Interview 03
2002年12月 カナダから、主に「千年女優」に関するインタビュー

1)観客は千代子の恋愛を通してさまざまな歴史を体感しますね。そして最後に観客は千代子は「影を追っていた」ということを知ります。
しかし彼女の自分自身の探求は本物で、彼女の出演作の中での演技を楽しんでいた観客達にとってもそれは同じです。それを見る限り監督が千代子の思い出の方が歴史より意味があるように描いたように思えます。
またその歴史が千代子の目から通したことが意味をもつように見えました。監督がこのような方法で歴史を描いた経緯を説明していただきたいのですが?

「千年女優」という映画を真摯に見ていただいた上で発せられた質問に感謝します。
当初、この作品で特に歴史を語ろうという意識はありませんでした。
もちろん制作途中、多くの歴史資料を目にするにつけ、背景となる歴史もおろそかに出来ないと改めて思いを強くしました。
ただ、やはり本作は千代子の主観、想い出の世界が何より重要であり「千代子の思い出の方が歴史より意味があるように描いたように思えます」というメロラさんのご指摘の通りです。
ですので「このような方法で歴史を描いた経緯」というのではなく、千代子を描くためにこのような方法を採った、と考えていただいた方が適切です。
ご覧いただいた通り、千代子はたくさんの時代、それは実際の歴史や映画という虚構の歴史時間を駆け抜けますが、千代子自身はそれほど深く時代背景と関わっているわけではありません。
確かに千代子は時代の波に翻弄はされます。
しかし人が斬り合おうが近くで戦争が起きようが、そんなことには委細かまわず彼女が求めているのは「鍵の君」であり、それはすなわち質問中のご指摘にあるように「彼女の自分自身の探求」ということです。
私は、自分の思いに正直でひたむきな人を描きたかったのだと思います。
そんなキャラクターを創造することで私自身も活性化されたかったのかもしれませんし、この映画を見るお客さんが少しでも元気を出してくれたら、活力を呼び覚ましてくれたらな、と思ったのです。
時代の波に洗われたり、周囲がどんどんその様相を変えていっても頑なに自分の想いを通す人、それが千代子のイメージです。
作品中たびたび登場する鶴のイメージはそんな千代子の象徴のつもりでした。私が子供の頃を過ごした地方には、丹頂鶴が越冬に来るのです。雪原の寒風の中に 耐えて立つ鶴や翼を広げて凛々しくそして雄々しく飛翔して空を越えて行く鶴の姿が私は好きでした。そんな姿に、身は細く優美な姿でも強さを持ったイメージ を感じていたのかもしれません。
こうしたイメージが背景にありますから、この物語の主人公はやはり「男性性」では難しいように思えます。
このことは後の質問にも関係する部分ですが、もしこの作品を男性主人公で描いた場合、主人公はきっと一々どの時代の出来事にも絡んでしまって、お話としては収拾がつかなくなったかもしれません。
歴史物の男性主人公を見ると、その時代を動かそうとする人間が少なくない。
きっと男性性は時代や社会に対して何かを「する」ことでしか存在意義を見いだせないのでしょう。そうした部分を、あくまで自分にこだわることによって軽々と超えて行けるイメージは、少なくとも今の私には女性性でしかイメージできません。
女性性はきっとどの時代においても、まずその存在が「ある」のではないかと思います。質問に対する答えからややそれているかもしれませんが、つまり多くの 時代背景を描いていても、そこにあるのは千代子その人である、という態度で本作を考えていたのだと思います。

2)この話を若い女性、特に女優を通して話が進む特別な理由を説明していただけますか?

これは先の質問の答えでお分かりいただけるかと思います。
なぜ女優であるかを付け加えるなら、作劇上“多くの時代背景を生きたように見せられる”素材が他に考えられなかったという消極的な理由も大きいです。
ただ、巷間“すべての女は女優である”ということが言われます(もしかしたら日本だけで言われているのかもしれませんが)。この作品の企画が生まれるほん の少し前に、知り合いの複数の女性から同じような言葉を聞いたのが、私がこの企画を生む刺激になったのは間違いありません。
このインタビューがリアルタイムで行われるものなら、「すべての女は女優である、と実感された経験がおありですか?」という質問が重ねてされるのかもしれませんが、それはあまりにプライベートなことなので内緒です。
しかし、「すべての男は必ずしも男優ではない」ということは言えます。間違いありません。男は化けるのが下手なんでしょうね。

3)あなたの映画「千年女優」「パーフェクト・ブルー」は”時間”を新たな手法で描いた作品だと思います。(特にフラッシュバックの技法、時間の移動、時間の構成の改革など)
それは時間の経過は一直線ではなく、具体的に言えば過去は現在進行形の中には生きているという考えのように見えます。これらを見ると「千年」で監督は”現在の中に歴史があるということ”に対して何か質問提議をしているのですか?

私の監督2作品に対して「“時間”を新たな手法で描いた」と言っていただけるのは非常に光栄です。
「時間の経過が一直線ではない」というのはご指摘の通りで、特に「千年女優」ではそうした意図を明確に持って作っていました。
社会的基準としての時間は確かに一方向に流れるものとして認識されていますし、それが混乱しては大変なことになりますが、個人における主観の時間とは、必ずしも一方向にだけ流れたり、きちんと連続しているものではないと思います。
それは時に途切れたり、短かったはずの時間が引き延ばされたり、ある一つの出来事だけが色鮮やかに思い出されたり、という経験は誰にでもあるはずです。
そうした感じ方が映画、広く映像というメディアにも反映されているとも思います。「千年女優」における、私の時間に対する感覚は、私の尊敬する平沢進氏作 詞作曲による「千年女優」エンディングテーマ「Lotation(ロタティオン)/Lotus-2」の詩にある通りです。「遥かな過去 遥かな今日 明日 さえもここに」あるのです。現在と共に過去もそして未来さえも同時にある、それはすべて繋がり連環となっているようなイメージです。
千代子は目をつぶり想いを馳せればいつの時間にもいることが出来るのです。
それが想い出というものではないでしょうか。
「現在の中に歴史がある」ということについてですが、その“歴史”をいわゆる客観的な歴史時間や事実と解釈して答えさせていただきます。
その意味において、私は日本に暮らす一生活者として、現代の日本は歴史を置き忘れすぎているのではないか、という危惧を持っています。外国の事情は私には分かりません。
ただ、どんな国においても、現在という時間は多く長く堆積した歴史という時間の上に乗っているものです。であるにも拘わらず、日本では現在に暮らす人の意 識から歴史への認識や理解が薄れているように感じるのです。まるでどこかで歴史が断絶しているような感覚です。
それは太平洋戦争での大きな敗戦に起因しているのかもしれませんし、単に忘れやすい、あるいは過去のことはなるべく早く忘れたいという民族性なのかもしれ ません。確たる理由は分かりませんし、私自身歴史に対する意識はそれほど高くない方でしょうが、少なくとも「歴史の断絶」といったものがあるかもしれな い、という危機感だけは持っていたいと思いますし、「千年女優」を作りながら歴史への思いは新たにしたことは間違いありません。

4)劇中のディレクターが千代子の人生の中心に入っていくのがとても面白いと思いました。またその中で彼の役柄がその場その場で変わるのが特にユニークでした。
これはあなた自身のイメージのパワーの強さ、また歴史を経験した人達が話を変ること、そしてそれを思い出すことに対しての考えですか?

このアイディアを面白がってくれると非常に嬉しいです。
インタビューアーも彼女の昔語りに参加して行く、という話のスタイルを思いついたことで、この企画に確信を深めました。
私自身のイメージの力が強いのかどうか、自分ではよく分かりませんが、普段言葉を話すときも絵を描くときにでも、「臨場感」というものを非常に大切にしています。「まるでそこにあるような」出来事や人や物、そんなふうに描きたいと思っています。
千代子が昔語りの最中、あの山荘の部屋で実際にはどういうふうに喋っていたのか、それを部分的に描いているのは1、2カットしかありませんが、きっと臨場 感溢れる話し方をしていたのだ、そうに違いない、と思って作っていました。だからこそディレクターもカメラマンも彼女の話の世界に入って行けたのでしょ う。彼女のイメージの力こそ大変強く、体の外にまで溢れ出していたのでしょう。
ただ、あのディレクターは千代子オタクといってよい存在です。
どんなジャンルでもマニアが寄ると濃い話が展開するものです。
私や友人の間でも共通体験としてのアニメーションや映画作品の話をしていると、覚えているセリフを口にしたりして、臨場感のある話が盛り上がったりします。
共通体験のある人間同士はその共有ゆえに分かち合えるものがあります。
「千年女優」でいえば、ディレクターがマニアである対象、千代子その人が目の前にいて、体験を共有し、追体験できるわけですから至上の喜びだった筈です。
彼もまた千代子を追いかけることで、見果てぬもの、つまりは自分自身を追いかけていたのでしょう。
千代子とディレクターは同じ時代を共有していますが、同行するカメラマンはそうした背景を持っていません。このカメラマンこそが制作者である私自身の、そしてこの映画をご覧になるお客さんの代表であると思っていました。
このカメラマンが知らない過去や千代子の想い出を追体験することで、歴史そのものや歴史を越えるものがある、という意識を持つことが、そのままこの作品における私の体験であり、観客の体験になってもらえれば大変嬉しく思います。

5)伝統的な映画で、英雄的なラブ・ストーリーは歴史を語る上でいつも使われるものです。(または歴史的な映画はいつもラブ・ストーリーが含まれているということでもありますかね?)
「千年女優」はどんな”英雄的な話”というジャンルに入ると思いますか?


「英雄的な話」ですか。
「千年女優」においてはあまり意識したことはありませんが、日本と西洋の神話や昔話の比較についての本を読んでいて非常に興味深く思ったことがあります。
西洋において典型的なのは、例えば、英雄が旅に出て苦難の末にドラゴンを退治して美女を手に入れ、めでたしめでたし、というパターンだそうですね。
それが日本のそれにおいては、例えば、とりたてて男が苦労をするわけでもないのに、ある時女がやってきて夫婦になるが、女房の言う禁(例えば、私の仕事を している部屋を覗いてはいけない、といった)を破ってしまって、女房は去って行ってしまう。日本の昔話には男女が結ばれてハッピーエンド、というパターン が少ないんだそうです。
「千年女優」がどんな“英雄的な話”のジャンルに入るのか、私にも分かりませんが、最後に去って行く女、という日本の昔話の影響があるかもしれませんね。
「千年」にやや影響を与えているといっていい日本の昔話に「竹取物語」というのがあります。おじいさんが竹の中から得て育てた美女かぐや姫が、貴公子たちの熱心な求婚を難題を出して退け、時の帝も袖にして、月の世界へ帰る、というものです。
ここで出てくる月の世界へ帰る、というイメージが「千年女優」の月のモチーフになり、そしてその月をすら越えて行こう、という風に考えました。
他にも「天女が水浴中に羽衣を盗まれて天に帰れず人妻となって暮すうち、羽衣を探し出して天へと帰る」という「羽衣伝説」というのがあります。
月や天に帰る、というのはすなわち私たちを包んでいる「大きな世界」ということだと思います。千代子が最後にロケットで飛び立って行くのもそんなイメージ があったのかもしれません。話を考えていたときには意識したことはありませんでしたが、子供の頃から馴染んだ昔話が少なからぬ影響を与えているようです。

6)外国人の私から見ると、この映画は外国に住む人間には見えない日本人の歴史に対しての意識が感じられました。その意識の部分について説明していただけますか?

これまでの答えと重なると思いますが、先にも書きましたように現代の日本、あるいはかつてもそうだったようにも思えますが、歴史や文化というものが断絶しているのではないかと思えます。
もちろん学校教育で歴史の時間はありますし、知識としては知っていても、現在の自分がどういう歴史の上に形成されてきたのか、という歴史の実感に欠けているという感じです。少なくとも私自身はそう感じます。
「千年女優」において「外国に住む人間には見えない日本人の歴史に対しての意識」が描かれているのかどうか、説明しようにも実は私自身よく分からないので す。ただ、少なくとも日本にいる37歳の一人のアニメーション映画監督が、歴史への意識を回復しよう、という試みを持った映画であるとは思います。

7)「千年女優」は映画のパワーへのオマージュが描かれているように思えました。この映画の構想にあたって影響を受けた人物がいたら教えてください。

広く言えば、この映画はあまりにたくさんの映画や映画監督に影響されていて、列挙できないほどの数です。
極端な話、私がこれまでに見たすべての映画に影響を受けているでしょう。
具体的なところでは「千年女優」の中で、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」や小津安二郎監督の映画、チャンバラ物のヒーロー「鞍馬天狗」、あるいは日本の大スター 「ゴジラ」のイメージを借用しているシーンなどがありますし、それと知らずに何かの映画からイメージを借りているところも多いでしょう。
ただ、それらはあくまで映画の中の彩りという意味合いが強く、「千年女優」という映画そのものに影響を与えているという意味では、カート・ヴォネガット・Jr原作、ジョージ・ロイ・ヒル監督の「スローターハウス5」かもしれません。
あの映画を見てからかもしれませんね、異なる空間と時間が同時にある、という感覚を描いてみたいと思ったのは。私に大きな影響を与えてくれた、大好きな一 本です。それともう一つ「千年女優」に、というか私の作品制作において強く影響しているのは、テリー・ギリアム監督の「バロン」。「ほら吹き男爵の冒険」 ですね。「千年女優」はある意味「ほら吹き婆さんの冒険」なのです。想像力というのは現実の時間や空間を越えて大きく飛翔するものです。
フェリーニが言っているそうですね、「私はうそつきだ。しかし誠実な人間だ」と。非常に印象的な言葉です。私もそんな人間になりたいですし、そんな映画を作りたいと思っています。
この映画を作りながら自分なりに「千年女優」のキャッチコピーを頭に浮かべておりました。
「ウソで固めた真実」
観客の皆さんの目に果たしてそういう映画に映ってくれるでしょうか。
楽しみにしています。
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