Interview 14
2002年3月 国内の雑誌から「千年女優」に関するインタビュー

 2002年の3月、国内の雑誌インタビューのテキストに、多少加筆修正したものです (04/10/13更新)。

●「千年女優」を作ろうとしたきっかけからお聞かせ下さい。

 元々「千年女優」は「騙し絵みたいな映画を作ろう」というコンセプトから始まりました。「パーフェクトブルー」を気に入って私に声をかけてくれたプロデューサーがそう言ったのがきっかけでした。
 前作「パーフェクトブルー」では、虚構と現実の混交による「騙し絵」はドラマの味付け的な部分だったのですが、「騙し絵」自体を最初から目的として掲げたのが「千年女優」というわけです。
 しかし、それはあくまで映画の手法ということであり、映画の中心的テーマというわけではありません。手法と語るべき内容はイコールではありません。また私は手法の実験を目的としたような映画にはあまり興味がありません。
 前作との違いで当初、私が最も意識したことといえば主人公の欲求ということでした。「パーフェクトブルー」の主人公・未麻は確たる意志や欲求を持たず、 周囲に流され、それゆえ無自覚なまま事件に巻き込まれて行くという展開でした。未麻には意思や欲求は希薄でした。リアクションがあるだけのキャラクターと も言えますし、その未麻が追いつめられて行き最後にアクションを起こす。受動から能動に変化する、ということが物語としてのクライマックスでした。
 未麻はそれら一連の事件の中で、彼女の一番基本になる「私」というものを確認する物語だった、という言い方も出来ると思います。その言い方に従えば「千年女優」は前作で芽生え、確認された「私」を押し進める話である、と言えると思います。
「千年女優」の主人公・千代子は、非常にプリミティブで、それゆえ頑なな欲求を携えています。「好きになった人を追い求める」、見かけ上はただそれだけです。
 物語の最初から最後までたった一つのこの欲求、それは意識的・無意識的両面があるのですが、それによって突き動かされ、長い長い時間の中を駆け抜けて行くことになります。

●そういう主人公に設定した狙いはどういう部分にあるのでしょうか?

 不況だ混迷だとネガティブなキャッチコピーばかりが冠される現代で、賢い振りをして不平と不発を繰り返す人々に私はうんざりしているのです。単純でもい いから一心に何かを追い求める人間、そういうひたむきさや健気さ、元気の良さを持った人間を中心に据え、その主人公に観客は勿論のこと作り手である私も、 遠く深くまで誘って欲しいという願いがありました。企画としては手法が先にあったかもしれませんが、この映画はそうした想いに立脚していると思います。
 それと、明るさでしょうか。
 前作は人間の内面をダークな部分にスポットを当てて描いたものだったので、全体に暗く思いムードの作品だったと思います。その反面というか反動として「千年女優」では明るい方向で描こうという意図は最初からありました。
「パーフェクトブルー」と「千年女優」は、私には姉妹的な2作で、いわばコインの裏表だと思っています。
 前作を踏まえた次回作、という意味では「アニメーションである」という意識も多少あったかもしれません。アニメーションを作っていながらことさらにアニ メーションであることを意識する必要もないのですが、何せ「パーフェクトブルー」についてのインタビューでは必ずと言っていいほどこう聞かれました。
「何故実写ではないのか?」
 FAQです。今さらそんなことを説明しなくてはならない世の中だとは思っていなかったので、少々驚くと同時にうんざりしました。
 実写みたいなアニメと言われようが私はかまわないのですが、そんなに見た人が実写と比較してどうこう言うなら、じゃあ実写映画を素材にして、新しくない 頭の人でもアニメらしいと感じられるようなアニメを作ってやれ、くらいのことは思っていました。それはそれで、多少歪かもしれませんが、作品を作り続ける 中で生まれてくる考えだと思えます。
 作品相互の関連の中でものを考え、作品を作り続けられるのはとても幸せなことです。

● 「パーフェクトブルー」「千年女優」の両作品はメインスタッフの顔ぶれがほとんど同じです。その中で作画監督が変わっています。「パーフェクトブルー」で は作画監督が濱洲英喜氏でしたが、「千年女優」でキャラクターデザイン・作画監督に本田 雄氏を起用した理由は何でしょう?

 いうまでもなくキャラクターの顔や芝居の統一に関して、作画監督は非常に重要なポジションです。それだけに非常に負荷がかかる立場でもあります。また、 私が作画監督をお願いしたいと思うような技量や能力を持ったアニメーターの方々は、得てして原画を描くのが好きなんです。「原画ならやってもいいけど、作 監はちょっと……」という人が多い。
 なので作品を続けて作画監督をお願いするのは難しいという事情があるんです。能力的には可能だけれど、作品内容での向き不向きという問題もあります。
「千年」は純粋にアニメーション界から生み出すオリジナル作品ということで、絵的な面でもアニメーションの良さが伝わるものにしたいという気持ちが強かったと思います。
 現在のアニメーション作品に多く見られる、いわゆる「アニメ絵」というだけで、その筋のファンではない一般の人々には眉をひそめらる傾向がありますか ら、上品な絵、押しつけがましくない絵でありたいと思っていました。アニメーション映画を一部のファンだけのものでは終わらせたくないと常日頃思っており ます。
 そういう意味でもキャラクターデザインには純粋にアニメーション業界の才能であること、なおかつ上品な絵柄、を想定しました。というより端から本田 雄氏の絵柄を想定していたという方が正しいのですが。
 本田氏の上品かつ達者な絵を楽しんでもらえると嬉しいです。

●「千年女優」は2作目の監督作品になりますが、前作「パーフェクトブルー」の経験を踏まえて監督としてのスタンスや作品への関わり方で変化した部分はありますか?

 前作は「元々あった企画を料理する」といういわば「雇われ監督」的な面がありましたし、初めての監督作品ということで、思うに任せない部分や監督として の考えを主張しきれなかった部分があまりに多かったのです。思うに任せない、という以前に思いもしなかった部分がたくさんあったという方が正しいでしょ う。さらには経験の無さが大きく手伝って、絵以外、声や音楽などに対してイメージの不足が甚だしく、己の無能を痛感させられました。
 なので、私の中では音関係、特に音楽は大きな比重を割り当てて制作に臨みました。「千年女優」では平沢進さんの快諾を得られたのは願ったり叶ったりでし た。というより他の音楽は考えていなかったのです。平沢さんの音楽で映画を作る、というのが私の一つの念願でしたが、あまりにあっさり叶ってしまい、却っ て驚いています。
 元々、「千年女優」の最後に平沢さんの「Lotus」(アルバム「シムシティ」収録)がかかってシナリオが完成する、というイメージでした。その曲は諸 々の事情で使用は叶いませんでしたが、実際にはそれ以上の、実に「千年女優」に相応しい曲を書いていただきました。
 ですので、「千年女優」を御覧になる方には平沢さんの歌うエンディングテーマ「ロタティオン[Lotus2]」の歌詞までよくお聞きになって欲しいと思 います。また本編中のBGMもそれだけでさながら物語になっているかのようですので、音楽にも注意を傾けていただければ幸いです。
 絵と音の両輪が噛み合ってこその映画である、と心新たに制作に臨んだ次第です。

●「千年女優」では「記憶のあいまいさ」が重要なモチーフだと思いますが、なぜそれを描こうと思ったのでしょうか?

「記憶の曖昧さ」という表現は適切ではないと思います。「千年女優」で語られるウソは記憶が曖昧になってウソになっているわけではないのです。
 企画の当初には「曖昧な記憶」というイメージも微かにあったのですが、ストーリー作りが進むにつれて、より積極的なウソを、積極的につくという方針に変わりました。
 記憶というのは時間の経過と共に、主観によって都合よく歪曲されて行きます。歪曲することが良いとか悪いということではなく、どう歪曲したのか、あるいはどう歪曲されたのかという点が重要だと考えます。
「単純だけれどひたむきな主人公」と「虚構と現実の混交という手法」という組み合わせは相性がいいのか悪いのか、なかなか難しい取り合わせにも思えます が、手法が複雑になるのは最初から予想されていましたので、主人公の求めるところは単純な方がいいという技術的な判断もありました。
 ともかくそれらが交錯する地点に「ウソで固めた真実」というコンセプトが生まれました。まるで矛盾したことを掲げたように思われるかもしれませんが、そ うではありません。事実ではなくて真実です。真実を語るためにはウソも、むしろウソの方が真実をより良く語り得るとさえ思えます。

●「ウソで固めた真実」というイメージについてもう少し具体的にお聞かせ下さい。

「ウソで固めた真実」というイメージは例えば、ウソというタイルを敷き詰めて絵を描くというようなことです。一つ一つのタイルにはウソが描かれているので すが、それらを組み合わせて描いた絵を俯瞰すると一枚の大きな絵になっている。それは真実を伝え得る絵である、という考え方です。歌川国芳の錦絵にありま すね、人体を組み合わせて描かれた人物像が。つまりそれが当初掲げた「騙し絵」のイメージでもあります。
「千年女優」の場合、千代子が語る内容はウソばかりではありませんが、何が現実に起こったことで、何が虚構なのか、千代子にとってその区別に重要な意味は ないのです。自分の本当の思いを伝えるためには他人にとってはウソの出来事でも、それをもって語る方が彼女の真実を伝えられるわけですから。
 とはいえ、それは本人にとっての真実であっても、時間や空間、常識や価値観を共有する他人にとっては「幻想」と呼ぶべきものかもしれません。通常、常識 的な社会においてはウソと現実を綯い交ぜにして語ることは、ウソとして退けられます。ある個人の主観的な幻覚だの幻想は他者と共有できない、という約束の 下に暮らしている。勿論日常生活の大半はその方が都合良く流れて行きます。
 しかし、アニメーションにしろ漫画やイラストでも、創作物とは得てして作者の個人的な幻想の世界を顕わしたものです。実際にはあり得ない世界やウソの設定を土台にして描くわけですが、そこで語られるテーマまでがウソなわけではありません。

●「パーフェクトブルー」でも現実と夢や幻想が曖昧になる描写が印象的でしたが、そういう点で、「パーフェクトブルー」と「千年女優」の違いはどういうところになるのでしょう?

「パーフェクトブルー」の場合、私は虚構と現実の混交によって主人公の内面の混乱や混沌を描こうと思いましたし、そうした手法によって見る人をも混乱させようと考えたのです。
 つまり主人公の混乱を見る人にも体験させよう、という意図です。混乱している主人公を客観的に見せても面白いとは思えなかったのです。
「千年」の場合は、虚構と現実の混交によってお客さんを混乱させようという意図などはなく、混交そのものを楽しんでもらいたい、といった方が正しいでしょう。
 何が虚構で何が現実なのか、そんな区別に意味が無くなるくらいに虚実を混交させようとしました。
「千年女優」はいわば、「ほら吹き男爵」ならぬ「ほら吹き婆さんの冒険」とでもいうような、イメージの冒険みたいな映画を目指して作っていました。

●「千年女優」では主人公の話を聞いているインタビューアーたちが、主人公の回想の中に入って行くという変わったスタイルを取っているそうですが、その点について少しお話下さい。なぜそういう方法が必要だったのでしょう?

 必要に迫られて出てきた方法というか、単にそのアイディアが面白いと思ったことが一番の理由でしょうね。
 ある意味、この映画の主人公・千代子は聞き手を前にしてリアルタイムで創作活動をしている、とも言えるでしょうか。
 この映画では、主人公の老・千代子が過去を振り返って一代記を語る、という前提でお話が進みます。聞き手であるインタビューアーも、お客さんもそれを本当のこととして受け取って行くはずですが、語りの中に多くのウソが混じり始めます。
 千代子自身が自分の一代記という素材を元に物語をしている、つまり千代子は作者なのです。そう考えると、千代子は私自身の態度をよく表しているようにも 思えます。本当だかウソだか分からないことを綯い交ぜにして並べて作品を作っているわけですから。
 聞き手を前にライブに進む物語。映画に登場するのは語り手である千代子、聞き手の男二人は千代子の物語を単に聞く立場からその物語に参加して行くことになります。聞き手も共に参加するインナートリップです。
 この関係はすなわち私がお客さんに求めていることなのかもしれません。映画のフィルムそのものは上映の度に変化するものではありません。すでに完成され たフィルムは、制作者が手を加えたくても加えられるものではありません。ただ、それを見るお客さんの在り方によって、見る人ごとに、あるいは同じ人間でも 見る度毎に変化するものであって欲しいと思っています。お客さんがどういう思いでこの映画に「参加」するか、それによって見え方は変わって欲しいと思うの です。
 幻想というのは描かれて固定したイメージなのではなく、描かれたイメージに触発され、それを見る個人の中に生まれるもののように思います。
 ですので、観客の参加を要請するような私の映画は見る人にも負担を要求します。平たくいえば、随分と疲れる映画かもしれません。何せ千年を90分足らずに収めようとしたのですから。

●映像表現にはアニメーションの他に実写、3DCGなど他の方法もありますが、2Dアニメーションの有利な点はどういうところにあるのでしょう?

 何がアニメーションの利点なのか、という質問に対しては「分からないです」と答えるしかないんです。有り体に言えば、漫画を除いた他の映像表現を、観客 以外の立場で私は関わっていません。知らないものとアニメーションを比較することは出来ないのです。
 私は中学高校、大学も入れて10年近く英語の教育を受けてきましたが、いまだに英語は喋れません。喋るのも考えるのも日本語です。それと同じように絵で 考えて絵で表現するより他にない。なのでアニメーションには他の媒体と比べて利点も欠点もあるのでしょうが、それを考えても仕方ない。仕方ないことはあま り考えたくありません。
 分かる範囲でいえば、漫画に比べてアニメーションは作品の鑑賞時間を作者が規定できる、その点は楽しんでいます。勿論、漫画は鑑賞時間を規定できないから面白い、ともいえるのですが。
 アニメーション、それも劇場用のアニメーションを作りたいと思うのは、お客さんが視聴する環境がはっきりと想定できる点でしょうか。映画館という暗い部 屋の中でその時間分だけ映画に集中する。ビデオやテレビの場合、途中から見たりぶつ切りにして見たりすることも考えられますが、映画はまずそうしたことを 考える必要がない。
「パーフェクトブルー」の場合、元々ビデオアニメーションということで作っていたので、見る人の生活環境、その人の日常の中で、モニタを通して見るであろ う、という前提で考えていました。なので、劇場用映画として公開されたことは大きな計算違いであったと言えます。ともかくビデオということで、途中で見る のをやめられなくさせてやろう、ということから考えましたし、当人の日常を疑うような人まで出たら成功であろう、という目論見もあったかもしれません。
 その点、「千年女優」は最初から小規模ながら劇場用アニメーションとして企画されたので、お客は最初から最後まで映画に集中して見るであろう、と。もち ろんつまらないと思う人は集中しないかもしれませんし、途中で出て行く人もいるかもしれませんが。

●「千年女優」の一番の見所とは何でしょう?

 答えに窮する質問の一つです(笑)
「千年女優」には特に見せ場というようなスペクタクルも派手なシーンもありません。予算の都合もあって、ゴージャスな画面作りもしていません。そんなことを売りにしようという映画作りがそもそも私は好きではありません。
「千年」はシーンそのものではなく、多くのシーンそれぞれが連関する様にこそ魅力を求めた映画です。なのでこうしてあれこれと語ったところで、とにかく見てもらわないことにはこの映画については何も伝わらないように思えます。
 先にお客さんがそれぞれがどういう態度で関わるかによって見え方は変わって欲しいと書きました。見え方は人によって様々だろうと思います。色々な見方が 出来るように、とも思って作った映画です。映画館という暗い室内はそれぞれの体験を生むに相応しい場所に思えますので、楽しんで映画に関わってもらえた ら、と思います。

●次回作も進行中と聞いているのですが、それについて教えて下さい。

 次回作は「東京ゴッドファーザーズ」というタイトルです。現在すでに制作中で、年内に完成を目指しております。これもやはりアニメーション映画です。
 これまでの2作とはまた違ったテイストで、虚構と現実の混交といった紛らわしいことはしていません。詳しくはご紹介できませんが、一言で言ってしまうと 「人情物」……なんですが、とはいえ一筋縄で行くものを作るのは好みではないので、あれこれと仕掛けを施した人情物です。私は「ひねった人情物」と呼んで います。キーワードは「偶然」です。どこまで本気だかウソだか冗談だか分からないようなとぼけた人情物をイメージしています。
 原作・脚本・監督は不肖私、今 敏。共同脚本には飲み友達の……いえ、ドラマ「白線流し」やアニメーション「カウボーイビバップ」の信本敬子氏を迎えました。
 トリッキーで卑怯とさえ言えるネタと構成を好む私と、暖かくも優しい眼差しでキャラクターを造形する信本氏の個性が上手くブレンドされ、実に「変な」物 語が出来上がりました。面白く見られるかどうかはお客さん次第ですが、少なくともこれまでには無かったアニメーション映画であることは間違いないと思いま す。
 また、アニメーションの魅力としては芝居を重要なテーマにしています。キャラクターの芝居、です。これまで前2作はキャラクターよりも物語の進行を重視 してカットを設計してきました。というより、諸般の制約上、そうせざるを得ない面が大きかったのですが、新作ではキャラクターがそこにいる実在感みたいな ものを何より重視してシナリオも絵コンテも作っています。
 見かけ上はかなりコミカルな芝居であったり話であったりしますが、かといって単純に古臭いマンガ映画的解釈に戻ろうというわけでは無論なく、リアル指向 のアニメーションを通過した先にある漫画的解釈を目指しております。関わるスタッフもそうしたことに特に興味のある人が集まってくれていますし、非常に面 白くも風変わりな映画が出来そうです。
 肝心の役者とも言うべきキャラクターのデザインは作画監督と私が共同であたりました。その作画監督にはジブリ在籍時代に「となりの山田君」の作画監督を つとめた小西賢一氏、演出には「人狼」や「マスターキートン」などで進境著しい古屋勝悟氏を迎えました。二人とも「千年女優」の原画、作監で非常にいい仕 事を残してくれて、甘えたついでに今回は中核となるスタッフをお願いしてしまいました。
 また、冗談みたいな話に重みと真実味を与える美術には、前2作同様、池 信孝氏があたってくれています。
 公開は来年(2003年)の予定……だといいなぁと思うのですが、「千年女優」は完成して一年経っても人目に触れない状態なので、予断は許されません。
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