夜になって再びアオイスタジオに入るが、やはりまだ効果音の仕込みは終わっておらずダビングはなかなか始まらない。時間だけを無駄にやり過ごすわけにはいかない。私にはまだ「マック処理」が山のように残っているのだ。その対策を練らねばならない。すぐにだ。
持参したコンテを元にアフレコ台本の余白にマック処理の必要なカットを再度洗い出し、検討する。

アフレコ台本の余白に書き込まれたマック処理に関する メモ。効果音の上がりを待ちながらアオイスタジオのソファで対策を練った時のものである。これでも処理が必要なカットの半分もないだろう。作画が終わるまではマック処理に手をつけられたなかったつけが回ってきたという感じか。何でも自分でこなそうとするのは命取りだと心に刻んだ私であった。 |
更に制作応援の方とネズミちゃんに実際にマックでの処理が予定されているカットをアオイスタジオまで運ん
でもらい、人気の消えた、にんきじゃないぞ、ひとけと読めよ、その寂しいアオイスタジオの食堂のテーブルにカットを広げて処理不要のもの、代替処理のも
の、何とか私が処理するものを選別し、松尾氏に伝えるようにネズミちゃんに伝言を頼む。これで十数程の「処理不要」カットはすぐに松尾氏の方で撮出しにか
かれるわけである。一刻の猶予もないのだ、と言ってるだろうに何でそうなるか!?
無駄であった。
松尾氏には何も伝わらなかったのである。後日マック処理を続ける私は棚の中に「処理不要」としたカットがあるのを見つけてギョッとなった。それも一つや二つではなく「不要」と判断したカット全てであったろう。
「あれ!? 松尾さんこれ処理不要にしたカットだよ!」
「ウソ!?」
「ダビングの時に選別して松尾さんに伝えてくれって……」
「何にも聞いてませんよ!」
「だって制作に直接…」
「…………………………………」
サッと立ち上がり受話器を取り本社に電話を入れる松尾氏。
「あのさネズミちゃんいる? 仮眠中!? すぐ起こしてこっちに来させて!」
根っから寝ぼけ気味のネズミちゃんが更に眠そうな頭と不思議そうな顔をしている。
松尾氏が冷めた声で言う。
「俺になんか言うことあるだろ?」
「…エっと……あの……」
「今さんからの伝言で何か俺に伝えることがあるはずだろ!?」
「………………」
「も、いい」
「…エ……あの……」
「いいよ、もう!」
ちゃんと怒る気力すら残されていなかったのかもしれない。
このことを後にマッドの上部の人間に少しだけ皮肉を込めて伝えてみた。
「あの子に頼んでも何も伝わらないんだよなぁ、っはっはっはっはっは」
あんたとこの社員だろう!と突っ込むよりあまりの明るい笑いにつられて笑ってしまった。
いいのかな、それで。
話が逸れたがダビングである。やっとの事で効果音が揃いダビングが始まってまもなくの頃であったろうか。マッドハウス社長・丸山氏がアオイスタジオに現れた。アメリカ帰りの社長は何と頭が金髪である。似合うかどうかはともかくインパクトがあるのは間違いない。
さて何故に社長自らアオイスタジオに。
制作側で残り時間と作業内容を秤に掛け、残りの作業量を抱える私がダビングに立ち会っていては明らかに絵が揃わないという判断により、私はマッドのスタ
ジオに戻り社長がダビングに立ち会うということになったのである。残念である、いや悔しいというのが本音であったが、その判断にはおよそ間違いのないこと
は私も理解していた。制作の言うことに筋は通っているし駄々をこねてる場合じゃない。よし、やむを得ない。
全て揃った効果音を付けた状態で最後まで流してもらって、大雑把ではあるが全体を確認する。このチェックを見終わった際にマッドの上の方の一言に随分と救われた気がする。
「いやぁ、おじさん怖かったよぉ」
素直に嬉しいものである。だが喜ばせるなら後にしてくれ、今は急げよ阿佐ヶ谷へ!!
かくして私は制作の車で阿佐ヶ谷のスタジオに戻り作業を続けることになる。地獄のマック処理だ。
私のダビング初体験はこうして若さ故の早漏という青く苦い体験となったが、とても嬉しいこともあった。
初日二日目ともルミ役・松本梨香さんが差し入れという形で顔を出してくれたのである。音響監督に聞いたところ、自分が声を当てた作品のダビングに顔を出
す声優さんというのも非常に珍しいという。一説にはもしもセリフ等が合わないという事態には声を取り直してもよいつもりではなかったか、ということであ
る。
ケーキの差し入れも有り難かったし、何より松本さんが明るいムードで和ませてくれたというのが一番の差し入れであった。本当にありがとうございました。
ダビングの後どれほどの作業日数があったかは定かではないが、長くても数日というところだろうか。初号が7/14であるからフィルムの差し替えがその日
の朝、その更に前日の夕方くらいが撮影入れのデッドラインであったろうか。日にちの区別は溶けて融合しどれほど作業したかもよく覚えていないが、ずっとス
タジオにこもっていたことに間違いは無かろう。「ミニストップ」で着替えの下着やソックスを購入したのを覚えている。何が悲しくてプレイボーイの靴下を買
わねばならんのだ。う〜んダンディ。違うだろ。
作業も最後の最後の追い込みである。
この作業時、私はP-modelの曲を愛聴していた。
P-modelや平沢進の曲を愛聴しているのは毎度のことだが、この時は発売前の新譜シングル2枚「Ashura
Clock」「Layer-Green」のテープを入手して繰り返し聞いていた。これをMDにコピーして作業しながら聞きまくるわけである。頭もかなりメ
ルトダウンしてきている頃だったので、他のディスクに取り替えるということにすら気が回らなかったせいもある。ほぼエンドレス。
愛用のポータブルMDをズボンのポケットに入れ、その電源コードを引きずりヘッドホンから大音量で頭蓋内に曲を送り込み、長髪を結びマックの前に座りひ
たすら処理を続ける。時にカット袋を探してコードを引きずりながら小声で悪態をつきつつスタジオ内をうろつく姿はさながらサイバーパンクのようであったか
と思う。サイバーな落ち武者か。
否応なくゴールはそこにある。気力を振り絞るのも難しくはない。そしてクロックアップ!クロックアップ!
熱暴走には要注意だ。
その頃であったろうか。スタジオで寝る日が続いていたわけだが、ある時遠くから目覚めよと呼ぶ制作の声が聞こえ、眠い目をこすりながら起きあがり居合わせた松尾氏とカマキリ君と3人で雑談をしたことがあった。
その頃には私のサンダルの足を覆う部分はナイロンの糸数本によって何とかつなぎ止められている状態になっていた。踏ん張ったら切れそうである。
当然それが象徴する私の堪忍袋の緒も同じ状態だったはずだ。定番になったセリフを自嘲気味にはく私。
「これが切れたら殴る道具に変わるんだよね」
笑うカマキリ君。
知っているのか? 殴るリストに君が入っていることを。
いくら「制作応援」が入ってくれたからと言って、ハマグリが完全にパーフェクトブルーの制作を外れたわけではない。何かと用事を頼む必要もあったのだ
が、いつも「本社に行って来ます」というセリフを残しハマグリはスタッフルームから姿を消していた。用があるときには必ずいない男だ。ある時どうしてもハ
マグリに用事があり、急いで他の制作に所在を確認してもらった。確かにいた、本社に。
「仮眠中みたいですけど」
一度や二度のことではない筈だ。呼べば寝ている。「本社に行く」とは寝に行っていたらしいのだ。
寝ぼけ顔で現れるハマグリ。
「あのさ……」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、足元がふと軽くなった。
サンダルが、切れた。
「よく、眠れたんですか?」
奥のマックの前で松尾氏が目の下に隈を作りながらも、撮出しを続けているのが見えた。松尾氏も睡眠不足では人後に落ちまい。
「……寝てないですよ」
足元に、ぼろぼろになってちぎれたサンダルが転がっている。
「眠いのは分かるけどさ、仕事してからにしてくれねえかな」
「寝てませんよ」
「普段から寝てるんだから仕方ねえか、電話は塞ぐ、寝てばっかりで仕事はしねえ、おまえのギャラが予算から出てるんじゃ福沢諭吉をドブに捨てるようなもんだよな」
サンダルは死んだ。あんなに役に立ってくれたサンダルはもう戻らない。目の前には役立たずがのうのうと立っている。
「寝てないっていってるじゃないですか」
サンダルよ、今までありがとう。
「起きてねえんじゃしょうがねえんだよ」
瞬間、無音。
バシッ!!
目の前に自分の机の底が見えた。
枕元には寝がけに飲んだビールの空き缶。
汗だくであった。
エアマットのそばにはナイロンの糸数本で辛うじてつなぎ止められているサンダルがあった。
さて本当にこんな夢を見たか、本戦記上のただの演出なのかどうかは別にして、途中まで、「ズル寝」のくだりあたりまでは本当のことである。途中の会話も似たようなやりとりはあったと記憶している。
読者の方にはつまらない結果であろうが、この私の武器とも言うべきサンダルが最後までちぎれることはなかった。お話としてはサンダルがちぎれ私がそれを持って大立ち回りの一つも演じれば、読み応えのある「戦記」に相応しいものになったのであろうが。
曲がりなりにも最後の修羅場において懸命に作業をしているスタッフを前にそんなまねをするほど私は若くない。それに何よりそんな元気はないっちゅうの。
確かにいつ切れてもおかしくない状態であった。私じゃないぞ、サンダルが、だぞ。そしてそれをしげしげと見たときに、私は冗談ではなくこれが切れたら
「切れてしまうかもしれない」という観念にとりつかれ、その様があまりに先の夢の様に生々しく脳裏をよぎって私はそのサンダルに、長年私の供をしてきた老
兵に別れを告げることにした。
ちぎれかけたぼろぼろのサンダルに見入って感慨深い顔をしている私の姿というのはあまり気味のよいものではなかったかもしれないが。
サンダルよ、安らかに眠れ。
弔いは後でゆっくりと上げてやる。
代わりに仕事の供とした黒の革靴は普段履いている物であったが、疲れてくると足がむくんでちょっと痛かった。サンダルの離脱は戦力低下に違いはない。
この頃には我々のフィルムに降りかかる「事故」には随分と慣れてきていたと思う。何があっても驚きゃあするもんか、の筈だったのだが。私たちの想像力はまだまだ羽を広げる余地があったようだ。
編集の方からの度重なる問い合わせがあった。
「カットの尺が足りない」
……………どういうこと、それ。
編集が終わった時点でカットの尺は変えられない、その事は前にも触れた。完尺の出たフィルムに音を合わせているわけだから、尺をいじることは出来ない。
つまり編集した時点で例えば4+0というカットがあった場合、そこには何が何でも4+0の本撮のカットを入れなければならないわけである。3+12だの4+06という訳にはいかないのだ。
本撮で編集したカットに無論問題はないが、動撮や原撮の段階で編集したカットを本撮に差し替える際に起こった事故なのだ。それもまたもや一つや二つではない。事故と不幸はまとまってやってくるのが世の常だ。この作品においては尚更のことだ。
しかも尺が足りないばかりではなく余るカットも出てくる。もっとも、演出的にはどちらも困るがフィルムを上げる、という絶対的な命題の前には余る分にはカットは埋まるわけだから、ともかく尺が足りないカットが問題である。
致命的に足りないカットはシートをいじって尺を水増しして再度撮影してもらうしかない。またカット867というやはり尺の足りないカットがあったのだが、これは松尾氏の賢明なる判断で次のような応急手当がなされた。
まずコンテの絵を見てもらいたい。「ダブルバインド」の撮影がアップした後、撮影所内の廊下で未麻が落合恵理と出会い、恵理が立ち去るカットである。
コンテ尺では4+12となっている。4秒半である。
このカットでは恵理はカット頭から歩いておりカット尻でも画面からアウトしない。だというのにこのカットの尺が足りないのである。12コマか1秒かは覚
えていないがこのカットの尺を延ばすためには歩き去る恵理を描き足す必要があるわけだ。しかしそんな時間があるわけもない。そこで、だ。

赤くペイントさているのが恵理のラスト位置である。作画はここまでしか用意されていないわけだから、このまま尺を延ばすと恵理はカットの途中で突然消えるか、ラストで止めておくかしかない。歩きのコマ数を落として尺を稼ぐことも可能だろうがそれも不自然に過ぎる。 そこで下のコマに示すように未麻にズームしていってカットラストでの恵理を画面外に出してしまうようにしたわけだ。 |
未麻にカメラがズームアップして(通常はT.U.-トラックアップ-と呼んでいるがズームアップとトラックアップは本来区別されるべきものである)歩き 去る恵理をカット尻で画面外になるようにして、そしてラストの未麻の止め絵で尺を稼いで急場を凌いだのである。このカメラワークは演出的にもさして問題は なく、違和感無くはまっていたと思う。松尾氏は思ったという。
「さすが、俺」
この時期に起こった事故で一番気の毒な被害者は美監の池氏ではなかったろうか。
撮出しの終了も近い頃、急ぎに急ぎやっと背景の直しの作業が終わった。
「お疲れさまでした!」
「いやぁ、やっと家に帰れますわ。」
泊まり込んで作業を続けていた池氏も疲労困憊の様子であったが、家に帰れるという思いからか明るい表情で帰り支度をしていたその時のことであった。
「背景が足りないかもしれない」
制作応援で入ってくれた背景担当の制作が不吉な言葉を携えスタジオに入ってきた。
そんなアホな。探せ探せ!草の根を分けても探すのだ!!
しかし不吉な予感は的中すると相場が決まっている。特に我がパーフェクトブルーにおいては、イチローの4割挑戦など目じゃないくらいの高打率である。
2枚足りない。手作業で残りカットの背景を数えた結果である。間違いない。しかもその2枚は随分以前に上がったはずの背景である。私も池氏もチェックした覚えがある。紛失したのだ。
「無い…………って、無いとまずいじゃん」
頭の悪い反応しかできなくなってる私。
双六で遊んでいるわけではないのだ、一歩進んで二歩下がってどうするのだ!
「すぐに描いて貰うしかないです、ね」
背景担当の方も気まずそうに言う。しばしの沈黙。描くのは誰かって? 目の前には帰ろうとしていた美監が立っているのだ。青梅街道で見ず知らずの人を捕まえてきて背景を描いてくれと言えるわけもないだろう。
「申し訳ない、が頼みます」
それ以外に私に何が言えようか。
まとめはじめた荷物を開いて再び戦場とも言うべき机にだるそうに向かう姿は実に気の毒としか言いようがなかった。その後ろ姿からは鈍い色のオーラが立ち上っているかのようであった。
私は私でマック処理のデータの作成に追われていた。最後に残った主な作業はHP「未麻の部屋」の色々なデータであったろうか。ホームページ内の画像や日記の文面だのをひたすら作成していたと思う。
「みんな 助けて! 私だってあんな仕事したくなかった。全部無理矢理やらされてるの! 全部脚本家が悪いの!
助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助け
て!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助け
て!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助けて!助け
て!助けて!助けて!………」
私も助けて欲しいよ。
しかし私は全部無理矢理やらされてるわけではない。脚本家が悪いわけでもない。
そう「全部監督が悪いの!」
因果だな。
スタジオ内での作業が遂に終了。
私は確か翌日の初号まで自宅待機となるが、演出・松尾氏は作業終了後も撮影所からの質問等がある場合に備えて引き続きスタジオに泊まることになる。申し訳ない。
本当にこの人間でなければ完成もおぼつかなかったかもしれない。さすが私の目に狂いは……ってそれはもういいか。
そして迎えた7月14日。
初号が行われる調布の東京現像所の上には暗雲が立ちこめていた。
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