妄想の十一「ホイッスルの警告」
-その1-

実はおかしくなっている

 第11話「進入禁止」はコンテが非常に難しい話数だが、演出家としては非常にやってみたいと思わせるシナリオである。何しろ動きが少ない。こういう話をアニメーションとして持たせるのはとても面白いだろうな、と思った。
 11話のイメージは舞台芝居だった。語りをメインにして、カメラ位置も基本は舞台を捉えるようにする。ご覧になった方は分かるだろうが、美佐江を右に置 いて左側の少年バットを障子で隠す、この一番カメラが引いたポジション、これを基本にして観客が舞台芝居を見るような視点でカットを割って行く、というイ メージだった。そして美佐江の語りの合間合間に、まるで美佐江の言葉と裏腹な猪狩の有様を挿入するというスタイル。
「妄想代理人」のアイディア出しの古い段階からこんなイメージがあった。
「少年バットに襲われるが逆に撃退する人もいる」
 その人はきっと「おばさん」であろう、と私は漠然と考えていたのだが、こんなに素晴らしくそのイメージに具体的な形を与えてくれたのは水上さんのおかげに他ならない。私は11話のシナリオが非常に面白いし、出来も素晴らしいと思う。
 しかし不思議と11話のシナリオ制作にまつわる記憶がない。それだけ水上さんにお任せしていたのだろうし、印象に残っているのはシナリオを読んで大受けしたことである。
 もっとも私が衝撃を受けたのが「美佐江の反転」である。美佐江は少年バットを無意識に呼んでしまったことを自覚しつつ、自分の弱さと対峙しそして克服す る。その美佐江の迷いに応じて少年バットは殴りかかろうとしては思いとどまり、思いとどまっては再び襲いかかろうとする。これが11話の基本的な構図で、 その翻弄される少年バットの様が面白いと思った。だが一番面白いのは少年バットを撃退した立派な美佐江が、後半の居酒屋のシーン、猪狩の語りによって実は 「少々頭がおかしい」と一気に反転するところである。これは確かプロットでは書いていなかったはずで、シナリオで格闘した水上さんの智恵と努力の賜物で あったと思われる。私はシナリオを読んで思わず声を上げて笑ってしまった。
「あっはっは、ひでぇことするなぁ、水上さん(笑)」
 最大の褒め言葉だと思っていただきたい。
 美佐江は少年バットに対してひたすら正しいことを言っている。あまりに正しくて恐ろしいくらいだが、何より恐ろしく迫力が感じられるのは、それがすべて実はおかしくなっている頭で考えられていた、という反転にあるのではないかと思う。
 私はこういう感動的なんだか悲劇的なんだか分からない捻れこそが大好きだ。ある意味この美佐江自身の、そして美佐江と猪狩の関係の捻れこそが「妄想代理人」最大の捻れではないかとすら思う。私だってここまで非道いことはなかなか考えつけない(笑)
 11話はシリーズ中もっとも捻れた回ではないかと思う。私もこの猪狩と美佐江の捻れた関係に触発されて13話の演出にも力が入った次第である。それはまた後ほど。

身の上話はつまらない

 今更ながらだが、基本的なシナリオ制作のプロセスについて触れておく。
 まず最初はネタ出しである。水上さんが加わる前から出ていたアイディアもあったが、後半はだいたい「次、何しようか」といった無責任な態度で打ち合わせ が開始された。このテキストでもこれまで、何度か実際に交わされたであろう会話などを描写してきたが、ほとんど冗談みたいなアイディアを山と積んでゲラゲ ラ笑いながら話の大まかな内容を話し合う。
 この打ち合わせ内容をまとめつつ新たにアイディアを加えて水上さん、あるいは吉野さんにプロットを上げてもらう。このプロットを元に再度打ち合わせをし て、修正箇所が少なければそのままシナリオに入り、一考が必要な場合はプロットの稿を重ねることになるが、11話まではほとんどプロットの再稿は少なかっ たように思う。12と13は話のまとめでもあり、プロットが非常に難航したがそれは12話についてのテキストで詳述する。
 シナリオの初稿が上がったら、再び打ち合わせ。そこでまたアイディアを加えたり間引いたりして、それを受けてシナリオの再稿に入ってもらう。水上さんの 場合は多くても3稿、吉野さんは5話が5稿、10話が4稿まで行ったろうか。これで決定稿ということになる。他のテレビシリーズの状況を知らないので私に は何ともいえないが、他にもテレビをこなしている水上さんが「時間がかかってすいません」と漏らしていたし、話数を追うごとに水上さんの疲労度が上がって いった様を思うと、きっとシナリオが大変なテレビシリーズだったのではないかと思われる。

 11話を考えるに当たってまず決まったのは「猪狩の女房が少年バットを撃退する話」ということだろう。少年バットを撃退するのは、腕力ではなく精神力 だ。なので病弱な人がむしろ少年バットを撃退する方が皮肉でいいのではないか。撃退するためにはまず少年バットを呼ばなくてはならない。呼ぶためには猪狩 の女房・美佐江は何か精神的に追いつめられるだけの事情がなくてはならない。体が弱い人なんだから、その病気を苦にしていることにしよう。しかしややこし い問題を語っている時間はないので明快に提示出来る「手術を受けるかどうか」というハードルを設定しよう。このハードルを越えることがつまりは少年バット を撃退することになる。さてこの縦軸に猪狩をどう絡めるか。美佐江の方は一進一退を繰り返しながら、しかし徐々にその精神の強さでもって少年バットを退け て行くのだから、逆に猪狩はどんどんダメ人間と化していった方が面白かろう。猪狩が踏み込むのは猪狩にとって懐かしくも心地よき「記号の町」……そんな形 でアイディアを考えていったのではなかろうか。この「記号の町」については後述する。
 美佐江は自宅の和室に現れた少年バットを座卓の向こうに座らせて話し始める。まるで「ウルトラセブン」の「狙われた街」みたいだがその通りだ。そういう イメージはあった。美佐江は綿々と身の上話を続ける。通常私は物語内で身の上話をするのは好ましくないとして避けている。つまらないからだ。よく知りもし ない人の身の上話を聞かされるほどつまらないことはない。よく知ってる相手だってさして面白くはなかろう。身の上話が面白いのはその内容が本当に面白い か、よほど面白く語るかではなかろうか。多くの劇中に登場する身の上話なんて登場人物に同情してもらおうというさもしい魂胆か、設定や経緯を説明したい作 者の都合に決まっている。身の上話なんてのはすでにあったことを伝えるだけで、展開するストーリーなどではない。気の毒な身の上話なんかは水戸黄門あたり に任せておけ。
 そんな態度であるにもかかわらず、この11話で大きく身の上話を取り入れたのは視聴者にこう思わせるためである。
「つまんねぇ」
 かなり歪な態度であるが、無論意図があってのこと。美佐江の身の上話を聞いて、つまらない、退屈だな、と思うのは視聴者だけではない。そう、少年バット である。11話の主人公は美佐江といっても良いだろうが、シナリオの狙いとしては視聴者をむしろ少年バットに同調させるよう目論んだのである。意図、捻れ てる?
 美佐江の話を聞かされて「何たらたらつまんないこと言ってんだよ、おめえと亭主の馴れ初めだの夫婦の努力なんか知ったこっちゃねぇんだよ。早く展開し ろ。話を進めろ」と思った視聴者はとても正しい。その思いはモニタ内へ投影され座卓の向こうでしびれを切らす少年バットによって体現されたはずである。

語りの力

 さて「つまらない」と思って欲しいという歪な狙いを託された美佐江の言葉が、単につまらなかったら洒落にならない(笑)。シナリオの狙いはこうだ。
「聞いた相手が何一つ面白いと思えないであろう話を延々と続ける美佐江は何かおかしいのではないか」
 そういう風に視聴者が感じたら成功である。語る内容ではなく、「語る様」が面白い。シナリオの要求は歪にして高度だ。しかしその様を面白く描こうにも芝 居は少なく、動きが極端に抑制された話数でもある。キャラクターの表情や仕草、カット割りや構図にかかる比重が大きくなる。実際、11話演出の島崎さんや 作監の佐々木さんはよくやってくれていると思う。ただ最大の魅力にならねばならない美佐江の「語る様」、これを確実に表現するために、もう一押しが必要で あった。
 声優さんである。
 これは「語りの話数」と考えて、声優さんの芝居に比重を置いた演出を考えた。無論私は11話の担当演出ではないので、全体のバランスを考える総監督の立場としての演出という意味。
 美佐江の声優さんはボイスサンプルで選んだと思う。業を感じさせてくれる人。それがイメージである。画面上の動きが少ないだけに、声の芝居は特に後半あ たりでは「芝居っけたっぷり」なくらいの大きな芝居が欲しかった。小宮和枝さんはまさにはまり役だったと思う。前半の「つまらない」話を語るあたりは、芝 居っけを押さえながらも、美佐江の思いこみの強さや歪さを重ね合わせてくれていたし、後半にかけて迫力が増し、精神の強さというより常軌を逸した思いこみ が前面に出てくるあたりは、絶品。美佐江の語りのクライマックス、部屋の三方の壁が倒れ、広がる草原の中で「私は…手術を受けます」というセリフには晴れ やかな狂気も感じられた。アフレコで私も音響監督も小宮さんの高まって行く語りの迫力に圧倒され魅了され、私は気の利いた感想もいえず口をついて出たのは 「……すげぇ」の一言だった。ビデオやDVDをお持ちの方は是非大きな音で小宮さんの芝居を堪能してください。
 アフレコでは音響監督の配慮で、小宮さんだけ他のキャストから離れた小さなブースに隔離されての収録となった。横に声優の仲間がいると美佐江の孤独が薄まってしまうかもしれないという、実に素晴らしく人が悪いアイディアであった(笑)
 ちなみに三方の壁が倒れてそこに草原という異質な空間が広がっている、というアイディアは寺山修司の映画「田園に死す」から拝借したアイディア。知って いる人も多かろうが、私は実はこの映画を見ていない。「そういうシーンがある」と耳にしていただけなのだが、つい使ってしまった。チンピラみたいな真似を してすいません。

マロミおじさん

  私は11話の面白さを支える要素の一つに「身につまされる」という点があると思う。美佐江はその語りの中で、亭主である猪狩を褒め称え尊敬の数々を口にす る。女房にこんな態度を取られていたとしたら、猪狩はとても辛いと思う。家に帰るとひたすら尊敬の眼差しを向ける女房がいたらかなり辛い。人間、敬意を受 けることは幸せだと思うし、自分が欲しい敬意より低い敬意しか手に入れられないと大変不幸な状態に陥るが、逆に過度な敬意を示されるとこれはこれで辛いと 思う。
「やめてくれ。俺はそんな大したもんじゃないんだ」
 猪狩の内心の叫びである。自分が把握している自分と大きくずれた像を他人から投影されるのは、それが大きくても小さくてもそのズレ加減が気持ち悪いことには変わりなかろう。
 しかも猪狩は、5話以降、時代とのギャップに大きな疲労感を感じている。7話においてそれは決定的となり、「日の丸」マッチが空っぽになってしまったよ うに、猪狩の積み上げてきたものも何か空虚なものに思えてきている。世に言う「中年期危機」みたいなものであろうか。それまでの価値観が急に白けてしまう 感じだ。
 実際11話のアフレコ現場でも冗談めいてはいたがそんなムードがあった。この話数は美佐江役の声優さん、猪狩役の飯塚さん、犬飼役の大竹宏さんなどベテ ランの方が多く、以前からの顔見知りの安心感なのか、話の内容とは裏腹に穏やかなムードに包まれたアフレコとなった。が、飯塚さんと大竹さんは役とシンク ロする部分もあるのか、仕事と関係ない世間話すらもまるで猪狩と犬飼が話しているようで、こんな自嘲的な洒落が飛びだしていた。犬飼のセリフにこんなのが ある。

 犬飼「俺? 俺は5年、5年食らいこんでたの。出たはいいけど
仕事はねえし、まあ警備員だったらほら、履歴も資格も関
係ねえから…」

 これをもじって犬飼役の声優さんは、いっていた。

 犬飼「まあ声優だったらほら、履歴も資格も関
係ねえから…」

 ほほえましい冗談なのだが、その奥に時間の堆積が感じられるような気がした。

 家に帰っても等身大の自分でいられない猪狩が家に寄りつかなくなるのも無理はないといえるが、しかしかといって家の外は時間の流れが速く、理解出来ない ものに溢れており、ここでも疎外感を感じる。そこで口を開けて待っているのが「記号の町」だ。猪狩を誘(いざな)うは大竹宏さん演じるところの「犬飼悟 郎」。背が小さくて目の大きな可愛いおじさんキャラである。
 この犬飼のイメージ、お分かりになった方も多かろうが、キャラデザインのモデルとなっているのは「マロミ」である。その役どころもマロミそのままであ る。猪狩にとっては時代を共有し心地の良い時間を過ごせる相手であり、「記号の町」という懐かしき場所へ猪狩を封じ込めるための先導役となっている。最初 のネタ出しの段階だったと思うが、猪狩を「記号の町」に誘導する役柄が欲しいと考えた。何となく黒澤明監督「生きる」に出てきた伊藤雄之助の役どころみた いな感じ(笑)。犬飼とは全然イメージ違うけど(笑)
 志村喬をネオン街へと誘う伊藤雄之助がメフィストみたいで印象的だったせいだと思うのだが、同じように猪狩を「行っちゃいけない場所」に導いて行く役柄 が欲しいと思った。誘われる場所は心地の良い場所なので悪魔的なイメージではなく裏返して「かわいい」方にしてみよう、それは同時にマロミのイメージに重 なるのではないかと考えた。「記号の町」で唐草模様の風呂敷を背負って逃げる犬飼を猪狩が追って行き、角を曲がったところで犬飼は消え、マロミのキーホル ダーが落ちている。これはつまりは犬飼=マロミだったということ。これはかなり理屈としてはおかしいが、犬飼が実際に存在したのかどうかは謎のままにして おいていただきたい。

記号的

  さて何の注釈もなく「記号の町」と書いてきたが、本篇をご覧の方には想像が付くと思う。11話で猪狩が踏み入れる平面的な世界……いやアニメなんだから全 部平面なのだが、「妄想代理人」のそれまでの世界観と絵柄や画風を異にする世界のことで、昭和30年代風の人や物が立体感を殺した絵で表現されている。こ のシーンのことを制作現場では「記号の町」と呼んでいた。
 私の書いたメモによるとこんな風に書かれている。

※11話では猪狩の妻がバットを寄せつけないのと対照的に、猪狩が平穏を求めて記号の町というかつて自分が慣れ親しんだ過去の世界へと足を踏み入れる。 (もっともそれは本当に慣れ親しんだ世界、というより現在の猪狩が振り返って美化した想像の世界に過ぎない。)

 メタの世界である。そしてその世界はマロミによって作り出されているのだが、それが分かるのは13話でのお話。
 今となっては何故こんな世界を混ぜようとしたのか、そのきっかけをさっぱり思い出せないが、それを思いついた場所はよく覚えている。「タン・ド・タン」という阿佐ヶ谷にある飲み屋である。おお、飲み屋のたわごとは百万の夢!
 シナリオ制作もまだ中盤に入る以前のことだったように思う。
 なぜそんな話になったのかはよく覚えていないが、「記号的なもの」について冗談を重ねているうちにひどく面白く思えてきて、記号的なものばかりを集めた 世界を「妄想代理人」にぶち込もうと思い立って、このアイディアを水上さんに投げたところ反応よく面白がってくれたと記憶している。

 記号ということについて書き出すとそれだけで超大作テキストになりそうな気がするし、私が「シニフィエ」だの「シニフィアン」だのよく分かりもしない言 葉を振り回して記号について論ずることが出来るわけもない。記号の代表的な例は言語・文字などであろうし、交通信号や標識、もっと高度な象徴まで含まれよ うが、ここではアニメーション制作現場で流通する「記号的イメージや芝居」というものに限って考えてみたい。
「記号」は私が日常的によく口にする言葉である。
「あまりに記号的だよね」
「記号じゃないんだから」
「記号的な芝居しか思いつかねぇのかよ」
 などなどネガティブなイメージで使用されることが多いかもしれないが、なるべくアニメ記号に陥らないように作っていきたいと思うので、記号という言葉に ネガティブな響きがともなうのは致し方ないのかもしれない。しかし説明をはしょりたい場合などは積極的に「ここは記号に頼ろう」などとも考える。
 アニメーションはその表現の90パーセント以上は記号の組み合わせで出来ていると言っても良い。記号無しでは成立し得ないとは思うのだが、日々無自覚に 使い続けている記号をせめて疑っても罰は当たらないと思われるし、疑うことでそれまでにない表現に結びつくことも多いと思う。
 以前、知り合いが「記号は自分で作るものだ」と豪語していた。確かにそうかもしれない。ただ記号は認知され共有されて初めて記号となりうるものだし、記 号化された時には形骸化してしまうことは幾多の例が証明している。記号を上手く利用しつつ記号の濫用に陥らないようにバランスを取り続けるしかないように 思われる。
 アニメーションに限らず、多くの創作物、また日常生活のコミュニケーションにおいても記号は非常に重宝され、それがなければ成り立たないことが多いだろ う。記号は偉大だ。記号は、もしその記号がなければ膨大になってしまう説明、積み重ねなければならない逐一の観察や考察などの多くの知的作業が先人たちの 多くの積み重ねと叡知によってパッケージされ、そして多くの人々に認知され共有されることでその記号は記号としての機能を果たすようになる。なので記号を 使用するということは、そこにパッケージされている多くの知的作業を短縮し、誰もが簡単に多くの知的作業を扱い得るという仕掛けになっていると思う。ここ に落とし穴が生まれてくるのだろう。
 元来、なにがしかの目的によって生まれたはずの記号は、その便利さゆえに一人歩きし始め、多くの知的作業短縮のためのはずだった記号たちは、記号さえ使 用すれば知的内容物を表現できるもの、といった転倒した順序にすり替わって行く。そして記号は濫用されるうちにその知的内容物すら忘却されて行くことにな る。
 考察があまりに粗雑な気がするがアニメーションの記号を考えるにはこの程度でも何とかなろう。
 よくたとえに出すのだが、「アニメ的な驚きの芝居」は記号の典型である。劇中、何か驚くべき視覚的聴覚的情報に接するとアニメのキャラクターたちは、得てして次のような芝居をさせられる。
「驚く前の顔→目をギュッとつぶって顔を少し下げる→大きく目を見開きつつ大きく顔を上げてセリフ“ええ!?何だって!?”等々」
 私の机の上にチェックのためにこのような原画が回ってきたら溜息を付く。そして先のセリフを記号的に口にする。
「記号的な芝居しか思いつかねぇのかよ、まったく」

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