できる作品が多いという意味ではありません。
 漫画の鑑賞の仕方は大きく読者に委ねられています。たとえば、どういうテンポで読むのかは読者次第です。日本人の描いた漫画は日本人の呼吸で読んでこそ 漫画として完成する面があると思うのですが、それを海外の人間がその国の情緒で読めば、まったく違う物になると思うのです。
 それはもちろん映画や小説やアニメーションにも言えることなのですが、日本の漫画は読者と共有している約束事が多いように思えるのです。だからお約束を 共有していない日本以外の人が読んでも同じように読める(もちろん作品の好き嫌いは別にして)とは思えない、というだけです。
 その点アニメーションは、それを体験する時間はフィルムの長さによって決められていますし、音も具体的につけられている。セリフの強い、弱いと言った調 子も耳で聞けば分かるわけですから、観客に委ねられる部分は漫画よりも随分少ないでしょうし、ある程度誰が見ても同じように見えるのではないかと思うので す。

 制作者としての私個人が感じている両者の性格の違いについて記します。
 まず「漫画」は絵が動くわけでも音がつくわけでもありません。日本の漫画ではたいていの場合、色も着きません。先述したように作品を体験する時間が、漫画の場合読者に委ねられている、という点も大きな違いです。
 こうして書くと、まるでアニメーションの方が利点が大きいように思われるかもしれませんが、漫画の場合、上記のことは裏を返せば読者の想像に任せること が出来るとも言えるわけで、描こうとする物語や演出方法によって、漫画に向いている物もあればアニメーションに向いている物もある、ということだと思って います。
 もちろん私はどちらも好きですが、現在はアニメーションの面白さにより惹かれています。
 というのもアニメーションの方が作っていて意外性があるのです。
 私にとって両者の大きく違う点は「漫画」は個人制作で、「アニメーション」は集団制作という点です。その点では漫画の方がストレートに自分の考えを画面 に表現できるのですが、逆に言うと、自分以外のアイディアは出てこないことにもなり、アニメーション制作におけるような意外性は期待できません。
 アニメーションの監督とアニメーターは、実写の監督と役者の関係といっていい面もあり、監督の当初のイメージとは違っていながら、よりその場面にふさわ しい芝居が生まれてくることもあり得るわけです。それは美術や色彩、音響、音楽を担当する人間との関係にも言えることです。
 自分が生み出したストーリーやアイディアが様々な意見や巡り合わせによって変化し成長して行く様を体験するのが非常に楽しく感じています。

「パーフェクトブルー」はあなた自身が考えた企画でしたか?それともスタジオからの企画でしたか?

 私自身の企画ではありませんでした。私がもし自由に企画を立てられるとしても、「パーフェクトブルー」のような設定を考えることはあり得ないと思います。私は特にホラーが好きなわけでもアイドル歌手が好きなわけでもありません。
 元々は「パーフェクトブルー」という小説があって、その作者が映像化したいということで持ち上がった企画だそうです。彼は当初、実写映画を想定したよう ですが、それがいつしかアニメーションの企画となって、私のところにその監督のオファーが来たのです。
 ですからまったく私とは関係のない場所で生まれた企画なのですが、私が参加してからは途中で私の企画にしてしまったようなものです。
 元々の小説には劇中劇もありませんし、夢と現実の境界の曖昧さというモチーフは登場しません。原作はスプラッタ・サイコ・ホラーというテイストだった、らしいです。
 らしい、というのは私は原作小説を読んでいないのです。原作に近い形といわれる映画用の脚本を読んだだけです。その脚本は実際の本篇制作ではまったく使用していません。
 原作者の注文で「主人公はB級アイドル」「彼女の熱烈なファン(ストーカー)が登場する」「ホラーであること」という3点だけは守るということで話を作 り替えました。大元のイメージを私が作り、シナリオの村井さだゆき氏と共にまったく新しい脚本を作り上げたのです。
 完成した映画は原作者も気に入ってくれたようで、企画を預かった者としても満足しました。原作者が喜んでくれたのは本当に嬉しいことです。

「パーフェクトブルー」がこれだけの興行的な成功と好意的な批評を受けたことをどうお考えですか?

 興行的な成功を収めたのかどうか、私は把握していませんし、少なくとも失敗ではなかった、という程度にしか認識していません。
 ただ、「パーフェクトブルー」は元来「ビデオアニメーション」という枠で作られた作品で(私は今もそう思っていますが)、ビデオアニメーションという狭 いマーケットの中で一時話題になって消えて行くはずだった作品が、劇場映画として扱われ世界の映画祭などに招待され、各国でパッケージとして発売されるこ とになるとは夢にも思っていませんでした。なので興行的なことはともかく、自分が意図したよりは遙かに大きな反響があったことに単純に驚きました。
 好意的な批評ということに関しても同様です。
 日本国内だけでなく海外の批評家の方からも多くの好評をいただきました。
 国内でいえば、アニメーション雑誌にはほとんど取り上げられることはありませんでしたが、アニメーション作品としては珍しいことに大手の新聞各社や普段アニメーションを取り上げないようなファッション雑誌などで取り上げていただきました。
 海外の事情は、よく分からないのですが、映画祭などのインタビューを聞く限り、作品そのものに対する好評もさることながら、「アニメで扱うには珍しい内容」という側面も大きかったようです。
 これは国内の反応でも同じことが言えます。しかい物珍しさは所詮一時的なものだと思いますし、それを作品内容の質と履き違えないように心がけております。
 現在、日本のアニメーションが海外で注目されることが多いようですが、それも同じく物珍しさ、というものが基調になっているように思います。多くの日本 のアニメーションが紹介されるに伴って、その物珍しさというのは薄れて行くでしょうし、それでも尚見るに堪えうるアニメーションを作りたいと思っていま す。

「パー フェクトブルー」はアニメ映画界史上に残る作品だと思います。続く「千年女優」も同じく傑作です。今さんはすでにアニメ映画の監督ではなく映画監督として の地位を確立したと思います。お友達でもある森本さんや大友さん、また押井さんとの違いはどこだと自分自身でお考えになりますか?

 ことさらに他の方との違いは考えたことはありませんし、意図的に他の方と違うことをしようとも思っていません。自分に出来る以外のことをやるつもりはありませんし、やろうとしても不毛です。
 私の作品は挙げられた監督さんたちの作品とはまったく違ったものになっているかもしれませんが、そうした違い、あるいは私の作品の個性は、作品を見るお客さんが判断したり感じたりすればよいことです。

 私はすでに積極的に他の方のアニメーションを見ようという態度を持てなくなってしまいました。作画や美術、あるいはデジタルの技術的な面で、その作品に 関わっているスタッフへの興味で他の方の作品を見ることはありますが、作られている内容には興味が持てません。
 なので同業者からの刺激は皆無といっても良いです。

彼らをライバルだとお考えですか?

 いいえ、思わないです。
 人的資源の状況が極端に悪い現状では、それぞれの作品同士で有能なスタッフの取り合いという面でライバル関係になることはあっても、作品性の面ではまったくないです。目指している方向がまったく違うと思いますしね。
 なので、方向が交わらない分、彼らから刺激を受けることもありませんし、また私が彼らに刺激を与えることもないように思います。

アニメーション業界で友人達と仕事をするのはどんな気持ちですか?

 私は基本的に友人になれないような人間と仕事をしません。
 付き合いの深さはともかく、友人になりうる人間という言い方の方が正しいかもしれません。
 ご存知かもしれませんが、日本では「個の倫理」よりも「場の倫理」というものがより優勢に社会を支配しています。場を共有できない人とは仕事を一緒にすることは出来ません。
 個々人の価値観はもちろん重要なのですが、それらが集まって生まれる「場」、アニメーション制作においては、すなわち制作現場ということになりますが、 それら個々人を越えたところに生まれる「場」の意思、みたいなものを私は大切にしています。私の意思や欲求だけでは、私が考える以上のものは生まれませ ん。自分を出しつつ、一方で「場」の声、作品の声といってもいいのですが、そうしたものに耳を傾けることを大事にして作品制作をしているつもりです。

今までの常識とされている“日本のアニメーション界”の中で「千年女優」と「東京ゴッドファーザーズ」をこの短期間で制作されているのは記録的だと思いますがそれについてはいかがでしょうか?

 ここでいう短期間、というのはそれぞれの作品制作期間ではなく、作品と作品のインターバルの短さということでしょうね。
 我ながら確かに短いと思います。記録的な短さでしょうね。
 ただ、今の私の立場では次から次へと作品を出し続ける必要性を感じています。これは日本のアニメーション業界の中での自分の在り方、観客に対する在り方 を固める重要性もありますが、私個人の作家性の問題も大きいです。理性的な戦略というより、「とっとと次の作品を作れ」というような内なる声に促されてい る感じです。
 とはいえ、私の欲求だけで映画を作れるほど事情は単純ではないので、制作会社やスポンサーとの関係が整わないと作れないのですが。
「千年」から「東京ゴッド〜」へ、ごく短いインターバルで移行できたのはたまたま条件が揃ったということかもしれません。
「千年」完成が近づいた頃から、次の作品の企画を出さないかとお誘いがあり、頭の片隅では考えてはいたものの、やはり「千年」の作業に追われてしまい、実際には「千年」が完成してから、考え始めました。
 ですので「東京ゴッド」の企画に要した時間は二月程度でしょうか。簡単な企画書として、プロットを書いて制作会社マッドハウスのプロデューサーに提出し たところ二日後に「GO」サインが出てしまいました。企画を出した私の方が驚いてしまいましたが、それですぐに具体的なストーリー作りに入り、脚本家をく どいて駆け足で制作に入ったのです。
「東京ゴッド〜」が完成していないので結果的にどうかはともかく、現段階ではすぐ次の作品制作にかかれたことは非常に良かったと思っています。企画という のは後々説明はつけられますが、発端はひらめきですからね。時間をかけたからといって面白い企画になるとは限りません。出てきた発想と周りの状況との関連 の中で、出てきたアイディアを一番いい形で具体化することを心がけています。

アニメーション映画を制作している時にお客さんすでに意識されていますか?

 もちろんです。作品というのはある意味作者とお客さんとの対話だと思っています。
 自分の中から出てきた表現したいものをただ定着させるだけでなく、それをお客さんが興味を惹かれて見られるように、演出をしているつもりです。
 それは普段の会話と同じことだと思います。何をどういう順序で提示し、どういう間(ま)でもって相手に伝えるか、そうしたことを考えるのと同じように作品を作っている最中も、お客さんの反応を思い浮かべながらシナリオや絵コンテを作っています。

監督はいままで多くの脚本にも参加されていると伺っていますが、自分自身の企画の脚本と他の監督の作品の脚本を比べて違う面で挑戦している点をお話ください。

 私が今まで関わった脚本は数本に過ぎませんので経験豊富なわけではないのですが、少なくともアニメーションに限って言うと、どうも他の方の作品を見るとその多くがアニメーションを見せるための脚本にしか思えない気はします。
 つまりアニメーションの魅力をより良く見せるための脚本ということです。
 ですが私はアニメーションで映画を作りたいと考えています。
 これは大きな違いです。
 アニメーション「を」見せたいのではなくアニメーション「で」見せたい。
 他の多くの監督はアニメーター出身の人が多いせいか、口では同じように「映画として良い物を作りたい」というようなことを仰っているようですが、やって いることはやはりアニメーションを見せたい、だけのように思えてしまいます。アニメーション映画ではなくて、映画用のアニメーションですね。
 アニメーションを見せたい欲求が強い作品は、アニメーション部分に比べてたいてい脚本も演出も見劣りするように感じます。
 もちろん中には素晴らしい映画を作っているアニメーション監督もおられると思いますが、私は他のアニメーション作品を積極的に見ることはありませんし、ここ何年かそうした面で刺激を受けたことはありません。

 私にとって映画とは物語を表現するものです。
 映画の根幹となるのは脚本ですから、まず何より脚本を重視していますし、その脚本においては物語性を一番重視しています。
 その物語の中で生きて動く人物像ももちろん重要ですし、人間像は物語と切っても切れない関係なのですが、人物の描写よりもやはり物語性が重要です。物語そのものが人物を描写しているのです。
 物語とは、ごく単純にいえば主人公および主人公を取りまく環境が変化する過程、だと思っています。
 例えば昔話などでは、登場人物の造形やその心理描写は詳しく語られません。赤ずきんの感情の細かいニュアンスなど聞いたことがありません。必要ないからです。物語全体が赤ずきんちゃんの内的変化を表しているからでしょう。
 昔話はどういう出来事が起こって何がどう変わったか、という構造を描くことで広く普遍性を獲得していると思うのですが、私もそういう方向を目指しています。
 日本のアニメーションでは通常「キャラクター性」というのが重視されるようです。漫画もテレビドラマも同様です。
 面白い人物の周りに自ずとストーリーは生まれる、というようなことを言われます。確かにその通りでもあると思うのですが、そうしたいわば人物像からス タートして大きな構造に至るのは難しいと思えますし、日本産の小説や映画のストラクチャーが弱いといわれるのはそこに一因があるように思えます。
 逆に私は構造から考え始めて、その構造にはまる人物像を考えるという方法が性に合っているようです。ですから日本のお客さんが好むようなキャラクター性には乏しい作品だと思います。
 しかし上記のまるで逆な方法論も、結局は目指す頂点は同じような気がします。
 目指す山の頂上は同じだけれど登山道が違うといったことだと思っています。

監督の映画は日本のアニメーション作品が抱えている問題の一つである「優れた脚本を書く」という難題をクリアしたように見えます。監督がお考えの脚本を書かれるにあたって大事にされている信念はありますか?

 私の監督作品がいずれも「優れた脚本」かどうか、それは御覧になった方の判断にお任せしますが、少なくとも私が面白いと思えない脚本なら、わざわざ苦労 して作る必要はありません。作画や背景や彩色、撮影、音響作業など、脚本以後の作業は一年以上もかかるのです。
 私の批評眼はかなり厳しい方だと思います。
 それは自分が関わる作品には尚のこと厳しく適用されます。私自身が「面白くなる」と確信できるまでシナリオと格闘する。それだけのことです。
 そこに甘さが生じたら、作品全体は勿論のこと、関わってくれるスタッフにも失礼です。歪んだ土地には歪んだ家しか建ちません。

「千年女優」は脚本家の村井さんにとっても大事な作品にあたると思います。この素晴らしい共同執筆にあたってどのような工夫をされましたか?また違う脚本家の方で一緒に仕事をしたい方はいらっしゃいますか?

「千年女優」は私が考えた次の一文から始まりました。
「かつて大女優と謳われた老女が自分の一代記を語っているはずが、記憶は錯綜し、昔演じた様々な役柄が混じりはじめ、波瀾万丈の物語となっていく。」
 この一文を元に私が肉付けして書いた大まかなプロットが「千年女優」の原案です。この段階で物語の最初と最後を形作る構成は決まり、完成した本編もそれ と変わっておりません。またこの時点でインタビューの聞き手が千代子と共に時間の旅をする、というアイディアも盛り込まれています。
 村井さんとの話し合いの中で育てたのは、主にどういう時代でどういうエピソードを盛り込むか、という点です。それは同時に劇中にどういう映画を選択するかということでもありました。
 この作品は基本的に同じエピソードの繰り返しです。音楽でイメージすれば「ボレロ」みたいなものです。循環する話です。
 なので、エピソードそのものを考える苦労は少なかったのですが、それらのエピソードをどのように繋ぐかが最も難航しました。一つの繋ぎをいじると、それ まで考えていたアイディアが使えなくなり、結局書く度ごとに盛り込むアイディアが変わってしまい、アイディアを絞り込む段階に至るまでが大変でした。逆に いえば、それだけ流れを大切にしている作品だといえます。

監督が考えるいい監督になるのには何が必要だとお考えですか?何を知るべきだと思いますか?

 それが分かっていたら苦労しません(笑)
 世の中に誰から見ても「いい人間」というモデルが実際は存在しないように、「いい監督」というモデルはあり得ないでしょう。
 ましてや作家とカテゴライズされる人間は、なにがしか大きく突出した部分や大きく欠落した部分を持ち合わせています。皆その部分をそれぞれのやり方で育 てたり回復して行く、その過程こそが作品とイコールだと思っています。ですので普遍的に「いい監督」などというモデルが存在するわけもなく、それぞれがそ れぞれのやり方を模索する以外にないと思います。
 ただ、たくさんの映画や書籍、音楽や舞台など多くの創作物に触れることや多くのことに興味を持つのはとても大切なことだと思います。それは表現の手段を 磨くための修練と同時に、表現の元になる自分の価値観を磨くことにもなるからです。自分の価値観を磨くという意味では、友達と酒を飲んで話をしたり、旅行 をしたり美味しいものを食べたり、気に入ったものを買ったりする。そういう実体験も尚のこと大事でしょう。
 私のやり方に限っていえば、作品に対するビジョンを持つことが何より一番重要だと思っています。このビジョンはシナリオ、演出方法から画面設計、音響など全てのプロセスに渡って要求されることですし、また徹底するべきものです。
 勿論最初から揺るぎない明確なビジョンがある、というわけではなく、このビジョンもまた作品を作りながら成長させて行くものです。すべてのことを分かっているならわざわざ作る必要もありませんかので。
 アニメーション制作においては絵を描くというのは何より重要だと思いますし、私自身自分の絵を描く技術を梃子にして、結果現在のポジションに立つことに なりましたが、いざ監督をしてみると、絵を描くということは作品制作においてはほんの数分の一にすぎないことを実感しました。
 絵ではない部分だけを拾っていえば、シナリオは作話の能力だけでなく、会話のセンスも問われるでしょうし、言葉はスタッフに説明したり指示する上でも非 常に重要になります。また音楽や音響では絵を描く技術とはまったく別の能力を要求されるわけです。あるいは作品完成後の宣伝においては、こうしてインタ ビューに答える必要もありますので、文章を書く能力や話す能力も必要になります。
 それらの核になるのはやはり自分の価値観ですから、先にも記したように表現するに足る自分というものを磨く以外にないのです。

 具体的な点では監督にはシナリオを読む能力が何より必要だと思います。
 自分でシナリオを書けるくらいの能力を持っていないと、制作中に出てくるシナリオ上の不都合を修正することも出来ません。
 劇場用アニメーション映画の制作期間はシナリオが上がってから、最低でも1年から1年半はかかります。シナリオを書いているときには気にならなかった点 も、時が経てば疑問や不満も生じてきますし、また、実際に絵に起こして行くと不都合が生じることもありますので、修正しなくて済むシナリオなどあり得ない のではないかとすら思っています。
 まったく直さない、ということは余程完璧なシナリオであるか、あるいは制作期間中に作者の成長がまったくないかのどちらかではないでしょうか。
 もちろんビジネスライクに割り切ってしまえば直す必要などないでしょうが。
 日本のアニメーションの制作現場、というよりは日本の集団の在り方の問題だと思いますが、分業というものが成立しにくいという事情があります。なので監 督には本来の作品演出の他、制作スタッフの人間関係に心を砕くことも要求されるでしょうし、作品の制作管理の面にも気を配ることも必要になります。特に私 の作品には潤沢な予算があるわけではないので、制作の効率を考えることも必要になります。
 私は普段こんなことをあまり考えたことはありませんが、こうして書いているとあまりに多くのことが要求されるポジションにいることを再認識して具合が悪くなりそうです(笑)

アニメーター達との仕事はどのようにされていますか?20人の同じスタッフといつも仕事をされていると伺っていますが本当でしょうか?その中で必ず必要な人はいますか?

「20人の同じスタッフといつも仕事」をしているというのは正しくありません。
 一本の作品を制作する時、常に仕事場で顔を合わせる作画のメインスタッフや色指定や撮影スタッフを入れて20人くらいですが、どの作品でも同じ顔ぶれになるとは限りません。
「パーフェクトブルー」と「千年女優」は作画監督が替わっただけでほぼ同じ編成ですが、現在制作中の「東京ゴッドファーザーズ」はメインスタッフが多少変 わっています。とはいえこれまでまったく仕事をしていない人は誰もいませんし、同じ顔ぶれといっても間違いではありません。
 業界は慢性的な人材不足なのです。劇場のアニメーションに携われるような高度な技術を持った人間、もちろんそれは私が思うような人間ということですが、 そういう人たちは一握りしかいません。なので、私が作る際には似たような顔ぶれになってしまうということです。
 私がこれまで作画監督をお願いしている人たちは、原画マンとしても有能ですから、別な作品でもどうしても仕事をしてもらいたい人たちです。
 濱洲英喜氏(「パーフェクトブルー」作画監督)、本田 雄氏(「千年女優」作画監督)は勿論のこと、「千年女優」で制作後半作画監督に回ってもらった先の濱洲氏をはじめ井上俊之氏、小西賢一氏、古屋勝悟氏なども大変素晴らしいアニメーターです。
 ここで非常にいい仕事を残してくれた小西氏に現在「東京ゴッドファーザーズ」の作画監督、古屋氏に演出のポジションを引き受けてもらっています。
 予算も時間も少ない制作現場では、個々人の能力は勿論のこと、過去の作品制作においてスタッフ間に蓄積されたノウハウというものが何物にも換えがたい財産なのです。

監督がお好きな映画監督とその理由を教えてください。また一番印象的な映画を挙げるとするとどの作品ですか?

 これは実に難しい質問ですね(笑)
 好きな映画監督や映画があまりに多すぎて、真面目に書き出すとそれだけで膨大なテキストになりそうです。
 直接私の監督作品にまつわるようなもの中心にしたいと思います。
「パーフェクトブルー」や「千年女優」において描きたかった「普通と違う時間感覚」、「主観による時間」という言い方が出来ると思いますが、これはジョージ・ロイ・ヒル監督の「スローターハウス5」に触発された面が大きいと思います。
本人の中では、現在も未来も過去も同時にあるという感覚、そしてそれを具体化し得た映像表現は大変素晴らしいと思います。
 ロイ・ヒル監督は「明日に向かって撃て」「スティング」といった娯楽性の高い映画も撮れば、「スローターハウス5」や「ガープの世界」といった非常に芸 術性の高い映画も撮る、私の好きな監督の一人です。もちろんこの2作はカート・ヴォネガット、ジョン・アーヴィングの原作に負う面も大きいのでしょうが、 素晴らしい原作を素晴らしい映画に仕立てるのは非常に難しいことだと思いますし、それは多くの凡作が証明していると思います。
 また「スローターハウス5」や「ガープの世界」で描かれているような、無常な現実の扱い方も私の映画、特に新作「東京ゴッドファーザーズ」に影響を与えていると思います。
 無常な現実というのは、当人の意思や思惑と無関係に現出します。
その出来事が様々な、当事者たちが思いもかけなかった悲劇や喜劇を生み出すと思うのですが、とりわけ「笑えばいいのか悲しめばいいのかよく分からない事態」が私を刺激します。もちろん当事者たちは笑っていられない状況が多いのですが。
私はそうした冗談みたいな現実を「滑稽なほどの悲劇、切ないほどの喜劇」と呼んでいます。
 こうしたことを上手に描いているのがスウェーデンのラッセ・ハレストレム監督だと思います。最近は活動をハリウッド中心に移したようで、私の好むそうし た傾向は薄まってしまったようで残念に思っていますが、「マイライフアズアドッグ」や「ギルバート・グレープ」は傑作だと思います。「サイダーハウスルー ル」も入れていいかもしれません。
 夢と現実の混交、という面ではテリー・ギリアム監督に大きく触発されていると思います。「バンデットQ」「未来世紀ブラジル」「バロン」の3本が素晴らしい。その後の作品には刺激を感じないのですが。
 この3本は基本的に同じ題材を言い方を変えて描いていると思うのですが、特に「バロン」は人間の想像力の豊かさを再認識させてくれる傑作だと思います。 映画としての出来については色々な批判もありうると思いますが、そうした問題は些細なことだと思いますし、現代社会において死に瀕している想像力というも のに再生の光をすら投げかけている映画として私は大好きな一本です。
 ジャン・ジュネ監督の「デリカテッセン」「ロストチルドレン」も素晴らしいですね。特に「ロストチルドレン」は非常に素晴らしい、傑作です。
 シナリオで名前を気にかけているのはトム・ストッパードです。イギリスの舞台作家の大御所と聞いていますが、氏の代表作「ローゼンクランツとギルデンス ターンは死んだ」は非常に刺激的な映画でした。また共作になっているようですが「恋に落ちたシェークスピア」も見ていて笑いだしたくなるほど巧妙なシナリ オでした。スピルバーグの中では失敗作といわれているトム・ストッパード脚本の「太陽の帝国」も、確かに映画としては失敗に違いないのでしょうが、見方を ずらすと先に書いた「滑稽なほどの悲劇、切ないほどの喜劇」が浮かび上がってくる、非常に興味深い映画です。
 ハリウッドテイストの強い大作には飽き飽きしているせいか、近頃は小さな映画の方が面白く見られます。特に最近のイギリス映画がいい感じに見受けられま す。「リトルダンサー」や「ブラス!」、「フルモンティ」は作りが丁寧で非常に良かった。CGをふんだんに使用したスペクタクルや殺人やアクションが無く ても十分以上に満足の行く娯楽性もある映画、そうした基本がこれらの映画に見られると思います。脚本の良し悪しも無論のこと、その脚本に立脚した演出の、 登場人物に対する眼差しが素敵に思います。
 おそらくこれらの映画は大きくない予算で撮られているように思うのですが、だからこそアイディアや作りの丁寧さを大切にしているに見受けられます。大きくない予算でアニメーションを作っている者として見習いたいと思っています。

 どうも映画のことを書いていると長くなるだけなので、この辺で切り上げたいと思います。

監督の映画制作の進行方法を教えてください。監督はご自身で絵コンテもお描きになられますか?特にクリエイティブな部分でのプロセスについて教えてください。

「パーフェクトブルー」の場合は、持ち込まれた企画を自分なりの作品に仕立て直すというやり方でしたが、「千年女優」と「東京ゴッドファーザーズ」はオリ ジナル作品なので、まず私が元になるアイディア、原案なり原作を考えます。この時点で大まかな作品の流れや構造が決まります。
 つい「決まります」と書いてしまいましたが、英語風にいうならば「私が決めます」ということになると思います。話が横道に逸れますが、どうも日本人の発 想は「私」という個人の意思で物事を「創造する」というより、私を通して自然に発生する、という考え方の方が性に合っているように思います。日本人的心性 では「creation(創造)」というより「generation(発生)」という方が近い、という説を聞いたことがありますが、正にその通りだと思い ます。
 原案が出来た時点でシナリオにかかります。
 私は自分でもシナリオを書きますが、別な脚本家と一緒に仕事をする方が好ましいと思っています。作品内の価値観が偏りすぎないように、視点は複数あった方が厚みが増すと思います。
 ただ価値観を単に平均化させると、「多数決で作品を作る」という実につまらない事態に陥りますので、たくさんのアイディアを出し、それらを私の物の見方と作品が要求する方向でチョイスして行きます。
 自分からは出てこないようなアイディアが出てくることが、内容の豊かさに繋がりますし、同時にそれが作品制作中の私の楽しみでもあります。これはシナリ オに限ったことではなく、私にとってそれがスタッフワークで作るアニメーション制作、その一番の魅力です。私の予測範囲内で作られた作品では、私が楽しめ ないですので(笑)

 脚本家にプロットをまとめてもらうか、私が書いた大まかなプロットを元にシナリオの第一稿を書いてもらい、それに対して構成やシーンのアイディアを私が 出し、さらに稿を重ねる形になります。二稿、三稿と進む中で、私も一度シナリオを最初から最後まで書くようにします。自分で一度じっくりシナリオに付き 合ってみないと、作品全体を把握できないからです。
 構成とアイディアを絞り込んで、決定稿は脚本家に書いてもらい、それを私が絵コンテに起こして行くことになります。決定稿を自分で書かないのは、絵コン テには入る前に客観性を維持しておきたいからです。自分で書いた脚本では細かい部分でのこだわりが多くなってしまい、絵コンテを描く際、積極的な攻めの態 度が失われがちになってしまうのです。絵コンテは脚本をただ絵に起こすということではなく、脚本を元に新たに脚本を書き直すくらいの気持ちが必要だと思っ ています。
 絵コンテでカットを割りながら、最終的なセリフも決定しますし、シーンを削ったり足したりというシナリオ的な部分にも手を入れます。ですので私が監督す る場合は、絵コンテがシナリオの決定稿ということになります。ただ、大まかな構成を変えたり、大きくシナリオを改変することはありません。シナリオで目指 したものを達成するために、よりシャープに整えて行く、という態度です。
各カット、「千年」では約1000カットでしたが、それら全ての秒数も決めますし、カメラワークも絵コンテで決めます。
 私が描く絵コンテの画面は、構図は勿論のことデティールまで含めて完成画面に近い状態です。実際その後の作画作業では絵コンテを拡大コピーして、それを 下書きにレイアウト段階でさらにディテールアップしたり、具体的な芝居のプランを決めて行きます。
 レイアウトというのは絵コンテに基づいて、具体的にカットを設計する段階で、バックグラウンドとアニメーションを繋ぐ重要な接点に位置します。どういう 背景の上でキャラがどういう芝居をするか、その下書きのようなものです。ここで作られた背景原図というものが美術のセクションに渡り、実際の背景として作 成されます。
 私は監督以前はこのポジションを中心に活動してきたので、アニメーターから上がってきたレイアウトを直すことがつい多くなります。アニメーターはキャラ の芝居を描くことには長じていても、得てして背景を描く技術やセンスに少々欠けた人が多いので、私が実際に手を入れて、背景に描かれるディテールまでを決 定することが多いです。背景に何を描くかでカットのもつ表現力が高くも低くもなるので、レイアウトは非常に重要なプロセスです。
 キャラクターデザインは、脚本が上がった時点でメインとなる登場人物のデザインに入ります。大元のデザインというか、キャラクターのイメージは私が描い てキャラクターデザイン・作画監督がそれを膨らませ、線を整理したり絵柄をまとめることになります。登場シーンの少ないサブキャラクターなどは私が絵コン テ段階で顔や衣装のデザインもしてしまいます。
 やはり私の場合、自分で絵を描くことが大きな要素になっています。
 キャラクターデザインと同時に、背景のデザイン、我々は単に「設定」と呼んでいますが、いわゆるプロダクションデザインが必要になります。そのシーンが 具体的にどういう場所になるのか、部屋や家や場所のデザインですね。繰り返し出てくる場所の場合は、設定として描き起こしますが、登場回数が少ない場所の 場合は、やはりサブキャラクターデザインと同様、私が絵コンテの際に設定を決めます。
「千年」の場合は、美術監督が主に設定を担当してくれていますが、「東京ゴッド〜」は絵コンテですべての設定を決めています。

アニメーション映画の監督としての役目(義務)はどんなことだと思われますか?
 
 現状ではアニメーション界からの発信、ということが挙げられるのですが、そんなことを考えているアニメーション監督が私の他にいるのかどうかは知りません。
 ですから「アニメーション映画の監督」と一般論にして良いのかどうかは分かりません。
 アニメーション界からの発信、というのは要するにアニメーションをオリジナル企画で作るということです。日本のアニメーションはその大半が漫画(紙媒体の)を原作にしています。
 人気の確定している漫画原作をアニメーション化すれば、ある程度確実なテレビでの視聴率やビデオの売り上げを期待できるからです。
 日本のアニメーションは長くこうした構造の元で発展してきたのですが、オリジナルの企画を生み出す基盤が育ってきていないという弊害も生んでいます。
 もちろん中にはごく一部の方がアニメーションオリジナルで素晴らしい作品を制作されておられますが、世間的にはやはりアニメーションというのはテレビ漫画とでもいうような、漫画の二次的なメディアという認識は否めません。
 アニメーションが本当の意味で社会に認知されて、アニメーションの世界から発信できるようになるには、やはりオリジナル企画でしっかりとした作り、なおかつ経済効果を伴う作品を作って行く必要があると思っています。


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