妄想の六「直撃の電波系」

  直撃の心配

2003/3/31 (月) 10時起床。晴天。14時、代理人シナリオ打ち合わせ。4話の決定稿出る。警察組織の呼称。猪狩は係長。6話のプロット、ブレインストーミング。 ホームレスの婆さんが見つかって、月子の狂言が露見。だが、月子自身も襲われたと思いこんでいる。問い詰める猪狩と馬庭の前で、月子を少年バットが「襲 う」。少年バットは二人には見えない。月子が急に殴られたように衝撃を受ける、というシーンはなかなか良い思い付きではないか。それとは別に並行して蛭川 の娘のエピソード。自殺志願。最後に月子の衝撃とシンクロ。全編を「台風」という自然現象で綴じる。サブタイトルは「直撃の不安」。

 さて以前にも記したがシナリオ段階から最もコンテ・演出の難易度が高いと思われた第6話「直撃の不安」。まずこのサブタイトルからして不安である。少々日本語としておかしい。このサブタイトルが示されるのは、ビルの電光掲示板に流れる文字。
「台風9号直撃の不安に都内各所では…」
 普通、こうした言い方はしないであろう。この場合なら「直撃が心配され…」とでもした方がよいのではないかと思われる。台風の直撃という対象が明確な場 合に「不安」とは言わないであろう。そうしたことは一応分かった上で付けたタイトルで、サブタイトルから不安を誘おうという狙いでもあった。
 この話数のテーマ音は台風による風。
 台風が来て去るまで、という時間制限を先に設けて、その中で台風という不安要素と各キャラが抱える不安感やストレスがシンクロする、という狙い。老婆の 語りと妙子がシンクロしているようにも見せかけるという危なっかしくバランスも際どいシナリオ。父親が娘を盗撮していたという内容も実に際どい。
 私がシナリオから受けた感じと出来上がったものとでは随分印象が違った物になっているが、しかしだから良いとか悪いといった言及はしない。解釈に幅があるシナリオであるし、各話演出さんがそう解釈したならその路線で良い、というのが総監督の態度であった。
 とはいえ、私も大変気に入っていたシナリオなので、私なりの感想をあれこれと書いてみる。
 シナリオ段階では各話数ごとに固有の音のテーマの他に、固有のムードを想定していた。2話だと「ブラックコメディ」3話なら「サイコ風」とか4話なら 「ピカレスクロマン」だとか。蛭川のどこがピカレスク(悪漢)なんだか分からないが(笑)、まさに「小市民的ピカレスクロマン」だと思える。5話が「ファ ンタジー物」そしてこの6話は「実相寺昭雄みたいな感じ」といういきなり具体性豊かなイメージだった。
 ちなみに7話は「推理物」(ただし無論正統な論理的なものではなく非論理的な推理だが。非論理の推理というのは大きな矛盾だが)、8話は「コメディ」、 9話は「ショートショート」(そのまんまか)、10話は「ホラー」、11話が「舞台風」、12話が「ヒーロー物」、13話は「総監督任せ」。13話は当初 「スペクタクル物」というイメージもあったが制作現場を崩壊させたくないという判断から「総監督任せ」に勝手にさせてもらった。
 しかし「実相寺昭雄みたいな感じ」って一体、なんだ(笑)
 実相寺昭雄を知らないという人は自分で調べてください。
 自分で物を考えるのが苦手な人のために簡単に紹介すると、独特でスタイリッシュな映像で知られる映画監督。代表的な作品には映画「曼陀羅」「哥」「あさ き夢見し」「歌磨夢と知りせば」「帝都物語」「悪徳の栄え」「屋根裏の散歩者」「D坂の殺人事件」などだが、不勉強なことに私は映画作品は一本も見ていな い。なのに何故「実相寺昭雄みたいな感じ」というイメージが出てきたかというと、水上さんや私にとっては「ウルトラシリーズ」でインパクトを受けた方なの である。
「ウルトラマン」ではジャミラの身の上も気の毒な「故郷は地球」などが非常に印象に残っているが、大学生時代に何度か見返した「ウルトラセブン」の「狙わ れた街」「第4惑星の悪夢」が大好きである。宇宙人と卓袱台を挟んでモロボシ・ダンが議論する場面などは有名であろう。
 ともかくこの実相寺監督のスタイリッシュな映像は、画面一つにすでにシュールというか不安なムードを湛えている。その素晴らしき異様さは、もし映像をろ くに知らない新人がそんな画面を作ったらすべてNGを出されるような特異さだと思う。変な言い方だったかもしれないが、とにかく普通じゃない、それでいて かっこいい構図が多用されていた。
 こうした敢えて不安定に外した構図は普段の私が好んで使う構図とは対極にあるといっていい。私は基本的に、対象物をもっとも捉えやすく、なおかつその対象物がもっともそれらしく見えるカメラ位置を選ぶように心がけている。まるでデッサンの基本のようだ。
 当初自分でコンテ・演出を担当することを覚悟していた私としては、実相寺監督に比べれば児戯に等しいだろうが、自分の得手ではない構図を多用したコンテ をあれこれ想像しては楽しみにしてもいた。そうした実験もテレビならではだと思っていたし、構図の引き出しを増やすことは今後劇場作品などを作る上でも大 変良い影響を与えると考えいたのだが、先に顛末を記したように2話がこけたため、私としては6話を断念した。そしてこの厄介きわまりないシナリオはコン テ・演出を鶴岡氏、作監を江口氏に引き受けてもらうことになったわけだ。
 完成品では視点がかなり妙子寄り、というか感情移入させる系統の演出になっていると思うが、私がもしコンテ・演出していたら、視聴者的にはもっと入って 行きづらい作品になったことであろうし、妙子はもっとひどい目に遭わされたに違いない。何せ私の演出において若い娘はやたらといじめられるらしいのだ。

 何故「実相寺昭雄みたいな感じ」をイメージしたか。それはサブタイトルが示す通り、この話数の肝心なテーマは「不安」なのである。そして以前にも記した が、対象がはっきりしない以上、不安を直接描くことは出来ないし、視聴者に何だかよくわからない不安を感じさせることで伝えられるものであろう。なので、 視聴者が見ている最中にはっきりと自覚しないような形で不安を感じ続けるような絵作りが必要だと考えたわけである。なので「実相寺昭雄みたいな感じ」。安 直と言ってはいけない。共同作業で作品を作って行く上で、イメージを共有しやすい言葉で言い表した、と考えていただきたい。
 完成した映像でも、随所に不安感を煽るための絵的な工夫がされていたと思うが、効果さんの音響による演出に注目したい。「妄想代理人」は全体として効果 さんに負担をかけた作品だったと思う。ダビング時の絵があまり状態が良くなく、後半はほとんど線画だったという制作事情も負担に拍車をかけていると思う が、全体にBGMに負うシーンが少なく効果で持たせてもらう話数が多いのである。特にこの6話、7話は音楽の使いどころが少なく、効果に負う部分、大であ る。
 6話では不安を煽る効果としての風や軋み、雨の音、妙子の感情を表す濁流などなどダビング時に効果音が付くことで何倍にも豊かになったと思う。

ハローCQ電波系

 第7話「Mhz」(メガヘルツ)とはまさに電波系アニメを象徴するに相応しいサブタイトル。「少年バット参上!」で幕を開けた事件が一応の決着を見る回であり、シナリオも完成品も私は大変気に入っている話数。コンテ・演出は「テクノライズ」監督などで知られる浜崎博嗣氏。
 7話はコンテを読んだだけでその面白さと巧妙さが見て取れた。話を説明しようという態度ではなく、「感じ」を表現しよう様が大変好ましく、また画面作り といいカット割りといい独特のムードを醸し出していた。いわばそうした映像の文体は私の好みとは随分違うものだし、ちょっとどうだろう?と感じるカットも なくはないのだが、そうした些細なことより全体としての在り方が好ましく、非常に個性的である。私には真似の出来ない演出で大いに刺激された。6話と同様 に、この7話も通奏低音のようなある種の不安が必要なシナリオだと思うが、そうした感じも上手く表れていると思う。7話は異様なムードのある話数に仕上 がっている。
 またコンテに読みとれた「巧妙さ」という点も私は非常に好ましく勉強にもなったのだが、それは「動かしても止めても持つように設計されている」ということ。時間的な制約の大きいテレビアニメにおいては大変重要な配慮のひとつだ。
 作画の枚数をかけて画面を「持たせる」ことは容易であるし、アニメーションの魅力は動くことにあるといっても良い。しかし仕事として我々が携わっている のは単なるアニメーションではなく「アニメーション作品」なのである。要するにアニメという手法を使った映像作品ということ。動かすことに魅力を求めるだ けでなく、動かすことそれ自体を目的としたようなコンテや演出を私は嫌う。動かすことで持たせる、というコンテ演出は裏を返せば(時間的物理的事情で作業 軽減を計らねばならない事態においては)「動かさないと持たない」という危険性を抱える。無論、制作現場のキャパシティ等を考え合わせて、どのくらい動か すのか止めるのかを随時判断して行くことが演出には求められる。それらはすべて作品の面白さのためにあると私は思う。
 劇場作品であれテレビであれ、動かすことを目的の中心に求めたようなコンテに私は全く感心しない。というのも得てしてそうしたコンテ演出はこう言っているかのようなのだ。
「作品の面白さとはよく動くことである」
 私は全く同意しない。先に挙げた原画原理主義者たちはたいがいこういうコンテ演出に傾きがちであるが、私はあくまでアニメーションで作品を作っているつ もりなので、極端にいえば「全然動かなくたって作品が面白ければそれで良い」という態度である。作品から見ればコンテ演出も作画も美術背景も色彩設計も編 集も音響も面白さを作り出すための素材に過ぎない、というのが私の考えだ。念のため断っておくが、原画原理主義を否定する気はないし、よそ様でそうした態 度で作られるのは私には関係ないのでどうでも良いと思っている。むしろ眺める分には面白いとさえ思う。関わるのが嫌なだけである。
 話が逸れたが、7話のコンテが優れているのは、現場の状況によってはより動かすことも可能だし止めてしまっても作品の面白さは維持出来る、ということ。 「作品の面白さ」ありきなのである。当たり前に見えることだが、他ではお目にかかったことはない。こうした制作現場への配慮までなされた上で独特のムード まで演出してくれた浜崎氏に賞賛を送ると共に感謝したい。
 7話のムードに欠かせないのが効果音であろう。7話の基調となる音はノイズ。馬庭の主観的な描写においてはノイジーな画面が多用されていたが、同様に効 果でもノイズが多用され、セリフなども歪みがかけられ目に耳にザラッとした手触りが演出されていると思う。お気づきになった方は少ないと思うが、この話数 では音楽はほとんど使用されていない。確か1ヶ所だけであったろうし、それも控えめに付けられていた筈。効果音のノイズそのものがBGMとしての役割を果 たしている。馬庭と猪狩が話す飯屋で聞こえる工事のノイズなどは浜崎氏のアイディアによるもので、うらぶれた感じを表すと同時に、猪狩の価値観が「壊れて 行く」というイメージも誘ってくれる。
 絵の中にそうした音を発する物が映っているわけではないのに、その音を加えるのはムードを醸し出すための演出以外の何物でもない。私が意識していなかっ ただけなのか単に不勉強なだけなのかもしれないが、映像的なことはよく語られることはあっても、絵と同じくらいに重要な音響、中でも効果音の演出について あまり語られていないのではないだろうか。なのでこうしたことを意識している演出さんは非常に少ない。あらかじめ効果さんの方で付けてきてくれた音に対し て「良い悪い」「大きく小さく」といったリクエストはあっても「無い音」を要求するような発想が欠けている気がする。音楽の使い方に関しても同様である。 絵を考えると同時に音のことまで考えている方はごくごく少なく、考えようとすらしない人がほとんどである。まぁ、それ以前にカット割りやレイアウトの意味 も分からない、自分の施した演出がどういう意味になるのかも分からない演出さんが大半だったりするのだから音がどうこういう以前なのかもしれないが。
 
 さて7話について先にこう記した。

7話は「推理物」(ただし無論正統な論理的なものではなく非論理的な推理だが。非論理の推理というのは大きな矛盾だ)

 各話のシナリオを考えるに当たって掲げたイメージである。()内に記した通り7話を「推理物」というには無理があるが、我々がシナリオ段階でイメージし たのは「推理物」的な内容というよりは「形」とか「枠」である。正統な推理物とは客観的な証拠や手がかりを積み重ねて隠された事実に辿り着くというスタイ ルだと思うが、7話も証拠や手がかりを積み重ねる形に変わりはない。客観的ではなく主観的な証拠や手がかりというあたりが「妄想代理人」たるゆえんなので ある。無理矢理と言われるかもしれないが。
 夢で手がかりを得る、というのは卑怯かもしれないが、何せ「夢告」という奇異な予告で次回を紹介するアニメ作品なのである。少年バットというメタよりの 使者、その謎に迫るには、現実的客観的な手がかりでは無理な話で、それゆえメタにはメタで対向するべく馬庭の夢、彼方からの電波という手がかりで迫ろうと したのだ。とか何とか屁理屈を並べたところで、「夢で手がかりを得る」という考えは元々「ツイン・ピークス」のパクリなんだけど。

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